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オリガが嫁いで来た日の夜。
父は、オリガのいる寝所には行かず、母の所へと来たらしい。
嫁いで来たオリガには申し訳なかったけれど、涙が溢れ出てくるほどうれしかった、と繰り返し、母はフィリシアに言って聞かせた。
そう。幾度となく。
まるで、自分に、言い聞かせるように。
温められたカップからは、白い湯気が出ていた。
東の国で作られたそれらは、熱い湯をかけられても、割れることがない。
慣れた手つきで、カップに入れた湯を捨てるオリガを見ながら、フィリシアはカップと同じ「陶磁」と言われる物で作られたティーポットに、茶の葉を入れた。
そうして、銀のポットに入ったお湯を注ぐ。
熱くなったティーポットを、手袋をはめた手で持ち、揺らした。
こうすると、茶葉が開き、おいしいお茶が入れられるのだ。
「……手際がよいな」
そんなフィリシアの姿を見て、オリガが感心したように言った。
「オリガ様が、教えてくださったのですよ。お忘れですか?」
「覚えておるとも。感心しているのだから、水を差すようなことを、言うでないよ」
フィリシアの言葉に、オリガは微苦笑を浮かべる。
『文始めの儀』が終わった後、フィリシアはフィラルシーと一緒になって、オリガから色んなことを教えてもらうようになった。
文字の書き方・読み方から始まり、行儀作法、他国の言葉、乗馬や泳ぎの方法、剣の使い方まで、オリガは二人に教えたのだ。
オリガに着いて学ぶ時間はどれも楽しくて、時間が過ぎるのはあっという間だった。
十歳になり、その当時既に皇帝だったエドアールの婚約者として皇宮に上がるまで、オリガは、自分達の先生だった。
フィラルシーと一緒に、オリガから学ぶ時間は、とても楽しかった。
オリガは勉強だけではなく、二人をよく遊びにも連れて行ってくれた。
行った場所も、山だったり、海だったり、川だったり、街中だったり、色々だった。
広い館の庭の手入れもした。
お菓子作りも、館の台所を借りてやった。
母のセーレンと乳母と、静かに暮らしていた頃では、考えられない生活だった。
でもその一方で、乳母や母とは、だんだん上手くいかなくなっていったのだ。
フィリシアが作ったお菓子を、乳母や母に食べてもらいたくて持って帰ってきても、
「菓子作りなど料理人の仕事なのですよ!? 」
と、乳母は青い表情をして言った。
母も、哀しそうな表情をしていた。
あなたは、ガーイ公主の第一公女なのに。
そんな表情で、フィリシアを見ていた。
フィリシアは、オリガから学ぶ時間は、とても楽しかった。
お菓子作りも、庭の手入れも、オリガやフィラルシーだけではなく、侍女や料理人を巻き込んで、皆で一緒になって楽しくやっていたのだ。
『とても上手にできていますね』
『おいしくできましたね』
そして出来た後は、皆で一緒にお茶やお菓子を食べたりして、とても楽しい時間を過ごしていた。
だから、そんな時間を、母や乳母達とも過ごしたかっただけなのだ。
だが、母や乳母は、そんなフィリシアの気持ちを知らず、
「フィリシア(あなた)は、ガーイ公の第一公女なのに」
そんな言葉で、フィリシアが学んできたことを否定し、非難した。
結局、持って帰ったお菓子は食べてもらえず、次の日、オリガやフィラルシーと一緒に、お茶の時間に食べた。
お菓子を食べながら泣くフィリシアの頭を撫でながら、
「すまなかったな」
と、オリガは小さく呟いた。
後になって思えば、母も乳母も、嫉妬をしていたのだろう。
オリガに勉強を教えてもらって、楽しそうにしているフィリシアを見て、おもしろくなかったのだ。
そう……彼らの「敵」である、公妃・オリガに。
乳母にとっては、自分が育てた「息子」を奪っていく者として。
そして、母にとっては、「愛する者」を奪っていく者として。
確かに、オリガは「敵」だったのだ。
父が、オリガのことを愛している、とフィリシアが気付いたのは、十歳の時だった。
あの頃。
フィリシアには、皇帝であるエドアール二世との縁談が持ち上がっていた。
皇帝の娘を公妃にした父は、今度は我が娘を皇帝の皇妃にすることで、自分の影響力を大きくしようとしたのかもしれない。
いや―実際、父はそれが狙いだったのだ。
だが、他の公主家にもそれぞれに思惑や野望もあっただろうし、皇宮の政治勢力も、立て続けに同じ公主家と婚姻を続けるのは、良しとはしなかったはずである。
しかし結局、フィリシアはエドアールの皇妃となった。
その理由の一つは、オリガと父の間には、フィラルシーが生まれていたことがある。
黒髪に紫の瞳を持つフィラルシーは、まれに見る、神の加護を受けた子どもだった。
歴史を振り返って見ても、二色の「神の色」を持つ者はいない。
そして、フィリシアとエドアールは、そのフィラルシーと同じ血筋を持っているのだ。
あわよくば―と、皇宮の者達は、フィラルシーと同じ存在の誕生を期待したのである。
そうして。
もう一つ、皇宮の者達が狙っていることがあった。
実はフィラルシーも、フィリシアと同じ時に、皇宮に上がったのだ。
皇帝エドアール二世の、養女として。
そう―父はフィリシアをエドアールの皇妃にする代償として、自慢だった後継者を失ったのだ。
だけど父は、そのことを直前まで知らなかったらしい。
学習室となっていた部屋で、フィリシアに勉強を教えていたオリガを尋ねてきた時、父は怒りの形相だった。
「公……」
だが、テーブルに向かい合い、フィリシアに外国語の発音を教えていたオリガは、ノックもなしに部屋の中に入ってきた父に、あまり驚いた様子はなかった。
もしかしたら、父が来ることを、ある程度予想していたのかもしれない。
父は、開け放したドアを、ドンッと強く叩いた。
「どういうことだ!?」
その父の乱暴な態度に、フィリシアは声も出なかった。
「公」
ふわりと長い髪を揺らし、オリガは椅子から立ち上がった。
そうして、さきほどまでフィリシアに見せていた表情とは全く違う、落ち着いた―でも、とても冷たい、とも思える瞳で自分の夫を見ていた。
「何故、フィラルシーが皇宮に上がらなければ、ならぬのだ!?」
「それは、使いの者からお聞きした通りです」
声を荒げる父に対して、オリガの態度は冷静だった。
「フィラルシ―は、私の子だぞ!? この、南都公主家の跡継ぎだっ」
「それは、重々承知しております。しかし、皇宮の者達は、あの子がこの南都公主家の跡継ぎになることは、望んでおりませぬ」
ドンッと、再び父は扉を叩いた。
それに、びくっと、フィリシアは、首をすくめた。
「公……。子がおります。この子を部屋に帰してからでは、なりませぬか」
「誤魔化すなっ!!」
オリガは一歩、父の前に出た。そうすることで、フィリシアには父の姿が見えなくなる。
「公。わたくしは、お聞きしませんでしたか?『どのようなことがあっても、エドアールとの婚姻を望むのですか?』と」
そして、とても落ち着いた声で言った。
父の乱暴な態度にも、全然臆した様子はない。
「なにっ」
「その時、公は『何を置いても、婚姻を成立させろ』と言われました」
「……っ」
「ゆえに、家臣達もそのように動きました。公に口添えを命じられた(・・・・・)わたくしも、公の願いを叶えるために、そうしたのです。そして皇宮の者達は、その代償にあの子を望んだのです」
オリガの言葉に、フィリシアは目を見張った。
「何ゆえなのだっ……」
「……あなたは、望みすぎたのですよ、公」
静かな声で、オリガは言った。
「一つの所に恵まれたものが集まるのは、好ましくないと誰もが考えるのです。ましてあの場所にいる者達は、一番恵まれていなければならぬのは自分達だと考えているのです」
「……フィラルシーは、そなたの娘だぞ!? 何故そのように落ち着いた態度でいるのだっ」
「それが、フィラルシーにとっては、一番いいだろう、と思うからです」
バンッと、乱暴にドアが閉められた。
父が、開いていたドアを、叩きつけるように閉めたのだ。
「ならば、この南都公主家はどうなる?」
「……それは……公も、セーレン殿もまだお若いのです。これから先―」
ばしっと、父はオリガの手首を握り締めた。
「公!?」
「そなたは、私の子はもういらぬと申すのか」
オリガの背に遮られ、父の表情が見えなかったフィリシアにも、父の声に潜む暗い感情にはっとなった。
「もう私の子は生まぬ、と申すか」
今までそんな父の声を、フィリシアは聞いたことがなかった。
「公?」
だが、オリガには、父のそんな思いがわからないようだった。
けげんそうな声で、父を呼んだ。ガチャンと大きな音を立て、テーブルが動いた。
「なっ……」
「オリガ様っ」
父が、テーブルの上に、オリガを押し倒したのだ。
「そなたには、私の子を生んでもらう。何がなんでもなっ……」
「止めてください、父様!」
そう、フィリシアが叫んだ時だった。
「……フィー……」
一筋の風が、フィリシアの目の前を通り過ぎた。
そして、はっと我に返った時。
そこは、さっきまでいた部屋ではなかった。
「フィラ……」
呆然としたフィリシアを気遣うように、フィラルシーが、声をかけてくる。
「だいじょうぶ? フィー」
そこはフィラルシーの部屋だった。フィリシアは、フィラルシーと共に過ごすようになってから、よくこの部屋には遊びに来ていた。
「うん……」
少し眩暈がしたが、フィリシアは頷いた。
「これもフィラの「力」なの?」
そうして、床に座り込みながら聞いた。
「……。母上には、絶対使うな、って言われているけどね」
歩かずに、移動できる「力」。
どこまで移動できるかはフィリシアにはわからない。
けれど、オリガが、その便利な「力」を多用しないように、フィラルシーに常々言っているのは、知っていた。
「使って良かったの?」
「……うん。母上が、そうしろって」
「オリガ様が?」
「父上が、なんかすごく怒っているからって、風達を使って、『言葉』を届けてくれたの」
「そっか……」
フィリシアは、深くため息を吐いた。
「……父上、そんなに怒っていたの?」
「うん……。とても、こわかった」
今まで、あんなに怒る父を、見たことがなかった。
残されたオリガがどうなったかも、気になった。
「オリガ様がどうなっているか、わからない? フィラ」
「わからないの。まるで、幕が張ったみたいで、何も見えない」
フィラルシーも気にかかるようで、「力」を使って、様子を見ようとしているのだが、できないようだった。
「フィラは知っていたの? 自分が、皇宮に上がること」
「うん……昨日、母上に聞いた」
「いいの?……それで」
「フィーは? 叔父上と結婚することになるよ? 本当にいいの?」
だが、逆にフィラルシーにそう聞かれ、返事に詰まった。
「……わかんない」
正直、それがフィリシアの本心だった。
結婚する、ということ。
そして、夫となる皇帝エドアール二世のこと。
父に、『お前の婚約が決まったぞ』と言われた時から、それが現実になるものだとは、感じられないのだ。
ただー相手のエドアールは、オリガの弟だった。
あの、誇り高く、優しい女性の。
「ただ、全然知らない人のところに行くよりはいいかなって、思った」
フィリシアはエドアールに会ったことはないが、エドアールの姉である、オリガのことは知っている。
誰一人知らない人がいるところに嫁ぐよりは、遥かにましだと思っていた。
「私もそうだよ、フィー」
「フィラ」
「私も、どうして皇宮に上がるのかわからないの。でも、フィーと一緒ならだいじょうぶかな、って思った」
紫の瞳が、フィリシアを見て、にっこりと笑った。
この瞳が自分を見つめてくれていたら、だいじょうぶだと思った。
二人であれば、だいじょうぶだと。
「そうだな。そなた達二人が、共にあれば、だいじょうぶであろう」
その時、ふいにそんな声が聞こえてきた。
「母上!」
部屋のドアが開きオリガが入ってきたのだ。
「……そなた達は、何を床にすわりこんでおるのじゃ」
慌てて立ち上がった二人を見て、あきれたようにオリガが言う。
「だいじょうぶだったのですか、オリガ様」
だがそれにはかまわず、フィリシアはオリガに駆け寄りながら聞いた。
「何を心配しておるのじゃ。だいじょうぶに、決まっておろうが」
それに微笑みながら、オリガは答えた。
「母上……」
フィラルシーの方も、気遣うように、母親に声をかける。
「何も心配することはない。それよりも、そなた達は、明日からそれぞれに特訓せねばならぬぞ」
「母上?」
「特訓?」
オリガの言葉に、フィリシアもフィラルシーも、きょとんとなる。
そんな二人を見て、オリガはにっこりと笑った。
と、その時だった。
「オリガっ。まだか!」
いらついたような声がして、父が戸を開け放して入ってきた。
「公……」
とたんに、オリガの表情が冷たいものとなる。
父は、そのオリガの表情を見て、さらに険しい顔になった。
「何をしている。まだ、そなたの役目は終わっておらぬぞ!!」
「今から参ります。今少し、お待ちください」
父にそう言うと、オリガは、フィリシアとフィラルシーに向き直った。
「また明日、その話はくわしくしよう。フィリシア殿、あまり遅くならぬうちに、あちらに戻るのじゃぞ」
「はい」
二人は、同時にそう返事をした。
その時ふいに、強い視線を、フィリシアは感じた。
(えっ?)
視線を感じる方を見ると、そこには、父がいた。
父のはしばみ色の瞳には、暗い感情が宿っていた。
「行くぞ、オリガ」
そして、その父の暗い瞳は、真っ直ぐに、オリガを見ていた。
「わかりました」
促され、オリガは、父の後を追うように部屋を出て行く。
父の瞳に宿っていた感情。
最初、それが何かはわからなかった。
だが、フィラルシーと一緒に遊んだ後、母と乳母と暮らす棟に戻った時に。
気付いたのだ。
母の瞳にも、同じ感情が宿っていたことに。
それは、乳母が、今日は父が来ないと告げた時だった。
母は、「そうですか」としか、言わなかったけれど。
それが『嫉妬』という名の感情だということを知ったのは、ずっと後のことだった。
この一年後。オリガは、子を産む。
後の南都公主・シュリである。
ガーイ公の唯一の男子であり、母と同じ、黒い瞳と黒髪を持つ子であった―。