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 その道は、銀色に光って見えた。

 まるで、銀製の盆の上を歩いているような気がした。

「オリガ様……」

 自分と手を繋ぎ、前を歩いているオリガに、フィリシアは声をかけた。

「どうした? フィリシア」

 しかし、オリガはフィリシアの方は振り返らず、前を向いたまま返事をする。

 それは別に、オリガがフィリシアのことを無視しているからではない。

 この(・・)場所(・・)で、フィリシアが迷わないようにするためらしかった。

 手を繋いでいるのも、そのためらしい。

 辺りは白く、道のように、真っ直ぐに伸びている一本の銀色の光だけが、確かな存在のように思えた。

「オリガ様は、父上のことを愛していらっしゃいますか?」

「なんじゃ、いきなり」

 答えたオリガの口調は、苦笑めいていた。

「先程の、話の続きです」

「そうじゃな……」

 どこか、遠くを見つめている口調だった。

「わたくしはな、フィリシア。子どもの頃から、自分が必ず一人は、子どもを生まねばならぬことを知っていた」

「それは……オリガ様の『役目』に、関係することですか?」

 戦闘神が言っていた、「御自分のお役目を忘れなきよう」という言葉を、フィリシアは思い出していた。

「まあな……。まあそれで、そなたの父上に嫁ぐことになった時は、何とも言えなかったぞ。正直好きな人の子を生むことを、幼い時は期待していたからな」

「オリガ様が?」

 その言葉に、フィリシアは目を丸くした。

「意外か? しかし、わたくしでもそのような時期はあったのじゃ。父上と母上を見ていたせいもあってな」

 前に、オリガの両親である前皇帝夫婦は、とても睦まじかったと聞いたことがあった。

「せめて、政略結婚でも、父上や母上のようになれたらいいなあと思っていたら、公には愛妃―セーレン殿がおって、あげくに、初夜に『そなたは、飾りの妃だ』と宣言されてしもうた」

 苦笑しながら、オリガは言った。

 そのことは、フィリシアも母から繰り返し聞いていた。

「つらく……なかったですか? 」

「その時は、全くな。早々に、あきらめたからの」

「あきらめた?」

「父上と母上のようにはなれぬ、とな。だが、わたくしが公に嫁いだのは、幼くして即位するであろうエドアールの後ろ盾を得るためだったから、離縁はできなかったのじゃ」

「でも、子を生むことはわかっていたのでは……」

「だから、さっさと離縁できる状況にしよう、と思ったのじゃ。あの時は、まさか公との間に、子を生むとは思わなかったからな」

「……」

「エドアールが成長し、後ろ盾が必要としなくなるまでは、南都公主家の公妃として、できるだけのことをしよう、と思っておった」

 オリガは、初夜の父の言葉を素直に受け取り、自分の行動を決めたのだ。

 そして、その通り実行したのだろう。

 夫が自分のことを愛することはない、と思い込んで。

 だけど。父は、そうではなかった。

 だから、望んだのだ、オリガが子を生むことを。

「つらかったですか? 父上の子を……フィラルシーを生むことは」

 フィリシアが小さい声で尋ねると、オリガはため息を吐いた。

「正直、な。セーレン殿に子ができたのに、何故わたくしにも子を生むことを求めるのか、全然わからなかったからな」

 フィリシアとフィラルシーの誕生日は、三ヶ月しか違わない。

 おそらく父は、母に子ができたのに、嫉妬すらしないオリガに苛立ちを感じたのだ。

 いやむしろオリガのことだから、父の目の前で、喜びすらしたのだろう。

 そしてそれは、父にとっては、決定的な事実を突きつけられた瞬間だったに違いない。

 自分が愛する(ひと)は、自分を愛していないという―。

「だが、子を生むことで、救われもした。フィラルシーやそなたの存在があったからこそ、わたくしは耐えられたのじゃ」

「オリガ様……」

「ただ、子を生んだからといって、離縁をあきらめたつもりはなかった。セーレン殿のためにも、時が来たら、公に言い出すつもりで事を進めてはおった」

 その言葉からも、オリガが南都公主家の妃としての務めを果たす一方で、着々と準備をしていたのは、窺い知れた。

「でも……気が付かれたのですね。父上が、オリガ様のことを、愛していたことを」

 そのことに気付いた時、オリガは、最初は、あまりうれしくなかったと言っていた。

「二十年は、長かった」

 オリガは、ずっと自分の夫は、自分のことを愛していないと思い込んでいたのだ。

「生まれる前の記憶があっても、「神の色」を持っていても、何の役にも立たぬことは、十分に思い知らされていた。苦しい時にわたくしを支えてくれたのは、そなたやフィラルシーの存在だった」

「オリガ様……」

「ただ……その耐えて来た人生の結果が、これであれば、それも悪くないかと思ったのじゃ。だからわたくしは今でも、公と共におる」

 多分、それが、オリガの答えなのだろう。

 愛している、という言葉だけでは表現できない思いが、オリガの中にはあるのかもしれない。

 二十年という年月は、フィリシアが思う以上に、長いのかもしれなかった。

 ただそれでも、オリガは父と生きることを選び、セルバやまた新しく宿った子を、産もう、と思ったのだ。

「今は、幸せですか? オリガ様」

「そうじゃな……ただ、ずっとつらいままでもなかった。二十年間の間にも、幸せだと思う瞬間は、たくさんあった。皆、そうじゃと思うぞ」

「オリガ様」

「公も、そしてそなたの母も。フィラルシーもそうじゃろうな。そして同じように、つらいこともあったはずじゃ」

 一瞬、亡くなった母の姿が思い浮かんだ。

 確かに、母は父から愛されなくなってしまったかもしれないが、それでも父の傍にいることを望んでいた。つらかったかもしれないが、それでも、母は幸せだったのかもしれない。

 父も、そうなのかもしれない。確かに長い間、オリガとはすれ違っていた。

 けれど、それでも、オリガは父の子を産んだのだ。

「フィラルシーも……つらいことは、あったのでしょうか?」

 愛し合っていた恋人と一緒になり、フィリシアは、幸せにやっていると思っていた。

 正直、うらやましいとすら思っていたのだ。

「そなたと離れたことは、とてもつらかったようじゃ。共にリースに行ってくれるもの、と思っていたようじゃからの」

「え……?」

 その言葉に、フィリシアは目を見張った。

「あの子にとっても、そなたは支えだったのじゃ。そなたのおかげで、あの子も随分救われておったからの」

「オリガ……様……」

「だからこそ、ロイドの養育も、あの子は引き受けたのじゃ。『今度は、自分がフィリシアを支える番だ』と、申しておった」

 フィリシアは母の死後、男の子を出産していた。

 名は、夫が考えていた幾つかの中から、「希望」の意味を持つ、「ロイド」をフィリシアが選んでつけた。

 母の葬儀が行われた時、身ごもっていたフィラルシーは、リースから出ることはできなかったのだ。

 だが、フィリシアと前後して、男の子を出産したことを、オリガから教えてもらってはいた。

 それを聞いたとたん、フィリシアは、フィラルシーに子どもを育ててもらうことを思い付いた。考えるまでもなかった。

 夫や周りが連れてきた乳母に託すことは、絶対に嫌だったのだ。

 自分で子どもを育てる自信がないのに、勝手なことだとはわかっていた。

 だが、それだけは譲れなかった。

 そのことをオリガに告げると、オリガは、『わかった』と、頷いてくれた。

 そうして、その願いは叶えられ、ロイドはリースで育てられることになったのだ。

 ただ表向きは、ロイドは体が弱いために表に出ることはできない、とされた。

 夫は苦々しい表情をしていたが、何も言わなかった。

 だから。ありがたい、とは思っていた。自分のわがままな言い分を、叶えてくれたオリガに対して。

 その分、皇妃としてやるべきことはしよう、と思っていた。

 だけど。フィラルシーが、そんな思いでロイドの養育を引き受けてくれていたとは、考えもしなかった。

「着いたぞ」

 そうして。振り向きながら、オリがは言った。

 その表情は、とても哀しげで。

 フィリシアは、その瞬間、初めて理解したのだ。

 フィラルシーが、危篤だという意味を。

 無意識の内に、考えることを避けていた。

 心のどこかで、自分が行けば助かるとも思っていた。

 でもそれは、幻想であることをその瞬間、フィリシアは、はっきりと理解した。

「待たせたな、フィラルシー」

 ばさあっと、風がはためくような音がして、今まで見えていた白い世界が、まるで上から引っ張り上げられるようにして、消えた。

 そして次の瞬間には、そこは、見も知らない部屋となっていた。

「オリガ様……。フィリシア様……」

 いきなり現れた二人に、驚いたようなアスティンの声が聞こえた。

「フィー……母上……」

 続いて、か細い……本当に、消え入りそうな声が、聞こえる。

 幼い時から、ずっと一緒にいた。

 だけど、今まで一度として、こんな弱弱しいフィラルシーの声を、フィリシアは聞いたことがなかった。

 あの凄惨な戦いの時ですら、こんな声をフィラルシーは出したことがなかった。

「フィラ……?」

 信じられない思いで、フィリシアは名を呼んだ。

 いつも明るく元気だった異母妹の名を。

 部屋の中央に置いてあるベッドに、フィリシアは横たわっている。

 その姿は、自分が知っているフィラルシーではなかった。

 あんなに生き生きとしていた表情を宿していた顔は、痩せこけ、青白い。

 それでも紫色の瞳だけは、以前と同じ強い意志を宿していた。

「来てくれて……ありがとう……」

 そう言って、フィラルシーは手を伸ばしてきた。

 その腕も細く、魔物達を相手に剣を振り回して来た手だとは思えなかった。

「フィラ……!」

 フィリシアはベッドに近寄り、その手を握り締めた。

「フィラ、どうして……!」

 七年前に別れた時は、こんな日が来るとは思ってもいなかった。

 何故なのか。自分達は、まだ二十四歳だ。

 終の別れが来るのは、いくらなんでも早すぎる。

「そんな顔、しないで……」

 そう言って、微かにフィラルシーは笑った。

「だって……だって、フィラ……」

 病気だという知らせは、リースから一度として来なかった。

 大きな怪我をした、という知らせも。

 今日の朝、皇宮にオリガが訪ねて来て、「フィラルシーが、危篤じゃそうだ」と知らせてくれて、慌てて出てきたのだ。

 現実感など、まるでなかった。

 だけど、今のフィラルシーは、あの時の母と同じだった。

 やせ細った顔。そして腕。

 そして何よりも身をまとう雰囲気が、違うのだ。

 死に逝く者だけが持つ、特有の雰囲気。

 母には、予感めいたものもあった。

 だが、フィラルシーには、そんなものは一切なかったのに。

「ごめんね……フィ……」

「あやまらなくていいから……元気になってよ……」

 その言葉に、だが愛しい異母妹は、微かに首を振った。

「ごめんね……でも……しょうがないんだ」

「そんなこと、言わないでよ……! 」

 小さい子のように、フィリシアは首を振った。嫌だった。

 自分は、母を亡くした。

 母の時は、しょうがないとあきらめることができた。

 だけど、今回はそうはいかなかった。

 幼い時からずっと一緒にいて、苦しい時は、支えてもらった。

 離れて暮らすようになっても、支えていてくれた、大切な存在なのだ。

「フィー……お願いがあるの……」

 フィリシアの手を離し、フィラルシーは、フィリシアの頬に手を置いた。

「子どもたちのことを……お願い……」

「フィラ……!」

「ごめんね……ちゃんと、ロイドを育ててあげられなくて……」

 弱弱しく、自分の頬を押さえる手。

 細い……とても、細い手だった。

 フィリシアは、その手を両手で必死に掴んだ。そうして、ただ首を振り続けた。

 そんなことは、ないのだ。

 自分が育てることのできなかった息子を、ここまで育ててくれたのだ。

 感謝こそすれ、フィラルシ―が謝ることなど何一つない。

「それとね……あと一つ、お願いが……あるの……」

「何……? 」

 緩やかに、自分の頬をなでる手。

「幸せに……なってね……」

 その瞬間、手の力が抜けた。

 人が死ぬ、ということ。

 それは、つい先ほどまで生きていた人間が、動かなくなる、ということ。

「フィ……ラ……?」

 力をなくした手。閉じられた紫の瞳。

 微かに笑っているようにも見える、その姿。

「よく、がんばったな……」

 ふわりと、オリガがベッドに近寄り、そうフィラルシーに声をかけた。

 そうして、フィリシアの手を、ゆっくりとフィラルシーの手からはずさせた。

「オリガ……様?」

「そなたに会いたくて、がんばったのだな、この()は」

 掛けられたシーツの中に、フィラルシーの手を入れながら、オリガは言った。

「いや……」

 床に座り込んだフィリシアは、首を振った。

 信じたくなかった。

 こんな現実など、受け入れられるはずがない。

「いや……こんなのいやよ、フィラ……!」

「フィリシア」

 オリガが、フィリシアの名を呼び、抱きしめてきた。

「オリガ様っ……!」

 フィリシアは、その腕の中で、声を上げて泣いた。

 今日、自分は一番大切な者を失ったのだ。ずっと一緒だと思っていた者を。

「フィラ……フィラ……!!」

 冷たい石畳の床の上で、フィリシアは泣き続けた。

 愛しい者の名を呼びながら。

 そして、それは。第四代皇帝妃・フィリシアが、人前で泣いた唯一の姿でもあった。



 後に。

 彼女の息子である第五代皇帝・ロイドは、己の皇妃に、こう語っている。

『オレが初めて見た母親の姿は、泣いている姿だったよ』と。

 だが。それは、まだ未来(さき)の話である―。





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