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馬の鋭い嘶きに、フィリシアは目を細めた。
雪でぬかるんだ土の道に、馬車の後輪が入り込んで、動かなくなっている。
従者の男達が馬をせかして、ぬかるみから馬車を運び出そうとしているが、馬車は、なかなか動かなかった。
苛立ちを感じ、フィリシアは髪の色と同じ、薄茶の眉を寄せる。
「フィリシア」
そんなフィリシアを宥めるように、落ち着いた女性の声が、フィリシアの名を呼んだ。
「―オリガ様」
フィリシアの名を呼んだ女性は、焚き火の火種を起こそうとしていた。
黒髪に、黒い瞳。
どちらも、『神の化身』と言われる者達にしか授けられないものだ。
その長い黒髪は、火を起こすために邪魔なのか、いつのまにか、縛ってあった。
「こういう時は、上にいる者が慌てても、ろくなことはないぞ」
そう言いながら、オリガは種火に息を吹きかけた。 その姿は、どう見ても、プライジャリ・マリ―この国一番の公妃と意味である―と呼ばれ、『神の化身』とも言われ、さらにこの国の皇帝の姉でもあるこの女性には、似合わなかった。
そもそも、火起こしは、下働きの者がする仕事の一つだ。
なのに、オリガはそれにかまわず火を起こし、湯を沸かそうとしている。
その様子をじっと見つめていると、視線に気づいたのだろう。
「時間を持て余すなら、そなたも手伝え、フィリシア」
と、オリガが言った。
「……オリガ様は、焦るお気持ちはないのですか?」その態度は、とても落ち着いていた。
慌てる様子も、苛立ちも、感じられなかった。
どうして、そんなことができるのだろう?
「フィラルシーが、危篤なのですよ!? 」
あなたの娘が。そして、私の異母妹が。
白い息が上がった。
パチッと音がして、火が勢いよく燃え上がる。
「焦ったところで、どうなる?」
「オリガ様っ」
「従者達を責めるのか? 彼らは、よくやってくれておる。この悪天候の中、今でも馬車を動かそうと必死になって働いてくれておる……間に合わなかった時は、その時じゃ。天命には、逆らえぬ」
淡々と、オリガは言った。
―フィリシア。
その瞬間、自分の名を呼ぶ、フィラルシーの笑顔が、脳裏に浮かんだ。
フィラルシー……フィラ。
自分の、異母妹。
明るい瞳をした―唯一の、心許せる存在。
そんな自分にとって大事な存在を、この世に生み出してくれたのは、この女性だ。
その女性が―覚悟をしている。天命には逆らえぬ、と。
「……だいじょうぶじゃ」
「……オリガ様」
「あの子は、わたくし達が着くまで待っていてくれる。だから―そなたも、落ち着いて、今自分ができることをするが良い」
「今、自分ができること……」
フィシアは、オリガの言葉を、噛み締めるように呟いた。
すっと、オリガが湯を沸かすため、銀のポットを手に立ち上がった。
羊の毛を糸にして編んだ手袋をぬき、綺麗な雪が積もる、土手になっている方へ足を向ける。
「オリガ様、そのようなことは、僕達がしますから」
それに気づいた、まだ年若い、赤毛の髪をした少年が、オリガに駆け寄ってきた。
おそらく、御者見習いの者だろう。
フィリシアは、その少年を見知っていたが、名前までは知らなかった。
「よい、セルゲィ。そなた達は、馬車をはよう動かすことに全力を注いでおくれ」
しかし、オリガは少年の名を呼び、そう言った。
「しかし、オリガ様」
「茶を入れることしか、わたくしにはできぬ。……できることを、させてくれ」
ふっと、哀しげな微笑を浮かべ、懇願するように、オリガは言った。
年も身分もはるかに違う、年若い従者の少年に。
「……わかりました」
少年は頷くと、馬車を動かしている仲間達のところに足早に戻って行った。
ザクザクと少年が雪を踏みしめて戻る姿を、オリガはじっと見送った。
そして、その後で雪の上にしゃがみ込むと、白い雪を手ですくい始めた。
上質な毛織物で作られた上着が濡れようとも、気にはしていないようだった。
―どうしたら、あんな風になれるんだろう。
そんなオリガを見つめながら、フィリシアは思った。今の自分は、二十四歳。
十七年前のあの頃のオリガと、今の自分は、同い年だ。
だけど、未だにあの人のようには、なれない。
あの人のようには、振舞えない。
ザクッと、フィシアは足を踏み出した。
鹿の皮を何枚も重ねて作った長靴でも、雪は、フィリシアの足先に冷たさを伝えてくる。
それでも、オリガのいる場所まで、歩くのを止めようとは思わなかった。