プロローグ いずれ絶望する貴方へ
――大きな音が、聞こえた。
音の正体が気になるのに、自分は今朝の出来事を思い出した。
起床時間を盛大に間違え飛び起き、すぐに出掛ける準備をした。急いでいる自分とは違い、無関心にテレビだけを見ていた両親の姿が腹に立ち、口から勝手に嫌味が溢れていた。ハッとして慌てて口を押えたが聞こえていた様で、何か言い返そうと鬼のような形相で近寄ってくる二人から逃げる様に外に飛び出した。朝食を食べ忘れたと気付くのは、駅に着いて安堵した時だった。
今思うと、いくつか気になることがある。確かに前日、目覚まし時計をセットした筈だ。鳴った覚えはないが。それに、自分は人の前で嫌味を言えるような性格だっただろうか。空腹を訴え続ける腹が痛い。
――今度は、悲鳴が聞こえた。それより朝の回想を続けなくては。
その後も不運に見舞われ、判断ミスによる電車の乗り間違い、車両トラブルによる緊急停止、解除され乗り換えた先での満員電車、それらを全て乗り越え漸く目的の駅に着いた時点で、もう既に疲れ果てていた。
何故自分はこんな目に遭ってまで、出掛ける事を続けたのだろう。
確か、何か、大事な用事があった気がするが上手く考えが纏まらない。それどころか頭が痛くなってきた。ダメだ、思考を、止めては、いけない。そんな気がする。
――そうだ、友人との予定があり出掛けたのだ。
しかし約束した時間に現れない自分に、しびれを切らした友人は集合場所を離れ近くの喫茶店に移動していた。その連絡を確認したのと、駅に到着したのはほぼ同じタイミングだった。自分の不甲斐なさに思わずため息がでた。
だが、あと少しで合流出来ると気合いを入れ直し。まずは連絡だ、と友人に返事をしようと携帯電話を操作した。しかし急に頭上が陰り、何事かと確認しようと上を向いたら、大きな音と、悲鳴と、痛みが……。
――嗚呼、返信は送れただろうか。
* * *
正午過ぎの平日の駅前。
休日には多くの人々が訪れ賑わうことで有名な駅だが平日だとそれもさっぱり薄れ、比べてしまうと圧倒的に人が少ない。しかしそんな極ありふれた日常を破壊する様な喧騒と、野次馬の群れが現在できていた。
“とある人物“を中心に周りの人々は囲む様に様子を伺っていた、そんな中で一人がそっと携帯電話を取り出しパシャりと撮影をした。それに気付いた同行者が小突いて注意したがそれとは別方向からまたパシャりと。それを見ていた別の人もパシャりと。パシャり。パシャり。パシャり。パシャり。
最早人物を心配する声はなく、シャッター音と人々のはしゃぎ声だけが蔓延した。そんな徐々に狂騒と化していく群れを、離れた所からじっと見つめる一人の“少女”がいた。
年頃は五、六歳程度。背中まである黒髪と切り揃えられた前髪。顔はこの世の者とは思えない程可愛らしく、透き通る白い肌も相まってまるで陶器製西洋人形のようだ。しかし格好が些か奇妙で、背中が大きく開いた膝丈の白いノースリーブワンピースは少女にとても似合って居るが何故か裸足である。
一人でいる事や、裸足である事、ただ可愛らしいから。話かける理由など幾らでもある。しかし誰一人として少女に話しかける事も、視線を向ける事もなかった。
そんな少女は誰に邪魔される事なく様子を眺め続けた。だが代わり映えしない光景に次第に飽きて立ち去ろうと一歩踏み出した時、足元に何か違和感を感じ下を向いた。アスファルトの上には誰かの携帯電話が落ちていた。
画面にはヒビが入り四隅などにも傷や凹みがあるが何よりも、”赤い液体“が所々に付着しており拾う事を躊躇させる。だが少女はそれらを一切気にする事もなく拾い上げ動作を確認した。するとメールの制作途中で止まっている事に気付いた。未だ続いている群れと見比べた後、画面に対してにいっと嗤った。しかしそれは一瞬で消え失せ、おもてを上げた時には愛らしい笑顔になっていた。
そして携帯電話を落とさないように大事に抱え込み、野次馬に向かって駆け出した。
通行人とぶつかる事なく後ろまで到着し、群れの隙間を縫うように進むと中心で一人だけで仰向けに
なって倒れている人物を見つけた。その人物の顔の近くでしゃがみ込むと無邪気に手に持っていた物を差し出す。
「はい、これ。貴方の物でしょう?向こうに落ちていたの」
「……い……ぁ……」
「ん?ああ、ちょっと壊れてるけど電源はついたよ。だから大丈夫だと思うの」
「……………ぃ」
会話は成り立っておらず。周りに人がいる筈なのに指摘する事も、邪魔する事も、助ける事もない。そんな二人だけの空間で、少女だけが一方的に話を続けた。
「受け取らないの?」
「……っつ…ぁ……」
その言葉に腕を動かそうとするが、全身に痛みが走り小さなうめき声をあげた。それに気付いた少女は持っていた携帯電話を血塗れであらぬ方向に曲がっていた手に握らせ満足するように頷いた。褒められるのを期待しながらそわそわとするが、観察していた人物の口元が僅かに動いた事でピタリと動きを止め、ゆっくりと両手を頬にあて、ニンマリとした顔で続きを促した。
「なぁに?」
「た……す、けて」
絞り出すような声で、人物は救済を求めた。いや、求めてしまった。
その言葉を聞いた途端、箍が外れたように少女は歓喜に包まれた。そして勢いよく立ち上がるとまるで舞台俳優のように芝居がかった口調で喋りだした。
「……えぇ、いいでしょう、いいでしょう!」
意識が朦朧としていた人物に少女の姿や言葉を認識することは出来なかった。だがそれで良かったのかもしれない。少女は『たすけて』と聞いた途端からまるで悪魔のように口元を吊り上げ嗤っていたのだから。
「“私”が助けてあげる。安心してお姉さん」
彼女を救ったのは決して希望の光ではない、これは絶望の始まりだ。
誰かの視点による話なので、前後関係の違いはワザとです。