7
その道は、銀色に光って見えた。
まるで、銀製の盆の上を歩いているような気がした。
「オリガ様……」
自分と手を繋ぎ、前を歩いているオリガに、フィリシアは声をかけた。
「どうした? フィリシア」
しかし、オリガはフィリシアの方は振り返らず、前を向いたまま返事をする。
それは別に、オリガがフィリシアのことを無視しているからではない。
この(・・)場所で、フィリシアが迷わないようにするためらしかった。
手を繋いでいるのも、そのためらしい。
辺りは白く、道のように、真っ直ぐに伸びている一本の銀色の光だけが、確かな存在のように思えた。
「オリガ様は、父上のことを愛していらっしゃいますか?」
「なんじゃ、いきなり」
答えたオリガの口調は、苦笑めいていた。
「先程の、話の続きです」
「そうじゃな……」
どこか、遠くを見つめている口調だった。
「わたくしはな、フィリシア。子どもの頃から、自分が必ず一人は、子どもを生まねばならぬことを知っていた」
「それは……オリガ様の『役目』に、関係することですか?」
戦闘神が言っていた、「御自分のお役目を忘れなきよう」という言葉を、フィリシアは思い出していた。
「まあな……。まあそれで、そなたの父上に嫁ぐことになった時は、何とも言えなかったぞ。正直好きな人の子を生むことを、幼い時は期待していたからな」
「オリガ様が?」
その言葉に、フィリシアは目を丸くした。
「意外か? しかし、わたくしでもそのような時期はあったのじゃ。父上と母上を見ていたせいもあってな」
前に、オリガの両親である前皇帝夫婦は、とても睦まじかったと聞いたことがあった。
「せめて、政略結婚でも、父上や母上のようになれたらいいなあと思っていたら、公には愛妃―セーレン殿がおって、あげくに、初夜に『そなたは、飾りの妃だ』と宣言されてしもうた」
苦笑しながら、オリガは言った。
そのことは、フィリシアも母から繰り返し聞いていた。
「つらく……なかったですか? 」
「その時は、全くな。早々に、あきらめたからの」
「あきらめた?」
「父上と母上のようにはなれぬ、とな。だが、わたくしが公に嫁いだのは、幼くして即位するであろうエドアールの後ろ盾を得るためだったから、離縁はできなかったのじゃ」
「でも、子を生むことはわかっていたのでは……」
「だから、さっさと離縁できる状況にしよう、と思ったのじゃ。あの時は、まさか公との間に、子を生むとは思わなかったからな」
「……」
「エドアールが成長し、後ろ盾が必要としなくなるまでは、南都公主家の公妃として、できるだけのことをしよう、と思っておった」
オリガは、初夜の父の言葉を素直に受け取り、自分の行動を決めたのだ。
そして、その通り実行したのだろう。
夫が自分のことを愛することはない、と思い込んで。
だけど。父は、そうではなかった。
だから、望んだのだ、オリガが子を生むことを。
「つらかったですか? 父上の子を……フィラルシーを生むことは」
フィリシアが小さい声で尋ねると、オリガはため息を吐いた。
「正直、な。セーレン殿に子ができたのに、何故わたくしにも子を生むことを求めるのか、全然わからなかったからな」
フィリシアとフィラルシーの誕生日は、三ヶ月しか違わない。
おそらく父は、母に子ができたのに、嫉妬すらしないオリガに苛立ちを感じたのだ。
いやむしろオリガのことだから、父の目の前で、喜びすらしたのだろう。
そしてそれは、父にとっては、決定的な事実を突きつけられた瞬間だったに違いない。
自分が愛する女は、自分を愛していないという―。
「だが、子を生むことで、救われもした。フィラルシーやそなたの存在があったからこそ、わたくしは耐えられたのじゃ」
「オリガ様……」
「ただ、子を生んだからといって、離縁をあきらめたつもりはなかった。セーレン殿のためにも、時が来たら、公に言い出すつもりで事を進めてはおった」
その言葉からも、オリガが南都公主家の妃としての務めを果たす一方で、着々と準備をしていたのは、窺い知れた。
「でも……気が付かれたのですね。父上が、オリガ様のことを、愛していたことを」
そのことに気付いた時、オリガは、最初は、あまりうれしくなかったと言っていた。
「二十年は、長かった」
オリガは、ずっと自分の夫は、自分のことを愛していないと思い込んでいたのだ。
「生まれる前の記憶があっても、「神の色」を持っていても、何の役にも立たぬことは、十分に思い知らされていた。苦しい時にわたくしを支えてくれたのは、そなたやフィラルシーの存在だった」
「オリガ様……」
「ただ……その耐えて来た人生の結果が、これであれば、それも悪くないかと思ったのじゃ。だからわたくしは今でも、公と共におる」
多分、それが、オリガの答えなのだろう。
愛している、という言葉だけでは表現できない思いが、オリガの中にはあるのかもしれない。
二十年という年月は、フィリシアが思う以上に、長いのかもしれなかった。
ただそれでも、オリガは父と生きることを選び、セルバやまた新しく宿った子を、産もう、と思ったのだ。
「今は、幸せですか? オリガ様」
「そうじゃな……ただ、ずっとつらいままでもなかった。二十年間の間にも、幸せだと思う瞬間は、たくさんあった。皆、そうじゃと思うぞ」
「オリガ様」
「公も、そしてそなたの母も。フィラルシーもそうじゃろうな。そして同じように、つらいこともあったはずじゃ」
一瞬、亡くなった母の姿が思い浮かんだ。
確かに、母は父から愛されなくなってしまったかもしれないが、それでも父の傍にいることを望んでいた。つらかったかもしれないが、それでも、母は幸せだったのかもしれない。
父も、そうなのかもしれない。確かに長い間、オリガとはすれ違っていた。
けれど、それでも、オリガは父の子を産んだのだ。
「フィラルシーも……つらいことは、あったのでしょうか?」
愛し合っていた恋人と一緒になり、フィリシアは、幸せにやっていると思っていた。
正直、うらやましいとすら思っていたのだ。
「そなたと離れたことは、とてもつらかったようじゃ。共にリースに行ってくれるもの、と思っていたようじゃからの」
「え……?」
その言葉に、フィリシアは目を見張った。
「あの子にとっても、そなたは支えだったのじゃ。そなたのおかげで、あの子も随分救われておったからの」
「オリガ……様……」
「だからこそ、ロイドの養育も、あの子は引き受けたのじゃ。『今度は、自分がフィリシアを支える番だ』と、申しておった」
フィリシアは母の死後、男の子を出産していた。
名は、夫が考えていた幾つかの中から、「希望」の意味を持つ、「ロイド」をフィリシアが選んでつけた。
母の葬儀が行われた時、身ごもっていたフィラルシーは、リースから出ることはできなかったのだ。
だが、フィリシアと前後して、男の子を出産したことを、オリガから教えてもらってはいた。
それを聞いたとたん、フィリシアは、フィラルシーに子どもを育ててもらうことを思い付いた。考えるまでもなかった。
夫や周りが連れてきた乳母に託すことは、絶対に嫌だったのだ。
自分で子どもを育てる自信がないのに、勝手なことだとはわかっていた。
だが、それだけは譲れなかった。
そのことをオリガに告げると、オリガは、『わかった』と、頷いてくれた。
そうして、その願いは叶えられ、ロイドはリースで育てられることになったのだ。
ただ表向きは、ロイドは体が弱いために表に出ることはできない、とされた。
夫は苦々しい表情をしていたが、何も言わなかった。
だから。ありがたい、とは思っていた。自分のわがままな言い分を、叶えてくれたオリガに対して。
その分、皇妃としてやるべきことはしよう、と思っていた。
だけど。フィラルシーが、そんな思いでロイドの養育を引き受けてくれていたとは、考えもしなかった。
「着いたぞ」
そうして。振り向きながら、オリがは言った。
その表情は、とても哀しげで。
フィリシアは、その瞬間、初めて理解したのだ。
フィラルシーが、危篤だという意味を。
無意識の内に、考えることを避けていた。
心のどこかで、自分が行けば助かるとも思っていた。
でもそれは、幻想であることをその瞬間、フィリシアは、はっきりと理解した。
「待たせたな、フィラルシー」
ばさあっと、風がはためくような音がして、今まで見えていた白い世界が、まるで上から引っ張り上げられるようにして、消えた。
そして次の瞬間には、そこは、見も知らない部屋となっていた。
「オリガ様……。フィリシア様……」
いきなり現れた二人に、驚いたようなアスティンの声が聞こえた。
「フィー……母上……」
続いて、か細い……本当に、消え入りそうな声が、聞こえる。
幼い時から、ずっと一緒にいた。
だけど、今まで一度として、こんな弱弱しいフィラルシーの声を、フィリシアは聞いたことがなかった。
あの凄惨な戦いの時ですら、こんな声をフィラルシーは出したことがなかった。
「フィラ……?」
信じられない思いで、フィリシアは名を呼んだ。
いつも明るく元気だった異母妹の名を。
部屋の中央に置いてあるベッドに、フィリシアは横たわっている。
その姿は、自分が知っているフィラルシーではなかった。
あんなに生き生きとしていた表情を宿していた顔は、痩せこけ、青白い。
それでも紫色の瞳だけは、以前と同じ強い意志を宿していた。
「来てくれて……ありがとう……」
そう言って、フィラルシーは手を伸ばしてきた。
その腕も細く、魔物達を相手に剣を振り回して来た手だとは思えなかった。
「フィラ……!」
フィリシアはベッドに近寄り、その手を握り締めた。
「フィラ、どうして……!」
七年前に別れた時は、こんな日が来るとは思ってもいなかった。
何故なのか。自分達は、まだ二十四歳だ。
終の別れが来るのは、いくらなんでも早すぎる。
「そんな顔、しないで……」
そう言って、微かにフィラルシーは笑った。
「だって……だって、フィラ……」
病気だという知らせは、リースから一度として来なかった。
大きな怪我をした、という知らせも。
今日の朝、皇宮にオリガが訪ねて来て、「フィラルシーが、危篤じゃそうだ」と知らせてくれて、慌てて出てきたのだ。
現実感など、まるでなかった。
だけど、今のフィラルシーは、あの時の母と同じだった。
やせ細った顔。そして腕。
そして何よりも身をまとう雰囲気が、違うのだ。
死に逝く者だけが持つ、特有の雰囲気。
母には、予感めいたものもあった。
だが、フィラルシーには、そんなものは一切なかったのに。
「ごめんね……フィ……」
「あやまらなくていいから……元気になってよ……」
その言葉に、だが愛しい異母妹は、微かに首を振った。
「ごめんね……でも……しょうがないんだ」
「そんなこと、言わないでよ……! 」
小さい子のように、フィリシアは首を振った。嫌だった。
自分は、母を亡くした。
母の時は、しょうがないとあきらめることができた。
だけど、今回はそうはいかなかった。
幼い時からずっと一緒にいて、苦しい時は、支えてもらった。
離れて暮らすようになっても、支えていてくれた、大切な存在なのだ。
「フィー……お願いがあるの……」
フィリシアの手を離し、フィラルシーは、フィリシアの頬に手を置いた。
「子どもたちのことを……お願い……」
「フィラ……!」
「ごめんね……ちゃんと、ロイドを育ててあげられなくて……」
弱弱しく、自分の頬を押さえる手。
細い……とても、細い手だった。
フィリシアは、その手を両手で必死に掴んだ。そうして、ただ首を振り続けた。
そんなことは、ないのだ。
自分が育てることのできなかった息子を、ここまで育ててくれたのだ。
感謝こそすれ、フィラルシ―が謝ることなど何一つない。
「それとね……あと一つ、お願いが……あるの……」
「何……? 」
緩やかに、自分の頬をなでる手。
「幸せに……なってね……」
その瞬間、手の力が抜けた。
人が死ぬ、ということ。
それは、つい先ほどまで生きていた人間が、動かなくなる、ということ。
「フィ……ラ……?」
力をなくした手。閉じられた紫の瞳。
微かに笑っているようにも見える、その姿。
「よく、がんばったな……」
ふわりと、オリガがベッドに近寄り、そうフィラルシーに声をかけた。
そうして、フィリシアの手を、ゆっくりとフィラルシーの手からはずさせた。
「オリガ……様?」
「そなたに会いたくて、がんばったのだな、この娘は」
掛けられたシーツの中に、フィラルシーの手を入れながら、オリガは言った。
「いや……」
床に座り込んだフィリシアは、首を振った。
信じたくなかった。
こんな現実など、受け入れられるはずがない。
「いや……こんなのいやよ、フィラ……!」
「フィリシア」
オリガが、フィリシアの名を呼び、抱きしめてきた。
「オリガ様っ……!」
フィリシアは、その腕の中で、声を上げて泣いた。
今日、自分は一番大切な者を失ったのだ。ずっと一緒だと思っていた者を。
「フィラ……フィラ……!!」
冷たい石畳の床の上で、フィリシアは泣き続けた。
愛しい者の名を呼びながら。
そして、それは。第四代皇帝妃・フィリシアが、人前で泣いた唯一の姿でもあった。
後に。
彼女の息子である第五代皇帝・ロイドは、己の皇妃に、こう語っている。
『オレが初めて見た母親の姿は、泣いている姿だったよ』と。
だが。それは、まだ未来の話である―。