夜 うるわしの少女 うるわしの少女
四 うるわしの少女
虚構なる現実。魔女とはそういう存在だと思っていた。嘘っぽい存在なんて言うことも出来るかもしれない。仮に目の前に魔女ですよって老婆を連れてこられて、ただ見ただけで魔女だと信じる人はいない。その力を目の当たりにしなければ、感じなければその人はただの人なのだ。では、どうして魔女という噂が起こるのだろう。古くには魔女狩りとしてたくさんの人が殺された経緯もある。確かに魔女だとされ、その人たちは殺されたのだ。国家の陰謀にしては少々規模が大き過ぎはしないか。つまりは、その力を目の当たりにした、感じた人がたくさんいたということではないのか。そういうことなのかもしれない。いや、そうなのだろう。メルヘンやファンタジーにいる魔女たちは、確かに現実にもいるのだ。そこに確かな経緯をもって。魔女になり得る素質を携えて。
私は鷲になっていた。こうして鷲になると様々なことがわかる。例えば、何故少女たちは『鷲』を飼っていたのか。何故、あんなにも調教されていたのか。また、どうして沢山の行方不明者がいたのか。その真相は。今こうして現実に魔法に曝されてやっと、全容が見えてきた。見えてきたが、今の私には何をすることも出来ない。しゃべることも、書くことも、抱きしめることも。そういうことが時と共に実感されてくる。大声で鳴いた、全力で飛び回った。涙を流すことすら出来ない。
人でなし。そう言われた気がした。きっと、そういう意味で動物に変えているのだろう。では、なぜ鷲か。鷲とは鷹の大きいものを指す言葉だ。空の王者、時にそう言われることともある。空の王者、空を制するもの、空を支配するもの。この空を理解すればよいのだろうか。
「どうして、私が高い所が怖くて、暗い所が怖いか知ってる」
確か、そんなことを言っていた気がする。高い、暗い、空。この夜空がヒントなのだろうか。眼下に潜むのは、光の届かない魔女の森。眼上に広がるのは輝くも暗い空。私は今、夜空にいる。夜空を感じていられる。森の中とは違うもの。一体なんなのだろう。
「おばあちゃんが言ってた。強く強くイメージすること。強く強くイメージすれば、なんだって出来るんだって」
おばあちゃんが魔女になった理由。それは悲恋によるものだった。彼女は強く強く願ったのだ。彼との生活を、彼との幸せを。故に、引き裂かれた事実に当惑し、悲しみ、憎悪し、その力が魔を作り出すに至ったのだろう。
いや、おかしい。おばあちゃんは魔女だ。願ったのであれば、手に入ったはず。魔法の力には限界があるのか。あるいは最大の願望が手に入らない代わりに補完するように得た能力なのか。ちょうど、右手を失った人の左手が器用になるように。そういう部分もあるかもしれない。
だが、腑に落ちない。おばあちゃんの人生。愛する者の讃美歌。あれは、彼の思いが詰まった作品。では、おばあちゃんは。おばあちゃんが感じていたものは何なのか。
例えば、願い事は全部叶うものだとする。そうするとおばあちゃんは当初彼と二人で静かに暮らしたいことを望んだことになる。そこは平易に解釈出来よう。でも、引き裂かれた。別れた。では、別れることも望んでいたとするならば、彼と過ごした数か月で何かが変わったということだ。そうまるで新婚さんの離婚のように。嫌いになった訳では無かろう。
おそらくだが、おばあちゃんは勘付いたのだ。自分と一緒にいても彼が幸せになれないと。彼は資産家であり、たくさんの人の生活を支え、関与してきた。時にそこに責務を感じ嫌になることもあっただろう。だが、その本質は、受け入れていたのだ。自分の境遇を。真っ向から取り組んでいたのだ。「た」を支えることを。そこにはきっと拒絶を通り越した生き甲斐があったのだ。おそらく。そして、二人で暮らし始めたその時に、彼は自分の世界に閉じこもってしまった。輝きを失ってしまったのだ。
愛する者の讃美歌の初稿が受け入れられなかったのはそういう部分かもしれない。自分の殻に閉じこもった小説はしばしば意味のないエッセイと評価され、プロの業物ではなくアマチュアの自己満に分類されがちだ。自己満の作品から窺い知れるのは、作品の内容ではなくその書き手のみだ。世界が開けていない。
似た者同士はよく集まると言う。似た特性を持った人はいつの間にか出会い、共に旅するのだ。人生を。最も近しいその人が運命の人として人生のパートナーとして共に生きる。その近しさ故に、相手の良いところと悪いところ、得意なところと足りないところ。そういうのが全部わかる。
おばあちゃんは、彼の伴侶として足りなくなったところを埋めたかったのだ。そして、もしかしたらそれは、彼自身も潜在的に望んでいたことなのかもしれない。その証拠に、たまには会えたであろう日々に会っていない。心だけを強く繋げ、彼とおばあちゃんは離れ離れに生きたのだ。
似た者同士は良く集まると言う。おばあちゃんと少女は出会い、惹き合った。その意味はどんなものなのだろう。
私はいつの間にか、鷲小屋にいた。少々飛ぶのが疲れたのだ。休む場所を他に知らなかった。どうやら少女はまだ帰っていない。鷲小屋に開いた窓からは直接的に少女の部屋が見える。窓の奥に見えるのは暗い空間が二重三重に凝縮されている箱だ。ブラックボックス。得体の知れない黒い塊。少女はどこなのだろう。
空を飛ぶ。森を見渡す。何も見えない。空を見る。星が輝く。何故だと疑問に思う。変だと自分を思う。
ああ、思考がおかしくなってくる。鷲になって身体が馴染んできたのか。少し、頭がボーっとしてきた。
少女は虐待されていた。少女は両親を失った。少女は優しい養父母に出会った。少女は家出した。少女はおばあちゃんと出会った。
「その名前で呼ばないで」
強い嫌悪感で刺された。ももという名前が嫌いなのだろう。どうしてか。虐待してきた親がつけた名前だからか。普通ならそう思う。でもきっと違うのだろう。少女の心根が一般に理解出来るものならば、養父母に解されて普通に生活出来たであろう。家出するには至らない。生き辛さがそこにあったのだ。生き辛さが。
虐待されて、親が死んで、優しくされて、ももと呼ばれて。優しさとは時に残酷なナイフとなり得る。乙女は神に優しくされ、二人は結果離れ離れになってしまった。優しさが二人を引き裂いたのだ。優しくされなければ、傍に居ることが出来ただろうに。
同情が生き辛かった原因なのかもしない。同情されたくなかった、少女は。その如何はわからない。
ああ、ヴぁあ
思考が重くなる。鈍くなる。何故だ。少女は考えさせる時間としてこの身体を私に与えたのではないか。宿題と言っていた。考えろと言うことではないのか。
風が鳴く
ヒューヒュー
風を切る
ヒューヒュー
風に乗る
ヒュー――
風が止む
風を身近に感じる。
自然を身近に感じる。
魔法を身近に感じる。
少女を身近に感じる。
魔法と共に少女の想いが身に纏わりついた。
複雑で、重くて、暗くて。
そんな思いが皮膚をなぞる。
凄く身近に感じられるのに。
言葉に出来ない不思議な迷宮。
知りたいと思った。
人間に戻りたいからではない。
宿題を出されたからではない。
寂しいだろうから。
孤独だろうから。
それはわかるから。
おばあちゃんはきっと、良き理解者だった。だが、真の意味での救済はおばあちゃんでは少女に与えられないのだ。自らもまた救済されていないから。出来るのは共存だけ。存在する方法。存在してもいいということ。認めること。夜空にも輝きがあるということ。待っているのだ。世界を突き破って引っ張っていってくれる人を。私はそれに気付いた。気付けた。だから、だから。
親というのはどういうものなのだろう。虐待されても中々離れる気になれないものだ。不思議と強い繋がりがある。虐待とはその強い繋がりが悪い方に作用する典型なのだろうが、その繋がりの根源は何処にあるのか。
母を思い出す。父は知らない。父の話はあまりしたことがない。故に私にとってはただの言葉でしかない。ただ、そこに不足は感じなかった。母が居たから。母は何でも創り出した。私の欲しいものは全て。愛も孤独も繋がりも。全て、全て。悲しみもくれた。十歳の時に。深く深い悲しみを。喪失するという虚無感を。私もまた、養父母に育てられた。養父母は優しかった。私はそれが嬉しかった。嬉しかったが、何も埋まらなかった。埋めることが出来たのは十年の間の思い出たち。私が小説に没頭した理由。私もまた、魔法使いになれた。足りないものを補完するようにそれは力となって私を支えた。魔法とは自らを支えるものなのだ。支えているものなのだ。
私の処女作は「風のなく頃」。私は私の中に吹く風を書いたのだ。それに養父母への感謝を込めて。風は無く、風は鳴き、風は泣き、風は啼き、風は哭いた。そうして風は亡くなったのだ。いや、亡くなってなどいない。亡くしたのは物語に帰結を生むためだ。私は嘘をついたことになる。大好きな小説において嘘をついてしまった。私はそれが嫌だった。だから、大賞を取ったところで嬉しくなんかなかったのだ。どうせ取るなら真実の姿で取りたい。真実の姿を晒したい。真実のままに。
似た者同士はよく惹き合うという。少女と私は惹き合った。片や真実を描くために、片や自分を克服するために。少女は高所恐怖症であり、暗所恐怖症なのだ。それを克服したいと言っていた。克服しようと取り組んでいた。
高い所が怖いというのはどんな風の趣か、暗い所が怖いというのはどんな風の趣か。ももという名が嫌だというのはどんな風が吹き荒むのか。
少女は私を鷲にした。空の王者だ。高い所を制するものだ。少女は森に住んでいる。暗い暗い森の中だ。少女は名前を嫌がっている。先入観から、偏見からは少女を窺い知ることは出来ない。
ああ、そうか。だから鷲なのか。
動物は本能のみで生きている。いや、少し語弊はあるが、色々と思い悩むことはしない。外からの刺激に対して素直に返すのが基本だ。ありのままを受け入れて、ありのままに生きている。いくら悩んでも、考えても、その人を知りえることなど出来ないのだ。ありのままを受け入れて、自然に話せばいいだけなのだ。勝手に想像して勝手に託けても、それはただ迷惑な話だ。名前というのはそういう勝手な部分がある。ありのままに受け入れることを阻害する。そんなイメージを伴っている。
ももという存在は、虐待され、交通事故で両親を亡くして、養父母に育てられた悲劇のヒロイン。いつの間にやらそうなっていた。その言葉の奥にある、裏にある。肯定的な少女を捉えることが出来ない。少女はきっと非常に明朗で快活で、純粋なのだ。
いや、もう考えまい。もう一度少女に会おう。会いたい。もう一度話したい。笑い合いたい。ありのままを見つめてみたい。
風を起こす
ヒュー―
何処に居るのか。家ではなかった。未だに崖か。いや、居ない。他にいるとしたら……滝か。そこくらいしか思いつかない。命の水が激しく流れ出るあの場所だ。勢いよく流れ出るその水は一瞬世界を飛び出して、新たな世界で流れ出す。私と少女が出会った場所。
きっと、そこにいるはずだ。
少女はいた。滝つぼに、全身を潤わせて。月と星々が少女を照らして。潤わしく、麗しく佇んでいた。少女は鷲を売っている。売る鷲の少女。
少女は滝を見上げていた。ぼんやりと、ぼんやりと。私は声を掛けようとした。だが、声は出ない。出るのは鳴き声だけだ。そんなものは滝に潰されてしまう。私は少女の周りを飛び回って見せた。しかし、少女はぼんやりしたままだ。
ここにきて、私は悲しんだ。自分が鷲になったことに。なってしまったことに。何も出来ない。何も伝えられない。抱きしめることも。
イカロスの翼という話がある。彼は世界を変えようとした。世界から飛び出ることで。幾ばくか傲慢になっていたのが災いしたのか。彼は飛び出ることは出来なかった。傲慢はさておき、その勇気は一級品だ。落ちることはわかっていたはずなのだから。私が今、翼を得て出来ることは世界から飛び出すことだろう。
いや、飛び出すことをしなければならない。この大きな翼と、鋭いくちばしで空を覆う膜を打ち破ろう。さあ月よ、星々よ。膜を破って見せるから、その光を存分に届けておくれ。少女に。あのうるわしの少女に。
私は滝と平行に空へと駆け上がる。ぐんぐん、ぐんぐん突き進む。
イカロスは太陽の熱にその蝋の翼が溶かされたらしい。だが今は夜だ。熱などには負けまい。
ぐんぐん、ぐんぐん突き進む。
幾分か空気が薄くなってきた。それと共に冷気が纏わりついてくる。昼は熱だが、夜は冷気なのだろうか。
ぐんぐん、ぐんぐん突き進む。
酸素が無い。身体が寒い。翼が上手く動かせない。あの膜までは後いかほどか。あの膜を破るまでは、進まねば。
ぐんぐん、ぐんぐん、ぐん
何かにぶつかった。くちばしの先に弾力性のある何かに。私の鋭いくちばしはきちんとそれを突けただろうか。弾き返される様に私は落ちてゆく。翼は動かない。息も出来ない。もう、何ももがけない。暗い世界が眼下に拡がり、その闇の中に吸い込まれていく。
ああ、そう言えば、そうして私は鷲になったのだった。ふと、そんなことを思いながら凍り付いた身体は落ちてゆく。なるほど、高い所はとても怖いものなのだな。暗い所はとても怖いものなのだな。動かせない、もがけない、為す術がないこの状況。なんと、途方のないことか。心が無になる。身体は強張る。もう、いい。どうにでもなれ。ただ一つ願いたい。強く強く願いたい。うるわしの少女。もう一度貴女と話したい。
ズバーン
噴き出る滝にぶちあたり、滝と共に流れていく。衝撃で身体が粉々になったようだった。水の中では様々なものが見えた。粉々になった身体の隅々を様々なものが包み込む。泣いて、笑って、怒って、怯えて、いつの間にか身体は温かくなっていた。
「大丈夫ですか」
少女が声を掛けてくる。身体が重い。濡れている。背中が、頭が温かい。少女が私を抱えている。
「うん」
言葉が出た。ぼんやりとしていた思考がはっきりとする。言葉が出た。人だ、人になった。意識を身体の方にゆっくり向ける。手がある、腹がある、足がある、動く。
「初めまして」
少女が微笑みながらそう言ってくる。話しましょうって言われた気がした。
「初めまして」
私は身体を起こし、少女に向き直ってそう応える。少女もまた濡れていた。
「何からお話ししましょうか」
いくらか微笑みが増して少女の言葉が活き活きしてくる。
「では、どうして家出をしたんですか」
私は一緒に微笑みながら、そんなことを聞いてみる。
「辛かったから、あの人たちの優しさが。息苦しかった」
少女はへロリとそう言った。
「そっか。私も昔はそう思うこともあった。私も孤児になったからね。でも、私はそれでも感謝したよ」
私もへロリとそう言う。
「う~ん。だって。嬉しくない」
少女は顔を伏せながら、考え込む。
「嬉しくないけど。嬉しいだろ。いや、有り難いことさ」
私は少女の目を、しっかり見るようにしながら言う。少女はそんな私の目を見て、また下を向く。
「まあ、そうなんだけど」
少女はやはり少女だ。なんだか可愛らしい。十七歳というが、心はまだ純だ。その純は輝かしいものでもあり、危ういものでもある。
「連れ戻しに来たとき、どうしたの」
探検隊やら何やらが探しに沢山来たはずだ。全員行方不明ということだが、どうしたものか。
「鷲に変えちゃったよ。でも、大丈夫。もう戻ってるよ。わたしのことは忘れてると思うけど」
なるほど、そういうからくりか。まあ、そう聞いて安心する。少なくても人殺しではない。
「なろほどね。虐待もされてたんだっけ、そう言えば。そう聞いたんだけど。辛かった」
もう一つの疑問を聞いてみる。
「辛かったかなぁ。よくわからない。嬉しくなかったというか、面白くなかったというか。あんまり食べ物作ってくれなかったり、学校に行ったりするの、全然関係ない感じだった。忙しかったから。しょうがないのかなって。優しい時もいっぱいあったし。イライラしてる時もあったけど、なんか不器用なんだなって」
少女の中ではまだ整理がついていないことのようだ。傍から言わせれば、ひどい親だが。傍から見るほどに少女は嫌悪感を持っていない。
「お母さんたちが死んだとき。凄く悲しかった。もっと一緒に居たかった。愛し合いたかった。なんか、やるせなかった」
嫌悪感だけが先立っていれば、一緒に居たいとは思わなかったろう。おそらく彼女ら親子は時間が無かったのだ。過ごした時間が、経っている時間に比べて少な過ぎたのだ。……おそらく、か。
「もっと、一緒に居たかったんだね。私もそうだった」
自分と重ねてみる。いや、重なる部分がある。なんだかんだで似た者同士だ。
「私も母を早くに亡くしてね」
「魔女のお母さん」
「そう、魔女のお母さん。父のことは知らない。生まれた時からね。だから、お母さんとずっと一緒に居た。でも、そのお母さんも居なくなってしまった。もっと、一緒に居たかったよ」
自分をありのままに語るというのは、どこか恥ずかしいものだなと思う。私は小説を書いているので、自己を表現することが多いのだが。こう、直接的に語ることは少ない。世間一般の美意識の問題なのだろうが、ありのままというのは美しくないのだとか。
「一緒に居たいよね」
少女と私で違うところは、少女は適切な愛情を求めんがためにもっと一緒に居たかったのであり、私は単により長く愛情を感じていたかったというものである。まあ、全部が全部同じというわけでもあるまい。
「帰ろっか」
身体が濡れているというのもあって、だいぶ肌寒さを感じ始める。このままだと、二人とも風邪を引く。
「そう言えば、服は回収出来た」
そうだ、そもそも服を取りに来たのだと思い出す。
「うん。私は着替えある」
と、同時に崖から落とされたのも、鷲にされたのも思い出す。いつの間にか、滝に居る。
やはり魔法なのだよな、と改めて思う。
「私だけ損してないか」
そんな言葉を投げかける。と、少女は笑い出した。
「気のせい気のせい」
イラッとするよりも笑いの方が先行する。もう、笑い話だ。
「早く風呂に入りたい」
と、歩き出す。散々飛び回っていたから、もう道はわかる。
「うん、二人で入ろーー」
リズミカルに少女がしゃべり出し、
「一人で入る」
スパッと少女の発言を切る。そりゃまあ、男にとっては夢のようなことなのだが、なんというかゆっくり入りたいのだ。ゆっくり出来ない。
「なんでぇ。もう裸同士で語り合った仲じゃん」
それは同性に使う言葉ではなかろうか。どこまでが本気なのか、疑わしい。うん、疑わしい。疑わしいか。いや、待て、これも、か。
「誘ってるのか」
言いながら目を伏せる。もう私を殺してくれ。いや、もう殺されている気がする。悩殺とはこのようなときに使うのか。
「さっきから誘ってるよ」
いや、馬鹿。そう意味ではない。ああ、もう何故言わせるのだ。
「そうじゃなくてだから、その、男と女という性別の違いを分かって誘ってるのか。彼にも君ももうそろそろいい大人だろう」
こんなにも言葉を発するのに疲れることがあろうか。あまり妄そ、想像すると鼻血が出そうになる。テレパシーでも使えないものか。
「関係ないじゃん」
関係あるよ。
「そんなにやなの」
嫌じゃないけど嫌だ。
「じゃあ、お風呂じゃなくて、一緒に寝よっか」
ど、ど、ど、ど阿呆。
「どう」
どうじゃない。どうじゃないだろう。い、一緒に寝るだ。一体どれほどの意味を持ってこやつは口にしているんだ。どれほどのーー。どれほどの……。はぁ。
「わかった。隣で寝るだけな」
何か凄く負けた気がする。だがもう疲れた。彼女の好きにさせよう。いつか必ず仕返ししてやるからな。と言いつつ、思い浮かべたのは風呂を誘い返すということだったが、効果はなさそうだ。私はこれからずっと、少女に翻弄されていくような気がする。
森の道がさほど暗く無く感じるのは何故だろうか。少女も私も懐中電灯を持っているから。いや、そんな陳腐な理由ではあるまい。月と、星々の光が地面までしっかり届いて来ているのだ。少しばかし枝葉が開けているのだろう。
隣で歩く少女は屈託なく笑っている。その顔を見ると王様になったような気分になる。この国の繁栄は私の手によるものだ。私の手でこの繁栄を守ってゆきたい。この国を大きくしてゆきたい。
「そう言えば、暗い所はもう大丈夫」
宿題が他にもあったのを思い出す。
「うん、もうそこまで暗く感じないから」
少女は胸の奥から清々しい風を吹き起こす。森の匂いが立ち込めるようだった。
「高い所は」
「大丈夫だよ。もう下じゃなくて、前を見ればいいから」
ぐわんと胸の前から一歩、少女が大きく進んだように見えた。崖だと思ったその先は、地平の彼方へ続く道だったようだ。
「そっか」
真っ暗な木、真っ暗な道。その先を見つめると、暗闇に飲み込まれそうになる。そんな森もいつの間にか色味を帯びていた。木の幹の茶色、木の葉の緑、砂利の灰色。薄暗い中にもその色彩がわかる。なんだ、案外と普通の森ではないか。
家が見えた。純粋なる乙女が住む家だ。私は乙女ではないが。戻ってきたという気分になった。一緒に住めるだろうか。ふと、隣の少女を見る。少女も何故か私を見ていた。ドクン。鼓動が森に響き渡った。
涙ぐましき潤わしの少女
容姿端麗な麗しの少女
鷲を売っている売る鷲の少女
純粋無垢なうるわしの少女
風がなびく
穏やかになびく
豊かになびく
鷲が空を舞っている
夜の明かりに照らされて
輝きを全身に纏わせて
ああ、心地良い
綺麗だな
自由に、優雅に、羽ばたいている。
宜しければ、評価、感想など頂けると嬉しいです。




