3
フィリシアがその女性の存在を知ったのは、七歳の春だった。
フィリシアは、それまで、自分の周囲に何ら疑問を抱くことはなかった。
数人の使用人―主に侍女である―に囲まれて暮らすことも、日常は母と共に部屋で静かに過ごし、父にはめったに会えぬことも、何ら不思議に思っていなかった。
ただ、乳母から勝手に母と暮らす棟から出ることだけは、固く禁じられていた。
「いいですか、姫様」
乳母は、侍女達が毎日磨く、白い大理石の床を指しながら言った。
「あちらから先へは、決して行ってはいけません」
乳母の言うあちらとは、庭へと続く出口のことだった。
―後で、知ったのだ。その出口は庭から、オリガとフィラルシーの住む棟へと続いていたことを。
だけど、その頃のフィリシアは何も知らなかった。
だから、素直に頷いた。大好きな母親に、
『乳母を困らせてはいけませんよ』
と、言われていたこともあった。
フィリシアの母・セーレンは、もともとガーイの母―つまり、フィリシアの祖母の侍女だった。
最初、下働きの下女として館に入ったセーレンを、祖母がその利発さと気立ての良さを気に入り、侍女にしたのだ。
そして、祖母の傍に仕えていた彼女を、まだ少年だった父が見初め―彼女は、望まれて愛妃となった。
オリガがガーイに嫁いで来る、五年前の話である。
だから、セーレンは皇族の出でも公主一族の出でもなかった。
―孤児。出自も明らかでない、下賎の者。彼女が下女として館に上がったのは、世話になった孤児院のためだったのだ。
母は、明らかに自分の出自を恥じていた。
下賎なる身分の自分が、恐れ多くも公主の子を生んでしまったと―。
そのせいか、フィリシアにも「自分の娘」としてではなく、「南都公主・ガーイの第一公女」として接していた。
『あなたは、恐れ多くも、公主・ガーイ様の第一公女なのですよ』
母は、フィリシアがする事に「公女」としてふさわしくないことがあると、眉を寄せ、哀しげな声で言った。
例えば、外で泥遊びをすること。
人前で、声を上げて笑うこと。
そして―時々母がしている、庭仕事の手伝いをすること。
不思議に思った。
母がすることを、どうして自分がしてはいけないのか。
でも、いつも言われていた。
『あなたは、私とは違います』と。
―どこが違うのですか、母様。
自分と母は、よく似ていた。
薄茶の瞳に、金髪に近い髪の色は、母から受け継いだものだった。
だが、母は言うのだ。
あなたは、私とは違う。南都を預かる、公主・ガーイの第一公女なのだかと。
その言葉が、どれだけフィリシアを孤独にするか、気付きもせずに。
だがその女性の―正確には、その女性とその女性が産んだ、異母妹の存在を知るきっかけは、向こうからやってきた。
その日は、朝から良く晴れていた。
天窓から入る日差しは優しく、春らしい陽気が、フィリシアにも感じられた。
陽光の差す南側は、ガラスの窓があり、母が丹精して育てたピンク色の花が咲いているのが見えた。
優しい陽気と、綺麗な花を見ると、外に遊びに行きたくなる。
しかし、母が外で遊ぶことをあまり良しとはしていなかったので、フィリシアは我慢した。 この頃の自分は、外に行くのは乳母と共に、庭を散歩する時だけだった。
だから、驚いた。自分と同い年ぐらいの女の子が、ピンクの花々が咲く花壇の傍に、現れた時は。
そして、その髪を見て、さらに驚いた。
女の子の髪は―黒。
フィリシアはそれまで、黒の髪を持つ人間を見たことがなかった。
さもありなん、この世界に黒い髪や黒い瞳を持つ人間はめったに生まれない。
黒髪・黒い瞳は、大神・ムーアと大地の神・メーアの間に生まれた水と平和の女神ユスのもの……つまり、「神の色」なのだ。
それゆえに、黒髪や黒い瞳を持つ者は、女神・ユスの化身だと考えられていた。
実際、体の一部に「神の色」を有する者達は、何らかの「力」を秘めているこが多かったのだ。
もちろん、その当時のフィリシアは、その辺のことは何も知らなかった。
しかし、女の子の持つ黒髪がめったに見られないことは、わかっていた。
母とも、父とも、乳母とも、この棟にいる誰にも似ていない、夜の闇の色。
フィリシアは、思わず目を見張ってしまった。
一方、女の子の方は、フィリシアの視線にも気づかず、何かを無心に引き抜いている。
「―ねえ、何しているの?」
窓を開け、声をかけたのは、フィリシアの方だった。
声をかけられた女の子は、地面からフィリシアの方に視線を上げる。
その瞳は―紫。これもまた、「神の色」だった。
大神ムーアと、地神メーアの間に生まれた、戦と風の神・アルロ。
紫の瞳と、紫色の髪を持つ彼は、姉神・ユスとは正反対の、激しい気性の神とされている。 慈愛の神と、破壊の神。
正反対の気質を持つ神を守り神とした、南都公主第二公女・フィラルシー。
その呼称をフィリシアが知るのは、まだ後のことだ。
この時は、瞳までも見たことがない色を持つ少女に、ただただ、びっくりしていた。
「草取りをしているの」
女の子は―フィラルシーは、そんなフィリシアに、にっこりと笑いながら答えた。
「草取り?」
「そう。こうやって、草を取ると、綺麗なお花が咲くんだよ」
その言葉に問い返すと、フィラルシーは、笑顔のままそう教えてくれた。
でも、フィリシアは、そのことは知っていた。
母が同じようなことをしていて、何をしているのか聞いた時、教えてくれたのだ。
しかし母は、フィリシアがその作業を手伝うことは許さなかった。
なのに―それなのに、この黒髪と紫の瞳を持つ女の子は、自分が許されなかったことをしている。
「あなたの母様は、そんなことをして、怒らないの?」
そうフィリシアが聞くと、今度はフィラルシーの方が、きょとんとした表情になった。
「ううん、しないと怒るの。自分のことは、自分でなさいって」
「そうなの?」
「うん。きれいなお花が欲しいなら、自分でお育てなさいって……」
「……」
フィリシアは、信じられなかった。自分の母と、逆のことを言う人がいるのだ。
「あなたの母上は、怒るの?」
一方フィラルシーは、そちらの方が信じられないという感じで聞いてくる。
「うん……私は、しちゃいけないんだって」
「なんで?」
「私が、ガーイ公の……父様の、第一公女( め)だから」
「あれ? でも、それは私もだよ」
そして―知るのだ、自分は。
半分だけ血が繋がる、異母妹の存在を。
「えっ……?」
「ガーイって、父上のお名前なんだもの。じゃあ、あなたは、フィリシア異母姉様?」
「私のこと、知っているの?」
「うん。母上から、聞いたの。私には、フィリシアっていう異母姉様がいるって」
「……」
自分の母は、教えてくれなかった。この黒髪と紫の瞳を持つ異母妹のことを―何一つ。
「あなた……名前は?」
「フィラルシーっていうの。『暁』っていう意味があるんだって」
暁―太陽。
そう言って笑う異母妹の表情は、その名の通り、輝いて見えた。
このことがあってから、フィラルシーは、フィリシアが住む棟に遊びに来るようになった。 遊ぶと言っても、フィリシアは外へは出ず、フィラルシーの方も棟の中には入ってこず、窓越しで話すぐらいだった。
二人とも、幼いながらも感じてはいたのだ。
棟は違うものの、同じ屋敷に住みながら、一度も会うことがなかった異母姉妹。
おそらく、母が―自分の周囲が、公妃の娘である異母妹と関わることを、望んではいなかった。
そう。『神の色』を持つ公妃・オリガの、二色の『神の色』を持つ娘。
母にとってフィラルシーは、尊き存在であり、そしておそらくは、忌むべき存在だったのだろう。
自分が持たぬものを全て持つ存在が、自分の愛する者と生み出した、素晴らしい結晶晶。
そう、思っていたに違いない。
だから、フィラルシーがフィリシアの所に訪れるようになって何回目かの時、母に見つかりーその時の母の反応を見て、ああ、やっぱりな、とフィリシアは思った。
当時七歳だった自分が、想像していたとおりの反応を、母はしたのだ。
その日。花壇の手入れをしようと庭に出た母は、窓辺越しにフィリシアと話すフィラルシーの姿を見て、持っていた園芸用の道具を、全て地面に落とした。
その音を聞き、窓越しで話していた自分達は、音がした方を向いた。
なんの音? という感じで。そして、顔面蒼白になって、庭に佇んでいる母に気づいたのだ。
「フィラルシー様!? 何故ここにいらっしゃるのです!!」
次の瞬間、悲鳴に近い叫びを母は上げた。
日頃の母はとても大人しくて―そんな声など、一度として上げたことはなかった。
だが、その時の母は、その顔に、嫌悪と畏怖の表情を浮かべていた。
その表情を見て、フィラルシーは沈んだ表情になった。
さっきまでは、確かに、楽しそうな表情をして、自分と話していたのに。
「公妃様はご存知なのですか!?」
「……ごめんなさい」
フィラルシーは、ペコリと母に頭を下げた。
その態度に、母は息を飲んだ。母にとっては、公妃の子にーそれも『神の色』を持つ子に、素直に頭を下げられることなど、「恐れ多い」の他、なかったのだろう。
「止めてくださいっ。私はあなたのような方に、頭を下げられる身ではありませんっ」
たった七歳の幼子に、必死になってそう言った。
その幼子が、自分の娘と同じ『哀しみ』の表情をしていると―気付きもせずに。
「姫様、どうかしましたか?」
庭の騒ぎを聞きつけたのだろう。乳母が、フィリシアの部屋に入ってきた。
そして、彼女はフィリシアが座る窓辺に近づき、庭にいるフィラルシーに気付いた。
「フィラルシー様!?」
その瞬間、乳母も大きく目を見開いた。
「抜け出してしまったらしいの……どうしましょう、カレーナ様」
その乳母に、母が途方にくれたように言った。
母は、乳母のことを、『カレーナ様』と呼んでいた。
乳母が、父の乳母でもあったせいだ。
彼女は、育てた主の最愛の人を守るために、フィリシアの乳母となったのだ。
それだけの知識と経験が、彼女にはあったのだ。
だから、すぐさま乳母は母に助け舟を出した。
「使いを出して、迎えに来ていただきましょう」と。
その言葉に、母はほっとした表情になった。
……私達は、一緒に遊んではいけないのですか? 母様。
その表情を見て、フィリシアはそう尋ねてみたかった。
だがー尋ねることは、できなかった。
「お上がりください、フィラルシー様。使いが来るまで、お菓子と温かい飲み物を頂いてください」
乳母はフィリシアに背を向けて、フィラルシーに言った。
母の方も日頃の穏やかさを取り戻し、どうぞこちらへと、フィラルシーを案内し始めている。
二人とも、フィリシアが尋ねていたら、きっとこう答えるだろうということは、わかっていた。
『あの方と、あなたは違います』―寸分の違いもなく。
「フィラルシーが世話になったと、オリガが申しておったぞ」
その日の夜。
めずらしく、フィリシアが起きている時間に父が尋ねて来た。
そして、部屋に入るなり、そう言った。
「公妃様が?」
「ああ。フィラルシーは、好奇心が強いようだ。どこそこと出かけて行く。この間は、わしの執務室まで来おったわ」
「まあ……末頼もしいこと」
父の言葉に、母は笑った。その笑顔は満足気で、とても綺麗に見えた。
父と共にいる時、母はこんな表情をよくする。
今なら―言っても、許してくれるだろうか。
フィラルシーと、母の違うあの妹と、これからも会いたいと。
フィリシアは、フィラルシーのことが好きだった。
フィラルシーといると楽しいし、何よりも、年頃の子どもと遊ぶという経験が、フィリシアにはそれまでなかった。
ねえ、母様。私、フィラルシーと、これからも会いたいな。
喉まで、その言葉が出かかった。だけど。
『ダメですからね、姫様』
乳母の言葉を、思い出す。
それは、フィラルシーが迎えに来た使者と共に戻ってしまった後、自分の部屋で乳母が言った言葉だった。
『フィラルシー様が、またこちらに訪ねて来られた時は、今日のように遊ばず、すぐに私か母上様にお知らせください』
『フィラルシーと……あの子と遊んじゃダメなの?』
『フィリシア様』
自分を見上げ、必死な表情で聞くフィリシアに、乳母はため息を付いた。
『ダメなの?』
だが、フィリシアはあきらめきれず、もう一度聞いてみる。
幼いフィリシアに、大人の事情はよくわからない。
でも、大人達がフィラルシーと自分が仲良くなることを望んでいなくても、あきらめることはできなかった。
けれど、乳母の言葉は変わらなかった。
『わがままを言わないでください、姫様』
『……』
『フィラルシー様に、もし何かあった時、一番困られるのは、母上様なのです』
姫様にはまだわからないかもしれませんが、と乳母は言葉を続け、
『母上様を、困らせてはなりませぬ』
ダメ押しのように、言った。
そこまで言われてしまえば、フィリシアは黙るしかない。
「どうしたのだ? フィリシア」
何か言いたそうな表情で、だが黙っている娘に気付き、ガーイは声をかけた。
フィリシアの、母とよく似た茶色の瞳が、微かに揺れた。だが結局、何も言わなかった。
そうして、行儀よく座っていたビーロドのソファから、びょんっと飛び降りた。
そのまま、ドアに近づくと、カチャッと扉を開いた。
「どこに行くの? フィリシア」
母親の声が、後ろから追いかけてきたが、
「乳母のところ」
短く答え、フィリシアは部屋を飛び出した。
父がいて。母がいて。だけど、息苦しかった。
父のことも、母のことも、そして乳母のことも、自分は好きだった。
それはまちがいない。だけど。だけどー。
気が付けば、フィリシアは中庭に出ていた。
母が育てたピンクの花が、夕闇の中咲いていた。
ここで、笑っていたのだ、フィラルシーは。
黒い髪と、紫の瞳を持つ、自分の異母妹。
『外に出て、遊ぶことができないの』
そう言った自分に、
『じゃあ、ここでお話しようよ』
と、笑って答えてくれた。
今までなら素直に聞けた。
母の言うことも、乳母の言うことも。
本当は言いたいことがたくさんあったけど、我慢してきた。
でも、フィラルシーと遊ぶことを禁じられることは、どうしても我慢できなかった。
それがどうしてなのか、自分でもわからないけれど。
きゅっと、ピンクの花を見つめながら、フィリシアは、やわらかい白のドレスの裾を握りしめた。
と、その時だった。
<フィリシア……。フィー>
耳元で、ふわりと風のように声が通り過ぎた。
「え?」
思わず、フィリシアは辺りを見回す。
だが、そろそろ夜の闇に染められつつある中庭には、自分以外、人の姿はない。
<よかった。聞こえるんだ>
しかし、『声』は確かに聞こえて来る。
「もしかして……フィラ!?」
仲良くなるにつれ、二人は互いのことを、愛称で呼ぶようになっていた。
フィラルシーのことは、『フィラ』。フィリシアのことは、『フィー』と。
「どうして、フィラの声が聞えるの? もしかして、近くにいるの?」
〈ううん。お館にいるよ。あのね、風に声を運んでもらっているの〉
「そんなこと、できるの?」
〈うん。フィーの声も、風が運んでくれているよ。でも、人に見つかったらダメだから、小さな声でしゃべってね〉
「あ、うん」
フィリシアは驚きのあまり、大きくなってしまった声を、あわてて小さくした。
「すごいね、フィラ」
それでも、フィラルシーの不思議な「力」に感心するあまり、声が弾んでくる。
〈あんまり使っちゃダメって言われているんだ。でも、フィーとお話したかったから〉
「それはわたしもだよ、フィラ……」
だが、フィラルシーのこの言葉に、しゅんっとなってしまう。
乳母や母があの状態では、フィラルシーとまた遊んだり話したりすることは、すぐには許されないだろう。
もしかしたら、ずっと許されないのかもしれない。
<私ね、ちゃんと考えるから>
「えっ? 」
<どうしたら、フィーとまたちゃんとお話できるようになるのか、考えてみるから>
「フィラ……」
必死の異母妹の言葉に、フィリシアは目が覚めるような思いがした。
そうだ。きっと、大人にも大人の事情というものがあるのだろう。
それは、子どもの自分には、わからないものなのかもしれない。
でも、子どもには子どもの思いがあるのだ。
自分は、フィラルシーとこれからも、話したり、遊んだりしたいのだ。
乳母や母がダメだと言っても、それだけはあきらめきれない。
「私も、考えてみるよ、フィラ」
<それまでは、時々、こうやってお話してがまんしようね>
「うん!」
その時、フィリシアは心の底から笑うことができた。と、ふいに、
<あ、それはダメじゃ>
フィラルシーとは違う、別の『声』が聞えてきた。
「え?」
<母上!? >
驚いたような、フィラルシーの『声』 も聞えてくる。
<「力」に頼ってばっかりでは、いい考えは浮かばぬよ>
それが、初めての出会いだった。
そう……ブライジャリ・マリと言われた、父・ガーイの公妃・オリガと。
愛妃の娘である自分との。
「フィリシア? どうした」
パチッと、火が割れる音がした。
火の上に置いた、銀のポットからは、しゅんしゅんと、白い蒸気が出ている。
「オリガ様……」
「疲れたか?」
フィリシアの向かい側に座ったオリガが、そう聞いてくる。
その手元には、人数分のカップが用意されていた。
「いいえ」
その問いかけに、フィリシアは首を振った。
「無理はするな。ここは、南都や帝都とは気候が違う。そなたには、きついであろう?」
「いいえ、だいじょうぶです」
その言葉にも首を振った。
実際、北都に近いこの場所の寒さには、辟易していた。
だが、今はそのことにかまっている暇はないはずだ。
「そうか?……ならいいが」
「本当にだいじょうぶです、オリガ様。……ただ、昔のことを思い出していたんです」
「昔のこと?」
「はい。オリガ様や、フィラルシーと出会った時のことを」
フィリシアがそう言うと、オリガは小さく笑った。
「なんだ。なつかしいことを言うな」
白い息が、上がる。
「私はあの時、びっくりしました」
シュンシュンと、銀のポットから水蒸気が上がるのを見ながら、フィリシアは言葉を続けた。
「オリガ様は、『「力」に頼ってばかりいると、それがないとダメになって、どうしようもなくなるぞ』と、言われて」
「そんなことを、言ったか?」
「はい。厳しいことを言われる方だな、と思いました」
「それを言うなら、わたくしも驚いたぞ」
「え?」
「忘れたのか? そなた、そのわたくしの言葉の後で、『ドケチッ!』と叫んだのだぞ」
「……」
そのことについては、綺麗さっぱり忘れていたフィリシアは、沈黙を守った。
「最初は、フィラルシーが叫んだと思ったわ。そしたら、いやいや可憐なそなたが叫んだと風達に教えてもらって、びっくりしたぞ」
くくくっと笑いを抑えながら、オリガは言った。
その表情は本当に楽しそうで、フィリシアは、ひたすら沈黙を守るしかない。
「だが結局、いい方法を二人で考え出していたな」
「それは、オリガ様が言われたからですよ」
「うん?」
「『二人で一緒に考えるならば、良いぞ。ただし、一月以内な』と言われたので、二人で必死に考えたのです」
多少、言葉が恨みがましくなるのは仕方なかった。
だが、あの時は本当に大変だったのだ。しかも、オリガからのアドバイスは、一切なかった。
当時、フィリシアもフィラルシーも七歳である。
「ああ、そうだったな」
顔に笑みを浮かべたまま、オリガは頷いた。
「一つ聞きたいのですが、オリガ様」
そんなオリガに、フィリシアは尋ねた。
「あのまま、私達が良い考えが浮かばなかったら、どうしていましたか?」
「そうじゃな……。どうしたであろうか?」
そう答えたオリガの横顔に、雪が静かに舞い落ちる。
「また、降ってきたな」
その雪を見て、オリガが呟く。
空を見上げるオリガを見つめながら、フィリシアは、自分の吐く息が空に登っていくのを感じていた。
結論から言えば。
フィリシアとフィラルシーは、一緒に過ごせるようになった。
二人は、オリガが言ったように一ヶ月考え込んで、その方法を思いついたのである。
<「文初めの儀」?>
風達が運んでくれるオリガの言葉は、いつも、どこかくぐもって聞こえた。
<ダメかな? 母上>
フィラルシーの声は、やはり「力」を使っている本人のせいか、はっきりと聞こえる。
<まあ……悪くはないがな>
「文初めの儀」というのは、アリシア帝国で、子どもが七歳になった時に行われる儀式だ。 「学びの儀」とも言われている。
騎士の家や商家、貴族の家、農家など、子どもが生まれた家によって学ぶことは違ってくるが、子どもが七歳になった時から、アリシア帝国では「学ぶ」ことを始める。
そのことを祝うのが、「文始めの儀」なのだ。
そしてそれは、南都公主家の二人の公女―フィリシアとフィラルシーも、例外ではなかった。
否。むしろ、多大な期待を持って、人々は二人の「文初めの儀」を待っていた。
この頃。人々は、口々に言っていたのだ。
「南都公主殿は、なんと幸運なお人よ。期待できる跡継ぎと、どこに出しても恥ずかしくない駒を、同時に持っていらっしゃる」と。
言うまでもなく、「期待できる跡継ぎ」とは、フィラルシーのことだった。
女ではあったものの、公妃の娘で、二人の神から守護を受けている彼女が跡継ぎになることは、誰も文句はなかった。
そして、「駒」とはフィリシアのことだった。
「神の色」は持たなかったものの、母親に似た、愛らしい顔立ちのフィリシアは、やはり政略結婚の「駒」として、有力な存在だと考えられていたのだ。
だが、当人達は、そんな儀式があることも知らなかった。
そもそも、フィリシアとフィラルシーがこの「文始めの儀」のことを知ったのは、フィリシアの乳母の、『もうすぐ姫様の『文始めの儀』ですね。お父様に、何をお願いしますか?』という言葉からだった。
その時は、何のことかわからなかったので、『何、それ』と、フィリシアは聞いて、乳母に教えてもらったのだ。
「文始めの儀」は、全能神・ムーアが七歳になった時、学問の神・ティカルに付いて学び始めたという故事に由来する。
アリシア帝国の子どもたちは、七歳になった時、この「文始めの儀」をして、学び始めたことを祝うのだと言う。
『その時に、お祝いの品物が渡されるのです。たいていの場合は、子どもたちが先に希望している物を、送られるみたいですよ』
乳母の言葉を聞いたとたん、フィリシアはそれだっと思った。
その「文始めの儀」自体には何の興味も抱かなかったが、「お祝いがもらえる」ということは、しっかりと頭の中に残った。そして、すぐフィラルシーに知らせたのだ。
風達は、フィリシアがフィラルシーに「言葉」を伝えようとすると、その「言葉」を運んでくれる。
それは、いつでも確実に、しかも素早くやってくれるので、フィリシアは内心この「力」を自由に使わせてくれないオリガのことを、恨んでいた。
そうして、「力」を使って二人で話し合い、「文始めの儀」のお祝いに、父親のガーイに「一緒に遊ぶ」許可をもらおうと考えたのだ。
<悪くはないが……いつ、言う気じゃ? >
オリガは、ふむ、という感じで聞いてきた。
<え……?>
「はい?」
そのオリガの問いに、フィリシアとフィラルシーは、とまどった。
二人とも、「お願いをする」ことだけに拘っていて、何時父親にその「お願い」を言うのかまでは、考えていなかった。
<「文始めの儀」の時に言うつもりか? ……しかし、そなた達は、別々に行われるぞ>
<えっ? そうなの?>
「え、なんで?」
この時、もしオリガの表情を自分が見ることかできたのなら、苦い表情を見ることができたのだろうな、と後にフィリシアは思った。
何故、自分達二人の「文始めの儀」が、一緒に行われなかったのか。
その理由は、母・セーレンのせいだった。
母は、極力控え目な態度をとろうとしていた。
だから、公式の行事にもほとんど出席することはなかったし、フィリシアが公衆の面前に出ることも好まなかった。
その姿を見て、世間の人々は、
「南都公主殿の愛妃殿は、慎ましいお人よ」
と噂したらしいが、それは違うのだ。
母は、わざとそういう態度をとっていたのだ。
否、違う。
そういう女性を―「慎み深く、神の化身である公妃に圧倒されてしまう、か弱い愛妃」としての自分を演じていた。
父・ガーイの気を引くために。
父の気持ちが、自分から離れていかないようにするために。
だから。
当然、娘の「文始めの儀」を、公妃の娘であるフィラルシーと一緒にすることなど、反対だった。
父が自分のことを「控え目で、か弱い人よ」と、思うようにするために。
ただ、それだけのために。
<…まあ、いろいろと事情があるのだろう>
ただあの頃の自分には、そんな母の心情など、わかるはずもなかった。
だから、そう言って言葉を濁したオリガに、フィリシアは、それ以上の事は尋ねなかった。 がっくりと、オリガの言葉にフィラルシーと二人で落ち込んだだけだ。
せっかくいい考えが浮かんだのにと。
<別に、「文始めの儀」の時に、お願いしなくてもいいのではないか>
だが、そんなオリガの言葉に、フィリシアの意識はすぐ様浮上する。
<母上?>
フィラルシーの方も、何かを期待するように、母親を呼んだ。
<今から、公にお願いしに行けばいいではないか>
オリガは、何でもないことのようにそう言った。
<父上に!?>
「今から!?」
<今なら、公は執務室にいらっしゃるぞ。行ってくればよいではないか。フィラルシーは、執務室の場所を知っておるだろう?>
ちょっとそこまで行くような―そんな気楽なオリガの言い方に、フィリシアは固まってしまった。
仕事中の父親のところに行くことなど、まず、考えられなかった。
この頃のフィリシアは、母親のセーレンと同じで、ほとんど自分が住む棟の館から出たことがなかったのだ。
だがら。
オリガの提案は、フィリシアにとって、とんでもないものだった。
だが、フィラルシーは、
<わかった。行こう、フィラ>と、言った。
「フィー……。でも……」
<父上には、怒られるかもしれないけど、私はフィラと一緒に遊びたいの。だから、お願いしてみる>
自分は父の怒りが怖くて臆しているのに、フィラルシーの言葉には、迷いがなかった。
(すごいな)
それが、フィラルシーに対して、そう思った瞬間だった。
自分のできないようなことを、風のように軽やかに、やってのける異母妹。
そのことに、不思議と嫉妬は感じなかった。
ただ、自分にはできない、と思っただけだ。
そう。
フィラルシーの生き方は、自分には、絶対できない生き方だった。