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 外は、吹雪となっていた。

 雪がすごい勢いで、頬に当たってくる。

「だいじょうぶですか? オリガ様」

 羊の毛を編んだ長い丈の上着を着込み、頭には、やはり羊の毛で編まれた長い布を巻いたフィリシアは、自分の前を歩くオリガに声をかけた。

「だいじょうぶじゃ」

 辺りはもう薄暗く、体に感じる寒さはフィリシアが今まで体験したことがないものだった。 息は白く空へと上がり、ところどころ、フィリシアの前髪を濡らしていく。

 あまりの寒さに、息が氷となってしまうのだ。

「ここならば、だいじょうぶであろう」

 やはりお腹の子を気遣ってか、ざくざくっと革の靴をゆっくりと雪の上に置きながら歩いていたオリガは、やがて、館の裏庭と思しき場所で、立ち止まった。

 マズルカ伯爵の館に入った後、オリガは供人達に、体を温めてゆっくりと休むように命じた。

 正直、フィリシアはいきなり館に訪ねて、怪しまれるのではないかと思ったが、そんな心配はしなくてよかった。

 黒髪・黒い瞳を持つのは、南都公主公妃・オリガとその息子・シュリだけなのは、帝国中の誰もが知っていることだった。

 だが、門番の兵士から知らせを聞いて、自分達を迎えてくれたマズルカ伯爵には、あまり恐縮したような雰囲気はなかった。

 聞けば、オリガと同い年の彼は、実はオリガの昔なじみでもあったらしい。

「後のことは、マズルカ伯にお任せしよう」 

 そして、フィリシアにはそう言って、オリガはフィリシアに手招きをした。

 そのまま館に入った時よりも、さらに重装備な姿になり、館の外へと出たのだ。

 しかし、フィリシアは、オリガが何をするつもりなのか、聞かされてはいなかった。

「オリガ様、何をなされるのですか?」

 斜めに当たってくる雪に目を細めながら、フィリシアは聞いた。

「フィラルシーのもとに行くのであろう?」

「オリガ様?」

 ふわりと、オリガの黒髪が風になびき、揺れた。

「我が弟よ―ここに、参られよ」

 言葉にしたら、ほんの少しの間だった。

 一瞬、フィリシアは自分の夫・エドアールを呼んだのでは、と思った。

 事実、オリガには、兄弟は現皇帝のエドアール二世しかいない。

 だが次の瞬間、たくさんの雪が、竜巻状にぐるぐると自分達の周りを回り始める。

「オ、オリガ様っ」

 思わず、目の前にいるオリガの名を呼ぶ。

「あまり、驚かせてくれるな。連れがおる」

 しかし、オリガはフィリシアの方は見ずに顔を上げ、空中にいる(・・)か(・)に(・)話しかけている。

 えっと、フィリシアが思った瞬間だった。

 ざわりっと、今までの吹雪が嘘のように、一瞬にして雪が消え去った。

『久しいですな、姉上。そのお姿になってからは、初めてですか』

 それは、とても不思議な風景だった。

 空一面に、大きな男の顔があった。肩まである紫色の髪に、紫の瞳。

 精悍な顔立ちをした、見かけは、まだ二十代前半の男のものだった。

『その姿になられてから、一度として我らをお呼びになられなかったというのに、めずらしいですな』

「頼みがある、アルロ」

 その男にむかって、オリガはそう言った。

 アルロ、という名。

 そして紫の髪と紫の瞳。

(戦闘神・アルロ!?)

 信じられない思いで、フィリシアは男を見つめた。

『我が眷属の、娘のことですか?』

「今はわたくしの娘だ」

『姉上も、わかっていらっしゃるはずです。あの娘は、夫と共に己が役目を果たしました。その役目を果たした今、我らが世界に戻るのが道理と言うもの』

 その間に、オリガと戦闘神は話を続ける。

『まして、死に逝くものを引き止めることは、我らにも許されておりませぬ』

「そのようなことを、望んでおるのではない。ただ、最後の別れをしたいのじゃ。……この()のためにも」

 オリガの言葉に、戦闘神は、オリガの隣に立つフィリシアに気付いたようだった。

『その娘は人ですね……。我々とは、何の関係もないようですが?』

「この子は、フィラルシーを誰よりも深く愛してくれた者。そして、わたくしを支えてくれた者。十分に、関わりがある」

 けげんそうな戦闘神に、オリガは言った。

 その言葉に、フィリシアは、はっとなる。

『姉上は、情が深いお方だ。必要のないお子を次々と作られたのも、そのせいですか』

「御託はいい。今は、時間が惜しい」

 どこか挑発するような戦闘神の言葉に、オリガはきっぱりと言い切った。

『……わかりました』

 戦闘神は、切なそうな表情を一瞬だけ見せる。

『「道」を、お作りしましょう。「運ぶ」ことも可能ですが、それは、お腹の子には障りとなるでしょうからな』

 そして、あきらめたようにそう言った。

「すまぬな、アルロ」

 戦闘神の表情を、オリガは見逃さなかったのだろう。

 少し哀しそうな表情をして謝った。

『いえ……ただ、姉上。御自分の役目をお忘れなきように。そして「道」で、そちらの人間(ひと)の子が、迷うことのないように、お気をつけください』

「……重々承知の上じゃ。あまり心配するな」

『お目にかかれて、うれしゅうございました、姉上。また、その姿の内にお会いしたいものですな』

 そう言って、微かに笑うと、戦闘神の姿は掻き消えた。

「行こうか」

 そしてそれを見送ると、オリガはフィリシアに向き直り、手を差し伸べてきた。

「……オリガ様は、いったい何者なのですか」

 だが、フィリシアはその手を取らず、そうオリガに聞いた。

 黒髪に、黒い瞳を持つ者は、水と平和の神・ユスの加護を受けた者だと言われている。

 しかしあの戦闘神は、オリガのことを、「姉上」と呼んでいた。

 そう。オリガ(・・・)自身(・・)の(・)こと(・・)を(・)。

「わたくしは、わたくしじゃ。フィリシア」

 フィリシアの問いに、オリガはそう答えた。

「そなたが知っているわたくしが、そのままのわたくしじゃ。ただ、生まれる前の記憶が、残っているだけのこと」

「オリガ様……」

「少なくとも、わたくしはそのつもりじゃ。わたくしは、南都公主の公妃となり、苦しい時は、そなたやフィラルシーにいつも救われておった。その事実には、何の変わりもない」

 そう言うオリガの表情は、優しいものだった。

 それは、初めて会ったあの日と同じ笑顔だった。

「行こうか。フィラルシーが、待っておる」

「はい」

 オリガの言葉に頷き、フィリシアは、今度は差し出された手を握り締めた。


砂を噛むー夫・エドアールとの生活は、そんな言葉が相応しかった。

 覚悟はしていた。結局は、自分を愛していない男と結婚するのだ。

 物語や、周りの侍女達の話の通りにいくはずがない。だが、思った以上にそれは虚しいものだった。

 婚約をしていた時から、ほとんどエドアールと一緒に過ごす時間は無かった。

 それは、結婚してからも続いた。

 だが、婚約していた時は、それでも良かったのだ。

 フィラルシーが傍にいてくれたし、ガレリーナ候補生達との交流もあった。

 しかしフィラルシーは、自身の結婚式の後、愛する者と共にリースへと旅立った。

 また結婚をし、「皇妃」となったフィリシアは、気軽に、今や立派なガレリーナになった彼らと会うことはできなくなった。

 唯一の救いは、前と同じように時々訪れてくれるオリガの存在だったが、「皇妃」となったフィリシアが、特定の公主家の公妃と親しくすることは望ましいことではない、とされていた。

 気が、狂いそうだった。

 自分を愛していない夫との生活。親しい人々とは遠ざけられ、「皇妃」としての行動は、求められる。どうしろと言うのだと、幾度となく叫びたかった。

 欲しいものは与えられず、でも「皇妃」としての行動を、周りは自分に求めるのだ。

 その最もたるものが、「子ども」だった。

 そう……次なるアリシア帝国を受け継ぐ後継者を、当然のように、彼らはフィリシアに望んだ。結婚したばかりの頃は、エドアールもフィリシアを抱きはしなかった。

 しかし、結婚をして……一年も経てば、やはり、そうもやってはいられなくなったのだ。

 早く子どもを、と。

 国民も、家臣達も、公主家の者達も、皆、口を揃えて言った。

 愛してくれない男に抱かれ、その男の子を生む。

 そのことが、どれほどむなしく、つらいことなのか。

 多分、その立場になった者でしか、わからないだろう。

「姉上は、耐えられた」

 夫は、そう言って、無機的にフィリシアを抱いた。

 占いで出された日に、無機的に抱かれ、そして、その月に月ものが始まれば、また占いをするー。義務だと、役目だと。

 何度となく周りから言われ、自分にもそう言い聞かせた。

「だいじょうぶか?」

 年に数回、会う度に聞いてくるオリガにも、

「だいじょうぶです」

 と、笑顔で言った。

 オリガは、自分と同じ経験をしているのだ。

 そして、夫の言うとおり、そのことに耐えて、二人の子を生んでいる。

 確かに父はオリガを愛していたが、オリガ自身はそのことを知らないのだ。

 耐えていかねば、と思った。オリガと同じように。

 だが、何時まで耐え続けなければならないのか。

 そんな疑問が浮かぶようになった頃、お腹に子が宿った。

 当然、周りは喜びに沸いた。

 夫も、その知らせを聞いて、ほっとした表情になっていた。

 だが、自分の周りが浮かれ騒ぐのを見る度に、フィリシアは自分の気持ちが冷えていくのを感じた。

 周りは、当然のようにお腹に宿った子を、男の子だと思っている。

 でも、それが女の子だったらどうなるのか。

 フィラルシーのように「神の色」を持っていたらまた話は別だろうが、その可能性が低いことは、フィリシアにはわかっていた。

 絶望し、当然のように、またフィリシアに子を産むことを望むだろう。

 ぞっとした。また、あの心のない交わりをする、と考えただけで。

 それが、「皇妃」という立場で強要されると言うならば、もう全てを放りだしたかった。

 そんな時、母の容態が急変した知らせが、皇宮に届いたのだ。

 二・三年前から母・セーレンの体調は不安定で、床に着くことも多くなっていたことは、オリガから教えられていて、フィリシアも知っていた。

 その時々に見舞いの品は贈っていたが、皇宮に上がってから、フィリシアは一度も母と会っていなかった。

 そんな事情もあったせいなのか、フィリシアは、「母の見舞い」という名目で、本当に久々に南都公主家の館に戻ったのだ。

「よく戻ってきたな、フィリシア」

 そして、そんな自分を笑顔で迎えてくれたのは、やはりオリガだった。

 そうして、オリガは、しばらく滞在するように言ったのだ。

 ほんの数日のつもりだったフィリシアは驚いたが、「セーレン殿のためにも、頼む」と、オリガは言った。

 実際、母の容態は思わしくなかった。

 久々に会った母は、もともと細かった体がさらに痩せて、見ていても痛ましいぐらいだった。

 だが、母は見舞いに来た娘に、

「皇妃様が、このような場所に来られるとは」

 と、言った。

 決して、フィリシアのことを、「娘」として見ようとしなかったのだ。

 そのくせ、父が見舞うと、うれしそうな表情をするのだ。

 結局、母にとって、自分は手段でしかなかったのだ。

 そう。最後の最後まで、父の傍にいるために、必要な「(りゆう)」だったのだ。

 見舞いは、この時だけしかできなかった。

 そして、部屋を去ろうとする娘に対して母は、

「良き子を、お産みになられますように」

 と、言った。

 それは、子を身ごもった者になら、誰でも言う言葉なのかもしれなかった。

 だが、その時のフィリシアには、一番聞きたくない言葉でもあった。

 母の前では、冷静な態度を努めるようにしたが、自分のために用意された部屋に戻ってきた とたん、もうだめだった。

 部屋にあったテーブルを引っくり返した所までは覚えている。

 後は、自分がどんなことをしたのか、記憶になかった。

 気がついたら、

「目が覚めたか?」

 ベッドに寝かされていて、椅子に座ったオリガが、静かにフィリシアを見つめていた。

「オリガ様……」

 フィリシアは起き上がろうとしたが、それは止められた。

 枕元には、微かにお香のにおいがしていた。

 今思えば、それは鎮静の効果があるものだったのかもしれない。

「オリガ様……私は……」

「今は無理をするな。ゆるりと休め」

 落ち着いた声小さな声で、オリガは言った。

「いいえ…いいえ…」

 フィリシアは、その言葉に首を振った。

 もう、どうしていいかわからなかった。

 愛してくれない夫。

 それなのに肌を合わせ、子を生む義務を求められる。

 親しい人はおらず、フィリシアが欲しいものは、誰も与えてくれないのだ。

「フィリシア」

 オリガは、フィリシアの名を呼んだ。

「そなたの望みは、何だ?」

「オリガ様」

「そなたが今、望んでいることを申してみよ」

 そう言って、オリガは包帯を巻いたフィリシアの手を、そっと握り締めた。

 いつの間にケガをしたのか、それすらもフィリシアは覚えていなかった。

「言葉にせねば、何も伝わらぬよ」

 オリガのもう片方の手は、フィリシアの頭を優しくなでてくれた。その手を見ながら、

「オリガ様……私は、子を生みたくありません」

 フィリシアは、小さく呟いた。

「……そうか」

 それに対して、オリガは責めることはせず、フィリシアの髪をなで続けてくれた。

 その手はあくまで優しく、フィリシアは泣きたくなってしまった。

「他には? 望むことはないのか?」

「その子を育てていく自信もありません……!」

「そうか」

 髪の毛をなでていた手が、頬へと伸びた。 

 そこで初めて、フィリシアは自分が泣いていることに気付いた。

「全て、そなたの望み通りにしよう」

 オリガは、フィリシアの頬をなでながら、静かに言った。

「ただ……子は、その子は、生んでやってくれぬか。せっかく宿った命じゃ……」

「オリガ様……」

「後は、全てそなたの望むとおりにしよう」

 温かい手が、フィリシアの頬を包んだ。



「後は、全てそなたの望むとおりにしよう」

 オリガのこの言葉に、嘘はなかった。

 まずオリガは、母が亡くなった後も、フィリシアが南都公主家の館に滞在できるようにしてくれた。

 結局、『良き子をお産みなられますよう』というあの言葉が、母の最後の言葉となった。

 父は、毎日母の部屋に見舞いに訪れていたらしい。

臨終の際には、母は父の手をしっかりと握り締めていた。

 最後の最後まで、母は、「娘」よりも「夫」を求めていたのだ。

 血の繋がっていないオリガの方が、よほど「母親」らしかった。

 そして、そんな母親の娘である自分は、愛してくれない夫の子を生まねばならないのだ。

 皮肉なものだ、と母の葬儀に参加しながら、フィリシアはそう思った。

 夫も、母の葬儀に、わざわざ帝都から来てくれた。

 だがそれは、フィリシアを連れ帰るためでもあったようだった。

 フィリシアが、その会話を聞いたのは偶然だった。

 ちょうど葬儀が終わり、自分の部屋へと戻る時だった。

「フィリシアはまだ帰さぬと、言ったはずだが?」

 自分の部屋の前で、オリガが夫と話していた。

 黒い喪服を着たオリガは、自分とは対象的な色の髪を持つ弟を、真っ直ぐに見上げながら言った。

 とっさに、フィリシアは廊下の影に身を隠した。

「姉上……私の立場も考えてください」

「そなたの立場ごときのために、心身衰弱したフィリシアに、無理をさせろと?」

「あれは、皇妃です。皇妃としての立場も、責任もあります!」

「責任……?」

 夫が声を荒げた瞬間、冷静だったオリガの顔に怒りが宿った。

「ならば、そなたも今すぐ、アスティンをリースに戻すがよい」

「姉上!?」

「そなたは、あの子に何を与えておる? あの子の一番欲しいものも与えず、『責任』だの、『立場』などと、よく言えたものだな!!」

「ですが、姉上はあれと同じ立場でありながら、耐えられたではありませぬかっ」

 夫の言葉が、フィリシアの胸に刺さった。

「問題を摩り替えるな、エド」

 夫の搾り出したような言葉を、皇帝の姉でもあるオリガは、きっぱりと切り捨てた。

「あの子とわたくしは、違う。わたくしができたからと言って、あの子ができぬことを責めるのは、お門違いじゃ」

 そして、そのオリガの言葉を聞いた瞬間。

 体の力が、抜けるような気がした。

 夫に、「姉上は耐えられたのだから」という思いがあるのはわかっていた。

 そうして、フィリシア自身も、同じように思っていた。

 けれど。その一方で。

 どうしても、納得できない自分がいたのも、事実だった。

 本当は、母にそのことをわかってもらいたかった。

 だが、自分のことだけで手一杯の母は、結局最後の最後まで、そのことに気付かずに逝った。

「あの子が一番欲しいものを与えることができないのならば、それ以外であの子がの望むものは、全てあの子に差し出せ。それができぬのであれば、アスティンとは別れるがよい」

 それは、凛とした声だった。

 いつか、こんな風になれるのだろうか、とフィリシアは思った。

 こんな風に、相手が一番望むことを察知して、庇うことができる人間に、なれるのだろうか。

 いや、なりたいと思った。

 強く。誇り高く。そして優しく。

 大輪の花のように生きる、オリガのように。







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