複雑な心
その日のエバはずっと、ウィルの家で雑誌を読んだりテレビを見たり、ゴロゴロして時間を潰していた。 さすがにマスターにぞんざいな扱いはしなかったが、時折
「事務所に戻らなくても良いのですか?」
と尋ねるウィルに、エバは
「うん……もう少しなら大丈夫……」
と曖昧な答えを返しながら、とうとう日が暮れた。
すると、懐の携帯電話がけたたましく鳴った。 エバは途端に眉をしかめ、まるで汚いものを持つかのように、ジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。
「はい~~」
≪おい、エバ! いつになったら帰ってくるんだっ!≫
エバの耳元に、レンドの怒り狂った叫びが聞こえてきたので、彼は思わず携帯電話を耳から離した。
「えっと~……もうそろそろかなぁ……」
≪つうか、今どこに居るんだよっ? 女の所なのかっ? いいかっ! ボクも暇じゃないんだぞっ! シィナも寂しがってる! 早く戻って来い! 仕事放棄で、報酬を減額するぞっ!≫
【シィナ】という言葉に、思わずエバの頬がぴくりと痙攣した。 どうやら少しトラウマになりつつあるようだった。
「まあまあ、そんなに怒るなって。 じゃあ帰るから!」
と手短に答えて通信を切ると、ため息を落とした。 その様子に、ウィルは不思議そうに首を傾げた。 エバはやっとあきらめたように重い腰を上げると
「じゃ、帰るわ……」
と玄関に向かった。
ウィルは玄関先まで見送りに出て、エバの背中が見えなくなるまでじっと見つめていた。
その夜は、さすがのエバもシィナと一緒のベッドでは眠れないからと、同じ部屋に布団をもう一式敷き、エバのベッドで眠るシィナの下で、布団に丸まった。
『いつまで続くんだろうな、こんな生活……』
エバはそんな不安を抱えながら、その夜はなんとか眠りにつくことが出来た。
――
陽が昇る頃……。
「うわぁっ!」
不意に目が覚めた途端、エバは慌てて跳ね起きた。
自分の目の前に、シィナの寝顔があったのだ。
「おっっお前、何でここで寝てんだよっ?」
エバの大きな声に、シィナがゆっくりと目を開けた。
「ん……おはよう、エバ!」
にっこりと微笑むその顔は、天使のように輝いている。 エバは一瞬とろけそうになりながら、激しく頭を振った。
「お前、ベッドで寝ていたはずだろ?」
エバは、布団がめくれている自分のベッドを指差した。 エバの指先を辿って寝ぼけ眼でベッドを見上げたシィナは
「落ちちゃったみたい」
と、まったく悪気の無い笑顔で舌を出した。
『うわお! めっちゃ可愛いやん!』
と心をかきむしられながら、エバは呆れて苦笑いを返すしかなかった。
一時間後、シィナが用意してくれた朝食を食べながら、エバは
「な、早く帰りたいだろ? 家に」
と尋ねた。 するとシィナは驚いたように目を見張った。
「エバは、あたしと一緒に居るのがイヤなの?」
『昨日の行動みてりゃ、分かるだろ! 本当に親のもとに帰るのがイヤなのか? それとも俺の事を?』
と心の中で妄想しながら、
「いや、だって、寂しいだろう? 親の顔を見ないまま過ごすのなんてさ」
「親なんて居ないわよ!」
シィナは頬を膨らませた。 彼女は、親の話になると途端に機嫌が悪くなる。 少し俯いて、ため息の様な吐息と共に話しはじめた。
「ママはあたしが小さい時に死んじゃったし、パパはあんな感じでマスターシェージばっかり……あたしは小さい頃からずっと一人ぼっちだった。 だから、別に寂しくもなんともないわ」
そう言いながら、カゴの中から取ったロールパンにかじりついた。 パンに、くっきりと小さな歯のあとがついた。 エバは小さくため息を付くと、目玉焼きにフォークを刺した。
その時だった。
「ん……?」
「どうしたの、エバ?」
不意に動きが止まり気配に耳を澄ますエバの顔を、シィナが覗き込んだ。 エバの瞳が、いつになく緊張に包まれていた。
「ん……何か変な気配がする……」
エバはその肌に、空気が震える感触を感じていた。
どこかから何かが近づいてくる気配。
エバは神経を研ぎ澄ませて、それが何なのかを探ろうとした。そして――
「シィナ! 伏せるんだ!」
「えっ?」
いきなり立ち上がると、食事中のシィナを庇って床に伏せた。 部屋の中に珈琲のしぶきが飛び散るのと同時に、部屋の窓ガラスが一斉に割れ始めた。
銃で攻撃されたのだ。
いきなり幾つもの銃声と弾丸が、部屋の中を乱舞しはじめた。