第5章 ―二式中戦車―
昭和十七年五月二十日―――
目の前をソビエト軍の様な大型戦車が吊り上げられて行くのを、私は目を丸くして眺めていた。
呉港から熊野丸装載の伝令艇に乗り、私が母船に帰った時、船の積載作業は佳境に入っており、強力曳船に曳航された数隻の大団平船には加農砲や迫撃砲、戦車などが積まれ、デリックで船内へと積まれている最中であった。
船へ戻った私は、船橋で議事報告と作戦の説明を終わらせ、飛行甲板でしばらく積載作業を眺めていた私の目の前、その巨大戦車が現れたのだ。
九七戦車、良くて一式戦車を持って行くのだろうと考えていた私は、その初めて見た戦車に仰天したのである。
「あれは、二式中戦車チヌであります。」
いつの間にか、私の横には博識の海津操舵員が立っていた。
「アメさんの戦車に対抗するため、海軍が二式戦車として開発したもので、先日になって陸軍でも二式中戦車として制式採用されたものであります。
確か陸海軍再編に対する叛乱の時に、かの辻参謀がチハ車の砲で二式戦車を攻撃したけれども、簡単に弾き返してしまったとか・・・・」
陸軍が空母を作っている時に、海軍は独自に戦車を作っていたというのか。
非合理すぎる。帝国陸海軍はあまりに非合理すぎるとしか思えない。
辻参謀がどうのという話題よりも、私はそんなことを考えあきれ返っていた。
それに、海津上等兵はなぜこんな軍機物であろうことについて詳しいのであろうか。
少しの疑惑と不審が頭に浮かんだが、そんなことを考えている暇など無かった。
「山汐丸」には陸軍工作船が横付けし、最終的な整備が行われ、「あきつ丸」では既に発動艇の搭載が始まっていた。
兵器の搭載を終えた強力曳船と大団平船が熊野丸から離れると、船尾の観音開の格納扉が轟音を立てて開帳し、格納用滑走台が姿を現した。
いよいよ上陸戦の横綱、発動艇の登場である。
無数の見慣れた大発動艇が綺麗な隊列を組んで近づく中、見慣れぬ大型発動艇が数隻、一際異彩を放っていた。
「海津操舵員、あれはなんだ」
彼は眉間に皺を寄せ、あまり見ない様なしかめ面をしていた。
「申し訳ありません。あれは私もさすがに分からないであります……。ただ、大きさを察するに、先程の戦車を搭載するのではないかと考えるものであります。」
「ほぅ……あんな大きなものをわざわざ上陸に使用しなければならんのかね……。確か海軍の水陸両用戦車も参加していたはずだが……」
「我々陸軍に対する当て付けでしょうか……」
私は険しい顔つきの海津操舵員の肩を軽く叩き
「ハハハ、それは無いだろう。あの弾井少佐のことだ、アメさんを倒すには圧倒的な戦力が必要だということだろう。」
弾井少佐のことを知らない海津操舵員の怪訝な顔をよそに、私は晴れた広島の空を仰ぎ見た。
上空を、第一部隊の一式戦が飛んでゆく。
その先では連合艦隊の大戦艦や空母がその雄姿を誇っていた。
私は飛行甲板を後にして、船橋の司令室に戻った。
誰も彼もが齷齪と忙しく動き回り、機器機材の入念な確認をしている最中であった。
かの戦車は既に団平船からデリックで搭載されていたため、代わりに物資弾薬を大量に積んだ大型発動艇――竹島揚陸参謀によれば「大発動艇F型」と言うらしい――に続いて、陸戦隊の兵員や軍属を載せたお馴染みのD型大発動艇が、滑走台から次々と搭載されてゆく。
滑り台によって効率的に搭載発進を行うとは、陸軍ながら良く考えたものだと、私は今更ながら考えていた。
この作戦は、陸軍船舶部隊が総出で行う今戦争では最大の上陸作戦であって、陸軍船舶史上最大規模の輸送船百七十七隻、十一万人が参加した杭州湾上陸戦はもとより、支那事変における太沽上陸戦・バイアス湾上陸戦、今戦争におけるマレー上陸戦・スラバヤ上陸戦などの戦闘を踏まえた作戦であり、海上戦闘師団や海上飛行師団のその多くの戦力が揚陸師団の指揮下に入り、今作戦に挑もうとしていた。
司令部船である「神州丸」には装甲艇・駆逐艇・高速艇と言った戦闘師団の舟艇が搭載され、我々の船にも特殊発動艇や大発動艇といった舟艇が搭載されている。
海軍の潜水艦部隊は既に出航せんという具合であり、連合艦隊の主力艦隊と我が陸軍船舶部隊の作戦準備も、そろそろ佳境に入っていた。