エバの過去
帰っていくジズカン博士にぴったり寄り添ったシィナは、振り返るとそっとウィルが眠っているだろう部屋の扉を見た。 そしてエバに視線を移すと、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ウィルに謝っておいて……あたし、自分の勝手な思い込みで、マスターシェージを毛嫌いしてた。 あんなに身を犠牲にしながら守ってくれていたのに、ひっぱたいたり、ひどいことを言ったり……」
エバは明るく笑った。
「心配するな。 あいつは強い奴だから。 ケーキでも奢っておけば機嫌も治るさ」
シィナは思わずくすりと笑うと、
「エバとレンドも、ありがとう」
と笑顔を残して、ジズカン博士と共に帰っていった。
「ふう……」
安堵の表情で息を付くエバ。
「お疲れさま」
と色々な思いを込めてレンドが労いの言葉を掛けると、エバはきびすを返して
「報酬は倍欲しいくらいだぜ。……それにまだ、事は終わっちゃいねえ」
と、ウィルが眠っている部屋へと入っていった。
――
目を覚ましたウィルの瞳に、知らない部屋の天井が目に映った。
相変わらず身体中は動かなかったが、怪我の手当てはされていて、綺麗なシーツと布団に包まれ、どこか穏やかな気持ちになっているのを感じていた。
ウィルはそっと動いてみた。 全身を激痛が走り、うめき声が漏れた。
「ウィル!」
すぐ傍で声がした。 視線を移すと、ベッドの傍らにエバが膝まづいていた。 突っ伏して眠っていたのだろう、頬にシーツの跡がくっきりと付いている。
「気が付いたのか、良かった! 今レンドを呼んでくるからな! あ……」
立ち上がったエバは、不意に曇った表情をした。
「ウィル、俺が分かるか?」
恐る恐るそう尋ねるエバに、ウィルは小さく
「エバ」
と返した。 その途端、エバは満面の笑顔になって、肩の力を抜いた。 その時、部屋の扉が開いた。
「ウィルが起きたのか?」
部屋に入ってきたのはレンドだった。
「なんで分かった?」
「いきなり騒ぎだしたら、誰でも分かるよ!」
そう呆れて言いながらも、ウィルを見ると安心したように微笑んだ。
「ウィル、ボクが分かるかい?」
「レンド」
「うん、ちゃんと記憶は残ってるみたいだね。 体は痛い?」
レンドの優しい問い掛けに、ウィルは小さく頷いた。
「無理もない。 右手上腕と左膝が複雑骨折で、他の部位もあちこちひどい打撲。 普通の人間だったら生きていないよ」
レンドは手早くウィルの怪我の様子を診て、再び布団を掛けた。
「ま、キミは回復能力も早いはずだから、しばらく横になっていればすぐ治るよ」
「どれくらい掛かる?」
「一ヶ月かな……その間は、絶対安静だからね!」
念を押すように、ウィルとエバに言い聞かせると、
「じゃあボクは帰るから。 何かあったら連絡して」
とホテルを出て行った。
静かな部屋の中には、空調の音が漂っていた。エバは珈琲を持ってきて、再びウィルの傍らに座り、穏やかな顔をしていた。
「でも良かったぜ。 お前が生きていてくれて」
そう話すエバの瞳は、どこか遠くに思いを馳せていた。 そしてゆっくりと話し始めた。
「昔……俺がまだ小さかった時、犬を飼ってたんだ。 そいつ、俺にすごく懐いてて、いつも一緒だった。 毎日が楽しくて、あいつがいることが当たり前だったんだ。 そんなある日、俺が勢い余って道路に飛び出してしまったとき、目の前に車が迫ってた。 その俺を、背中を押すようにあいつが飛び出してきて、それで……あいつは……ウィルは、死んでしまった」
「ウィル……」
「そう。 お前の名前は、あの時俺の友達だった犬の名前を付けたんだ。」
エバは苦笑した。
「その性か、お前があの時一人で敵のビルに突っ込んでいったとき、何故か焦ってた。 また、俺の大事な相棒が、いなくなってしまうんじゃないかってさ」
ウィルはじっとエバを見つめていた。
「もう、大切なものを無くすのは、ごめんだ」
エバは照れ臭そうに髪をくしゃくしゃっと掻き上げると、珈琲を飲み干した。 そして、思い出したように立ち上がると、
「ウィル、何も食べてないから腹が減っただろ? 何か作ってやるよ、待ってろ!」
と部屋を出ようとした。ウィルは慌てて起き上がろうとして、体の痛みに呻いた。 急いで戻ってきたエバがその肩を掴み
「こら、動くな! 絶対安静だって言われただろ? 寝てろ!」
と強引にベッドに寝かせた。
「いえ、私は……」
と何か訴えようとするウィルの額をぐっと押さえると
「寝てろ」
と今度は優しく微笑み、部屋を出て行った。 ウィルは素直に枕に頭をうずめ、じっとエバが閉めた扉を見つめていた。
やがてエバはおかゆを持ってきて、食べさせてやると言ったが、戸惑い拒むウィルの口に無理矢理運んでやった。 そのうちにウィルは抵抗するのも無理だと感じ、ただされるがままになったが、どこかその瞳には動揺した揺らぎが生まれていた。
それからウィルは、じっとエバを見つめることが多くなった。
数週間も経つと、ウィルはベッドから立ち上がり、ゆっくりだが歩けるようにもなっていた。
その頃には、レンドの力を借りてエバの事務所も修理され、再び仕事を再開していた。
ウィルはリハビリの延長で、少しずつ家事をするようにもなっていた。 その間も、エバは仕事に出かけていたし、ナンパをして女性を連れ込んでくることもあった。
エバの生活には、以前となんら変わりはなかった。
順調に元の生活に戻るかに思えていた。