マスターシェージ
しばらく狭い廊下を歩いていくと、男は突き当りの扉を開けた。
その向こうにはまた下へと通じる階段があり、煌々と点いている照明に照らされながらその階段を下りて行った。 さっきの階段と同じように、人がすれ違うのも精一杯の狭い階段だった。
最初の小さな小屋の扉を開けた時から五、六メートルは下がっただろうか……階で言うと、地上から二、三階分くらいは下りたようだ。
突き当たりにはまた扉が固く閉ざされていた。
その扉の横に設置された小さなボックスに、男はおもむろに懐から取り出したカードをかざした。 すると扉は静かに横へとスライドし、向こう側に部屋が現れた。
先ほどの部屋と似たような、金属で出来た近未来的な銀色の壁と床、そして天井は意外なほど高い。 相変わらず人の気配も無く、誰も居ない部屋に通されたエバは、周りを興味深い様子で見回した。
「ここからは、あの男が案内いたします。 彼に従ってください」
受付の男は扉の向こう側に立ったままで、部屋には入って来ずに、丁寧に軽く一礼をすると扉を素早く閉めた。
部屋の中に視線を移したエバの目の前には、今の男と同じようにグレーのスーツを着こなした、黒サングラスの男が一人立っていた。 受付の男と似た体型をしているが、もう少し賢そうな雰囲気をしている。
彼はいつの間にか受付の男から受け取っていた、今さっきエバが記入した契約書に目を通し、傍らに置いてあるファイルに収めた。
「エバ・マイトソン様。 初めてのお客様ですね?」
「ああ」
「他の施設を利用されたことは?」
「ない」
「では、全く初めてのご利用ということですね?」
「ああ」
「ここを、どういう場所か、理解してのお越しと理解してよろしいですね?」
「……ああ」
エバは半ば面倒くさそうに答えた。 というか、いい加減に飽きが来ていた。 ここまでの道のりが長かった性だ。 もはや、目の前の男に隙があろうがなかろうが、どうでも良くなっていた。 エバは片方の足に重心を乗せて身体を斜めにしたままで、かったるそうに言った。
「早いところ、出してくんないかな?」
男はサングラスの向こう側で少し笑い、呆れた、という風な印象を醸し出した。
「分かりました。 では、ご希望のタイプをお伺いします」
男は機敏な動きで床をつま先で軽く二回蹴った。 すると下から小さな金属製のテーブルが持ち上がり、その上に画面が起き上がった。 テーブルの上をポンポンと上品な細長い指で操作すると、幾つかの文字が生まれてはまた消えた。
その様子を見ながら、エバは待ってましたとばかりに、口角を吊り上げた。
「一番は若い女だな。 運動神経が良くて、料理が上手くて、その他の家事も難なくこなせて、俺に反抗しないやつ」
楽しそうに淡々と言うエバに、男もクールに耳を澄ませながら、目の前のテーブルを指先で叩いた。
「では、何人か出してみます」
そう言うと、男はなにやらを決定する感じの叩き方で最後に指をタップした。 するとそれに呼応するように、異常なほど高い天井にいくつかの丸い亀裂が出来、それが静かに丸い形で降りてきた。 合計五つの円柱は、下りてくるほどにその全容がエバの視界にも届いた。
ガラスの様に透き通った円柱に、少し黄色に濁った液体がほぼ満タンまで入れられており、時折空気の泡が立ち上っている。
その中にはそれぞれにひとりずつ、人間と思わせる形容のモノが浮かんでいた。
フワフワと無重力のように揺れる、一糸まとわぬ白い肢体。 眠っているように目を閉じ、それぞれに特徴のある髪の毛を躍らせていた。 その身体も顔つきも、それぞれに個性がある。 液体の中でなかったら、普通の少女にしか思えないほど、ごく自然な形でそこに存在していたのは人造人間――通称マスターシェージと呼ばれるモノだった。
「まるでホルマリン漬けだな」
エバも、本物を見るのは初めてだった。
彼は男に促され、わずかに戸惑いを浮かべた瞳で、人造人間が眠る円柱――通称カンオケを順番に眺め、品定めをするように見比べた。
「どれも一緒だろ?」
生命維持液であるウェデーロに浮かぶ少女たちを上から下まで見つめながら、軽い口調で言うエバに、男は抑揚の無い声で答えた。
「基本的には。 多少の性格の違いはありますが、エバ様のご希望のタイプを下ろしました。 この中から選べなければ、また選びなおしますが?」
「ふぅ~~ん……」
エバはあごに手を置きつつ、しばらくそれぞれのマスターシェージを物色していたが、やがてひとつのカンオケの前で立ち止まった。 肩辺りまで伸びた黒髪が、ウェデーロに絡まるように揺れ動いている。 軽くつむる瞼には、長いまつ毛。 筋の通った鼻に、少しぽっちゃりとした唇。 時折コポコポと立ち上る水泡が、長いまつ毛に引っかかって進路をずらす。 これはマスターシェージ全般に言えることなのだが、一糸まとわぬ肢体のくせに、まったく色気を感じさせない。 透き通るような白い肌。 小さく膨らんだ胸。 そして、肩の辺りが微妙にがっしりとしているのを見て、エバはほぼ直感でコレに決めた。
「いいよ、これで」
「承知致しました」
男は小さく頭を下げると、手元のテーブルをポンポンと叩いた。
他のカンオケが静かに天井へと収まり、それを確認すると、男の指がテーブルを再び叩いた。
するとエバが選んだカンオケの中のウェデーロがみるみるうちに下部へ流れ去り、綺麗に爪の切りそろえられた足先が床に着いた。 フラフラと揺れながら立ち、まだ目をつむっている。
「起きないぞ?」
心配げに眉を寄せ、腕を組むエバに、男が淡々と答えた。
「お待ちください」
ウェデーロが全て流れ去ると、今度はカンオケの前部が扉の様にぱかりと開いた。 エバの目の前に、生身のマスターシェージが立っていた。
エバは一度、唾液を飲み込んだ。 人が造りだしたものとはいえ、生々しすぎるのだ。
「マイトソン様。 マスターシェージの顔の前で一度、手を叩いてください。 その合図で目を開け、一番最初に見た人物をマスターと認識します」
エバは無言で頷き、男の言う通りに両手を差し出すと、パンッと一度叩いた。 金属で覆われた部屋に、破裂音が響いた。
「…………」
数秒後、やっと彼女の目がゆっくりと開いた。
『シルバー?』
その無機質な瞳に、エバは背筋に冷たいものが伝い落ちたのを感じた。 明らかに人間のモノではないその銀色の瞳は、次第に黒色へと変化した。
やっと焦点のあった瞳で瞬きを数回すると、髪の毛や身体からウェデーロを滴らせながらカンオケの外へと一歩踏み出した。 冷たい床に素足がぺたりと触れる音がした。
眠りから覚めたマスターシェージは、エバの前まで歩みを進めて彼を見上げた。 無表情な視線にエバは少し戸惑ったが、それを除けば、まさしくどこにでも居るような人間の女の子に見えるのだった。
「十万アーニーです」
男の声が冷淡に響いた。 エバが懐から自分の銀行カードを差し出すと、男は丁寧にそれを受け取って目の前に表示していた画面にかざした。
ピッ、という軽い音がすると
「ありがとうございました」
と再びカードを返し
「またのご利用をお待ちしております」
と頭を下げた。
「あ――」
何か言葉を返そうとした途端、エバの足元の床がパタンと消え、彼の身体はあっという間に真っ暗闇へと滑り落ちた。
「うわぁぁぁ!」
つかまるモノも無く、ただひたすら暗闇の滑り台に身を任せるしかなかった。 見上げると、エバが落ちてきた床の四角い光が、みるみるうちに小さく遠くなっていく。 そして幾つかのカーブを身体に感じながら十数秒ほど滑っただろうか? もうどちらが上か下かも分からなくなった頃、厚い布のカーテンらしいモノにぶつかって減速したエバは、勢いを殺されながらも小さな部屋に滑り込んだ。
「いってぇ……」
エバは顔をしかめて立ち上がり、摩擦で破れていないかと尻を手でさすって何とも無いのを確認した。 そして、人一人がやっと入れるほどの小さな小部屋を見回すと、向こう側の光が隙間から漏れてくる薄茶色の生地の厚いカーテンが目の前に垂れ下がっていた。 エバはそれに手を掛け、ゆっくりと開けた。
「ヒュゥ! なるほどね」
口笛を吹いてニヤリと笑うエバ。
そこはデパートの衣服売場だった。
エバは試着室から出てきたのだった。
『これなら、怪しまれずに済むってわけか』
この状況だと、このデパート自体もあの施設と一枚噛んでいることになる。
感心しながら周りを見渡していたエバは、次の瞬間、ハッと目を見開いた。
『さっき買ったばかりのマスターシェージが居ない! くそっ! いっぱい食わされたかっ?』
あのマスターシェージに支払った十万アーニーって言ったら、エバにとっては三年分の生活費だ。
再びあの小屋に襲撃してやる!と怒りがあらわになる寸前、不意に後ろから声を掛けられた。
「お連れ様はこちらです」
見ると、女性店員に連れられたマスターシェージがそこに立っていた。
さっきまでの裸ではなく、ウェデーロに濡れた髪や身体は綺麗に乾かされ、今風の衣服に身を包み、一見は普通の女の子にしか見えない。
「たいしたもんだな。 衣服もここで調達出来るってわけだ」
全てがうまく繋がっている。 改めて、表と裏が緻密に組み合わされている世の中を思い知るエバだった。