8
フィラルシーの命は、本来ならばあの魔物との決戦の時に、失っていたのだ。
だが、フィラルシーにも課せられた「役目」があったのと、エステファンが残された自分の「寿命」を使う決断をしてくれたおかげで、あの戦闘神が、フィラルシーを蘇らせてくれたらしい。
だから。
エステファンが死んだ後、二日後にフィラルシーが死んだのは、「寿命」だったのだと。
そう、オリガは言った。
実際、エステファンにしてもフィラルシーにしても、ほんの数日前までは、元気だったのだ。
それゆえにリースの者達も、本当に二人の相次ぐ死には、大きな衝撃を受けていた。
考えもしなかった、というのが本音だろう。
「……オリガ様は、いつからそのことをご存知だったのですか?」
雪の降る外を、温室の窓越しに見つめながら、フィリシアは言った。
リースの館の中庭には、小さい温室が建てられていた。
そこには、雪が深いリースでは、なかなか見られないという、小さい花の鉢が、幾つか置かれていた。
この温室で、花の手入れを、フィラルシーはよくやっていたと、アスティンは言っていた。
葬儀の準備が進む中、「客人」としてのフィリシアやオリガは、リースの者達が気を使わないように、与えられた客間にいた。
だが、フィリシアは降ってくる雪を見つめていると、どうしてもじっとしていられなかった。
だから。
思い余って、館の庭に出て―温室があるのに、気付いたのだ。
そこには、オリガが先客として来ていた。
温室は、エステファンが何か「力」をかけていたのか暖かく、外では雪が降っているとは思えないほどだった。
しばらくの間は、二人とも黙っていたが、やがて、オリガが話し出したのだ。
フィラルシーが、エステファンと残りの寿命を分け合っていたことを。
その話を聞いて、フィリシアは最初、オリガは何もかも知っていたのではないかと思った。 だが、オリガの返事は意外なものだった。
「ここに来る時じゃ。アルロと話していて、気が付いた」
「え……?」
その言葉に、フィリシアは振り返った。
アルロとは、あの戦闘神のことだ。
『姉上も、わかっていらっしゃるはずです。あの娘は、夫と共に己が役目を果たしました。その役目を果たした今、我らが世界に戻るのが道理と言うもの』
その瞬間、フィリシアは戦闘神のこの言葉を思い出す。
「あの子の果たす『役目』は、確かにあった。だがその『役目』を果たす前に、あの子は一度、死んだのじゃ。だからこそ、アルロはエステファンの『寿命』を使い、あの子を甦らせたのじゃろう。……死に逝く者を甦らせるのは、本来は許されぬ」
そう言ってオリガは、温室の中央に置かれた、ピンク色の花を咲かせた鉢に手を触れた。
「私の命を、使ってくれたら良かったのに」
だが、ボツリと呟いたフィリシアの言葉に、オリガは、はっとなって顔を上げた。
「そうでしょう? オリガ様。私の命の分も、使ってくだされば、フィラルシーは……っ」
「そのようなことを申すな、フィリシア!」
そして、フィリシアの言葉を遮るように、オリガは言った。
「オリガ様……」
「そのようなこと、あの子は望んでおらぬっ」
それは、とても厳しい声だった。
「では……私は、これから先、どう生きればいいのですか?」
「フィリシア……」
「フィラルシーがいないのに……どう、生きろと言われますか!?」
ずっと、自分を支えてくれていた存在は、もういないのだ。
皇妃という重圧に耐えられたのは、「フィラルシーのために」という思いがあったからだ。
それは、確かにつらいことだった。
だが、それ以上に、フィリシアは、戦いで傷ついたフィラルシーを、見たくはなかったのだ。
「ならば、自分のために生きたらどうじゃ?」
ビンクの花の鉢の前にしゃがみ込み、オリガはそう言った。
「オリガ様……? 」
「花はな、フィリシア。自分のためだけに咲く。人間がその花を見て、どう思うのかなど、考えもせぬ」
「……」
「そなたも、自分のために生きたらよい。それが、フィラルシーの望みでもある」
『幸せに、なってね』と。
それが、最後の言葉だった。
「そなたにしかできぬ生き方で、幸せになってみるがよい」
ピンクの花を優しく触りながら、オリガは言った。
「私に……できるでしょうか?」
「できるに決まっておろうが。そなたは、おそらく自分で思っている以上に強いぞ」
「そうでしょうか?」
「ああ。そういうところは、セーレン殿によく似ておる」
そう言って、微かにオリガは笑う。
その表情は、哀しげでもあった。
その瞬間、フィリシアは気付いたのだ。
自分は、愛しい異母妹を亡くした。
そして、オリガは、愛しい自分の娘を亡くしたのだ。
だけどこの女性は、己が抱える「哀しみ」を、自分の前では表さない。
多分……フィリシアの前で自分が泣いたら、よけいにフィリシアを哀しませてしまう、と思っているのだ。
「そなたにしか咲かせぬ花を、咲かせてみろ。わたくしとも、フィラルシーとも違う花を」
哀しみを内に秘め、それでも微笑むオリガは、とても美しかった。
と、その時だった。
キイと音を立て、温室のドアが開いた。フィリシアは、視線をオリガからそちらの方に移した。
「ロイドか」
しかし、オリガの方が、先にその子の名を呼んだ。
ドアが開いて入って来たのは、自分と同じ茶色の髪と、夫と同じ、青い瞳を持つ子どもだった。
フィリシアは、その子が三ヶ月になった時に南都公主の館から皇宮に戻り、それ以後一度も会っていなかった。
その後すぐ、ロイドはリースから迎えに来たフィラルシーに、託されたからだ。
母親として、接することがほとんどなかった我が子を、フィリシアは見つめた。
「あの……お客様です……」
少し緊張した声で、ロイドは言った。
「客?」
聞き返したオリガに、ロイドは頷いた。
「僕達の、お爺様だって……」
「公が、着いたようじゃな」
そう言って、オリガは立ち上がった。
父も、わざわざ南都の方から葬儀に参加するために、訪れることになっていたのだ。
「私が、行きます。オリガ様は、こちらでお待ちください」
フィリシアはそう言いながら、ロイドの方に、一歩進み出た。
その瞬間、ロイドはビクッとなった。
その反応に、一瞬、フィリシアは胸の痛みを感じた。
だがそんな反応をした我が子を、責めることはできないことは、わかっていた。
ずっと、母親として接していなかったのだ。
それなのに、いきなり「母親」と言われる人間が現れて、とまどうのは、むしろ当たり前のことだろう。
五年前。
あの場所で、フィリシアは自分を保つことが精一杯だった。
ロイドを育てる余力は、どこにもなかった。
その事実は、今でも変わらない。
でも、支えてくれた、あの明るく優しい異母妹は、もういないのだ。
「案内してくれますか? ロイド」
努めて落ち着いた声で、フィリシアは言った。
ロイドは、緊張した面持ちでフィリシアを見ていたが、こくんと頷いた。
「こっちです、……母、様」
どこかぎこちなく、ロイドはそう言った。
ロイドに続いて外に出ると、雪が頬に当たった。
白い息を吐き、ロイドはフィリシアの前を歩いていた。
その歩き方は、しっかりとしていて、時々こけそうになる自分とは、大違いだった。
それだけ、このリースの暮らしに馴染んでいるのだろう。
フィリシアも、そしてロイドも何もしゃべらず、黙って歩き続けた。
「フィリシアか」
そして、父は中庭の手前の通路に、案内もつけずに来ていた。
だがその腕の中には、もう一人の孫である幼子がいた。
金色の髪と緑の瞳を持つ彼は、父親とよく似ている。
「父上が、呼びに行かせたのですか?」
フィリシアは、自分の娘の忘れ形見を抱く父に、少しだけ目を見張った。
愛情深いオリガはともかく、父は、あまりそんなことをする人ではなかったはずだ。
「そなた達が、部屋にいなかったからな。客室に戻ろうとしたが、この子達と廊下で会って、一緒にそなた達を探しておった」
「この人、僕のおじい様なの?」
父の腕の中の幼子が、少し小さい声で、フィリシアに聞いた。
その声は、幼い時のフィラルシーに似ているような気がした。
「そうですよ、アルロ。この人は、あなたのおじい様に当たる人です」
幼子の名は、「アルロ」と言った。
あの戦闘神と同じ名を、どうしてフィラルシーとエステファンが付けたのか、フィリシアにはわからない。
いつか、わかる日が来るのだろうか。
「そしてな、この人は、お前の伯母上に当たる人だぞ。お前の従弟のロイドの母様だ」
父は、そんなことを腕の中のアルロに言ったが、その言葉を聞いたとたん、ぴくりっと体を動かしたのは、父のすぐ傍に立っていたロイドだった。
「父上……オリガ様は、温室にいらっしゃいます」
そう言って、父の抱くアルロに手を差し出した。
「フィリシア?」
「行って差し上げてください……あの方は、私の前では、泣けません」
その言葉に、父ははっとした表情になった。
「……多分、父上の前でしか、あの方は泣けないのでしょう」
実の娘を亡くして。哀しくないはずがないのだ。
前世が神であろうが、不思議な力があろうが、実の娘を助けることができなかったのだ、あの女は。
理性では、きっとわかっているだろう。
だが、感情は。心の底にある、思いは。
「わかった」
父は頷くと、アルロをフィリシアに渡し、中庭にある温室へ、雪を踏みしめながら歩いて行った。
「……ロイドの、母様?」
緑の瞳が、どこか不思議そうにフィリシアを見た。
「違うよっ……」
だがそれを遮るように、ロイドが言った。
夫と同じ青い瞳が、涙ぐんでフィリシアを見上げていた。
その言葉に、ショックは受けなかった。
それが当たり前であることを、フィリシアは十分にわかっているつもりだった。
アルロを抱きかかえたまま、フィリシアはロイドの傍に座り込んだ。
「私は、あなた方の母親の姉になります。伯母上でも、フィリシアでも、好きに呼びなさい。無理に、母様と呼ばなくてもいいです」
その言葉に、幼子二人は互いの顔を見合わせた。
「ただ……傍には、いてくれますか? そして、話してください。あなた方が知っている、フィラルシーとエステファンのことを。あなた方のお母様とお父様の話を、私にたくさんしてください」
冷えた廊下から見える中庭には、まだ雪が、たくさん降り続けている。
この寒いリースで、フィラルシーはどんな風に生きていたのか。
どんな風に子ども達を育てたのか。
抱いていたアルロが、そっとフィリシアの頬に手を触れた。
そうして、そっとなでてくれる。
フィリシアは、その時初めて、自分が泣いていることに気付いた。
『ごめんね……ちゃんと、ロイドを育ててあげられなくて……』
最後の最後まで、優しかった異母妹。
遺していく子ども達にも、きっと、何か言い残したいことはあっただろう。
だがそれ以上に、自分のことを案じてくれたのだ。
案じて、最後の言葉を残してくれたのだ。
『幸せになってね』と。
「フィラ……」
残された子ども達を抱きしめながら、静かにフィリシアは泣き続けた。
多分これが、子ども達の前で泣く最後の姿になるだろう、と思いながら。
白い三人分の息が冷えた空気の中に舞い上がり、そして混じり合いながら、やがて消えていった。
「離縁?」
その言葉を皇妃が口にしたとたん、皇帝の表情は変わった。
恋人でもあり、主君でもある男の後ろに控えながら、アスティンは、異母妹を悼むために喪服のドレスに身を包んだ皇妃を、信じられない思いで見つめた。
「ええ。もちろん、今すぐにではありません。ですが、あの子達が無事『成人の儀』を迎えたあかつきには、私は、皇妃の座から辞させていただきます」
「何を馬鹿なことを……」
皇妃から視線を逸らしながら、どこか喘ぐような声で、皇帝は言った。
「いえ、真実のことです。私は、皇妃の座を、辞させていただきます」
それに対し、皇妃は茶色の瞳を真っ直ぐに皇帝に向けている。
「我が国に離縁をした皇帝夫婦など、おらぬっ」
たまりかねて、皇帝は叫んだ。
「前例など、作ってしまえばよろしいのですよ、陛下」
しかし、皇帝の怒鳴り声に臆することなく、皇妃は言った。
「それにあの子達が成人するまでに、十年はあります。ある程度の手を打つには、十分な時間ではありませぬか?」
「フィリシア……」
呆然となり、皇帝は皇妃の名を呼ぶ。
「何故だ? 何故、そなたは離縁など望む?」
「陛下。私は、自分の一生を、全てあきらめて過ごしたくはないのですよ」
「子は?ロイドやアルロは、そなたを支えるものではないのか!?」
そう。
今の皇宮には、皇太子として戻って来たロイドと、その遊び相手として、リースから引き取られたアルロがいるのだ。
アルロを皇宮に引き取ることは、最初アスティンは反対した。
『何故だ? 『文始めの儀』が済んだら、ガレリーナの訓練のために、皇宮に上がるだろう。それが少し、早くなっただけじゃぞ?』
皇帝の姉であるオリガは、アスティンにそう言った。
『オリガ様。アルロは、このリースの跡継ぎです。跡継ぎの者が、領地から離れることは、好ましいことではありません』
『では、そなたは、リースに残るのだな? あの子が無事、成人するまで』
だが、次の瞬間、オリガの言った言葉は、衝撃的だった。
『オリガ様……?』
『そうであろう? あの子は、父母を亡くしたばかりの幼子。まさかあの子を一人、このリースに残し、おめおめと皇宮に戻るつもりではおるまい?』
艶やかに笑いながら、オリガは言った。
今までアスティンが皇宮専属のガレリーナとして、恋人である皇帝の傍にいれたのは、一重にエステファンとフィラルシーが、このリースを守ってくれたからだ。
それが二人亡き今、残されたのは幼いアルロと自分のみ。
だがアスティンには、皇宮での役目があった。
それに、魔物の活動も収まった今では、リースを守るには、信頼できる家臣達にアルロを託しても、十分にやっていけるはずだった。
『信頼できる家臣は、このリースにもおりますっ』
『父母を亡くしたばかりの子を、たった一人残すと? それでそなたはいいが、アルロはどうであろうな』
容赦のない追及を、オリガはした。
水と平和の神・ユスと同じ黒髪・黒い瞳を持つ彼女は、情の深い優しい人だと思われがちだ。
だが、その一方で。
人を容赦なく追い詰め、自分の思い通りに事を進める策士家の一面も、持っていた。
これは、皇宮の重臣達ならば、誰でも知っていることだった。
『皇宮であれば、叔父であるそなたも傍におるし、共に育ったロイドや、伯母であるフィリシア、大叔父のエドアールもおる。決して、悪い話ではないと思うがの』
言葉にしたらその通りだが、ようは、アルロを皇宮に連れて行かないのならば、お前は皇宮から出て行け、と言っているのだ。
そうして、その通りにこの女はするのだろう。
弟である皇帝がいくらそれを阻止しようとしても、効果はない。
特に、自分の存在を苦々しく思っている家臣達には、絶好の機会となるはずだ。
アスティンは結局、アルロと共に皇宮へ戻るしかなかった。
しかし、後から思い返してみると、オリガが自分を脅してまでアルロを皇宮に引き取らせたのは、確かに幼いアルロを案じたこともあるだろうが、おそらくは、フィリシアのためだったに違いない、と思い付いた。
仲の良い異母妹を亡くしたフィリシアが、哀しみに負けずに、生きていけるように。
そうして、半ば脅すようにアスティンに言ったのも、ああ言えば、アスティンが罪悪感を抱かずに済む、と判断したからだろう。
わかってはいる。自分の幸せは、この皇妃の哀しみの上に成り立っていることを。
だが、恋人と離れることはできないのだ。
だから。
ロイドやアルロが傍にいることで、皇妃が少しでも救われるならばーと、リースの者達を説得したり、頻繁に戻り、領主代理の仕事もこなしたりしていたのだ。
「子は、いつまでも傍にいるものではありません。いつかは、巣立ちます」
迷いのない声で、皇妃は言い切った。
「フィリシア……」
絶句する皇帝に、皇妃は微笑んだ。
「私は人形のまま、一生を終わるつもりはありません」
そうして一礼すると、そのままきびすを返して、部屋を出て行った。
苦い表情でため息を吐く恋人を横目で確認しながら、アスティンは、皇妃を追いかけた。
「お待ちください、皇妃様っ」
声をかけると、廊下を歩いていた皇妃は、振り返った。
肩に流した茶色の髪がふわりと揺れ、茶色の瞳がアスティンを見た。
「どうしたの? アスティン」
……一瞬、時が戻ったのか、と思う。
あの頃。
こんな風に、皇妃はアスティンに話しかけていた。
「フィリシア様……」
それに釣られ、つい昔の呼び方をしてしまう。だが、すぐにそれに気付いた。
「皇妃様……本気なのですか?」
「離縁のこと?」
「はい……。何故に、離縁など……」
この国では、離縁はほとんどない。
まして、皇帝夫婦が離縁するなど、前代未聞だった。
おそらくは、とても「恥ずべきこと」として、国民達には受け取れられるだろう。
だが、皇妃は―フィリシアは静かに笑った。
「アスティンは死ぬ前に、誰と話したい?」
「え……?」
その問いに、一瞬、アスティンは戸惑った。
そうして、すぐに恋人の顔を思い描く。
亡くなった双子の兄も、亡くなる直前には、やはり死の淵にいる自分の愛する妻の名を呼んでいた。
自分や、子ども達が傍にいたのにもかかわらず。
「フィラは……死ぬ前に、私と話しをしたけれど」
フィリシアは、アスティンの義理の姉のことを、「フィラ」と愛称で呼んでいた。
そして、フィラルシーも、フィリシアのことを「フィー」と呼んでいた。……とても仲が良い、姉妹だった。
だから。
フィラルシーが、フィリシアと話した直後に死んだことも、わかるような気がしていた。
だがフィリシアは、思いもかけないことを言った。
「本当は……きっと、子ども達と話したかったんだと思う」
「フィリシア様」
「だけど、それ以上に、あの子は私のことを案じてくれていたのね。だから最後に、私と話すことを選んでくれたのよ」
声もなく、アステティンはフィリシアを見つめた。
「でも……死んで逝く母親が、最後の最後に、子どもに言葉を遺せないって、こんな馬鹿な話がある? それぐらい、私はあの子に心配をかけていたのよ……」
フィリシアの声は、震えていた。
「フィリシア様……」
「だから、決めたの。もう二度と、あの子に心配をかけるような生き方はしないって。でないと、きっとあの子はいつまでたっても私を心配して、エステファンのところに、絶対に行こうとしないから」
そう言いながらも、茶色の瞳からは、涙が流れ出していた。
しかしその姿は、とてつもなく美しかった。
八年前のあの戦いの時も、死に逝くガレリーナの仲間を抱きしめて、微笑みながら彼女は泣いていた。
その姿も、とても美しかった。
『ただ今、戻りました……』
担架に乗った仲間は、フィリシアと会うこと、それだけを望んで皇宮に戻ってきた。
あの頃。
ガレリーナの誰もが、皇宮で自分達を待っているフィリシアを、支えとして戦っていたのだ。
それは、自分もそうだった。
そして、着ていた服が血だらけになろうが、ためらいもなく死に逝く仲間を抱きしめることができるフィリシアだからこそ、皇妃にと、誰もが望んだのだ。
フィリシアが、どんな生き方を望んでいるのか、アスティンにはわからない。
だが、自分の恋人を……夫を愛しているからこそ、「離縁」を望んだことだけは、わかっていた。
決して、フィリシアは、認めはしないだろうけれど。
去って行くフィリシアの後姿を見送りながら、アスティンは頭を下げた。
あの頃と変わらず、「アスティン」と自分を呼んでくれた皇妃に。
静謐に咲く花のごとく、誇り高く生きる女性に。
後に。歴史書は、伝える。
第四代皇帝・エドアール二世の皇妃、フィリシアのことを。
初めて、アリシア帝国で離縁をした、皇妃として。
夫のエドアール二世と離縁したのは、皇太子・ロイドが「成人の儀」を迎えた半年後だった。
その後、実家の南都に戻り、南都の都カルガ郊外の、小さな離宮で暮らしたらしい。
離婚後の彼女のことは、子どもや女性の教育活動にとても熱心に取り組んだこと、彼女の甥・アルロの娘である第六代皇帝サリアが即位する時に、初の女帝の誕生を渋る臣下達を、彼女が積極的に説得していたことぐらいしかわかっていない。
そして、サリア皇帝の御世に亡くなったとされている。
だが、晩年の彼女に仕えた侍女の一人が、自身の孫達に、離縁した後のフィリシア皇妃のことを、よく語って聞かせていたらしい。
その人によると、フィリシアは自分が率先していた教育活動で、毎日とても忙しそうにしており、優雅な貴婦人の生活などは、縁がなかったようである。
それに、ロイド皇帝の御世には、よく第五代皇帝妃・ミズが、サリアや子ども達を連れて訪ねてきたらしい。
しかも、それは夫婦喧嘩をしての家出で、迎えに来たロイド皇帝とフィリシアは、傍に控えている者達が、噴出すのを必死になって堪える会話をしていたと、その人は笑いながら孫達に語ったそうだ。
そうして驚くことに、その頃のフィリシアには、夫がいて、その人との間に娘を一人、生んでいたらしい。
だが、これら全てのことが、歴史書には、何一つ記載されていない。
本当かどうかも、今ではわからない。
ただ、この人は、フィリシアについて、こうも語っていたそうである。
「フィリシア様は、いつも笑顔でいらっしゃったのよ。とても、楽しそうに毎日笑っていらしたわ」とー。