ウィル、一人暮らしをする
「ウィル、来れるか?」
エバが独り言を言うと、数秒後にウィルが姿を現した。 いつもと変わらない従順な態度に、わずかに胸がざわめくのを感じた。
「今からお前の部屋を借りに行く」
「はい」
ウィルからは、当たり前の様に何の疑問も返って来なかった。 そして歩き始めたエバの後を、黙ってついてきた。
その日のうちに、エバは近所のアパートに一室を借りた。
仕事柄、信用を売れば何かと助けになるもので、今回も、それほど広い部屋ではないが生活するに充分な部屋を快く貸してくれた。
部屋を貸せば、この辺りの治安も守ってくれるとでも思ったのだろう。 そんな含みが、管理人の年配男性の顔からも感じ取れた。
ま、あながち間違いではない。
最近の流行なのか、必要な家電はすでにほとんど設置してある部屋なので、贅沢を言わなければすぐに住める状態になっていた。 それでも装飾の無いがらんとした部屋の中で、興味深く見回しているウィルにエバは懐から封筒を取り出した。 さっき貯金を引き出してきたばかりの、札束が入っている。
ウィルはきょとんとしながらそれを受け取ると、エバを見上げた。
「当面の生活費だ。 ここの管理人は俺も知り合いみたいなものだから、何かあったら頼ったら良い。 結構面倒見も良いからうっとうしいかもしれないが、マスターシェージだってことは隠して、普通の人間っぽく応対しておけよ。 あくまでも管理人は一般人だからな」
「はい」
ウィルは素直に頷いた。
近所だから、呼んでも数秒で合流できるだろうとウィルに確認し、エバは部屋を出た。
借りた部屋は二階にあり、その階段を下りたところで、さっき応対した管理人に再び出会った。 年柄なのか、あまりジッとできない性分のようだ。
「あ、今日はどーも。 これからよろしくな!」
一応軽く挨拶をして去るつもりのエバに、管理人がいそいそと近寄ってきた。 近づくほどに、その顔の深いしわに吸い込まれそうになるので、エバはいつもわずかに背中を仰け反らせている。
「あの子、あんたの妹って言ってたけど?」
「ああ。 そうだけど?」
心配げに言う管理人に、エバはあからさまに眉をひそめた。 何かお節介なことを言われるのだろうと、直感したからだ。
「女の子一人だけを住まわせるのは、心配じゃないかい? 自分とこで一緒に住めばいいじゃないか。 狭い部屋じゃないんだろ?」
「いや、だからそれは……」
エバは危うくマスターシェージのことを言いそうになった。 購入する時の規約の一つに、むやみにマスターシェージのことを口外してはならないとあるのだ。 特に一般人への情報流出は、命を取られるほどの重大な過失とみなされる。 もし破ったら、購入したマスターシェージは即時没収され、その後生涯二度とマスターシェージを購入する事は出来ないどころか、社会的に復帰できない身体になるらしい。
エバは言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「ただちょっとこっちに仕事の関係で用事が出来てさ、田舎から出てきただけだら、しばらくの最低限の世話は俺が面倒を見るだけだよ。 後は自分で生活していくって言ってたから大丈夫だ。 そんなに心配なら、たまに覗いてやってよ。 じゃ!」
「たまにって――」
エバは、まだ何か言いたそうに口をパクパクさせている管理人に背中を向け、自分の事務所へと向かった。 どうせ
『妹だからって心配じゃないのか? 危険な仕事をしているからと言って、ただ面倒くさいから外に置いておくだけじゃないのか』
などと説教めいた事を言おうとしたのだろう。 エバは気にもせずに足早に住宅街を抜けていった。
一方レンドは、エバの事務所でコンピューターを開いて仕事をしながら、とりあえずシィナのボディガードをしていた。
シィナも、レンドがエバの知り合いだと知ると、疑いもせずに一緒に同じ空間で過ごしていた。 彼女はまるで以前から住んでいるかのように、せっせと家事をこなしている。 その様子を横目で見ながら、レンドはシィナに質問をした。
「早く、父親の元に帰りたいでしょう?」
するとシィナは掃除する手を止めて、それまで明るかった表情を曇らせた。
「パパは……あたしのことなんて何とも思っていないわ。 だから、例えあたしが帰ったところで、パパが優しくなることはないでしょう。 それに、あたしが狙われていることが面倒くさいから、ここに預けたようなものなんでしょう?」
そう言いながら、シィナはどこか人生にあきらめたように瞳を伏せていた。 レンドは質問を間違えたかと気遣い、
「ボクたちは依頼されたことをやっているだけだから、キミたちの状況はよく知らないんだ……気を悪くしてしまったら、謝るよ……すまない」
と小さく頭を下げた。 シィナは顔を上げると、無理やり明るい表情を作ってかぶりを振った。 そして
「いえ。 あたしも丁度家を出たかった所だし、ここにずっと住むのもアリだわ。 エバさんも優しい人だし!」
と周りを見回しながら肩をすくめて、小さく笑った。
レンドはエバの顔を思い出し、若干不安げな表情を浮かべたが、他に頼るわけにもいかない状況を思えば、少々の心配事は自分で事前に食い止める努力をすることにした。
夕方、エバが事務所に戻ると、ちょうどシィナが取り込み終わった洗濯物を畳んでいるところだった。 軽いウェーブのかかった茶色い髪の毛を一つに結び、前髪がふわふわと揺れている。 エバが帰ってきたのに気付くと、シィナは満面の笑顔で迎えた。
「おかえりなさい、エバ!」
「ただいまぁっ! シィナちゃん、寂しかったぁ?」
まるで妻が迎えるようなシチュエーションに、エバのテンションはマックスだった。
『こりゃ、このまま落ち着いてもいいかも』
と目尻を下げた。
せっせと畳み終わった洗濯物を部屋のラックやリビングの壁へと片付ける姿を見つめながら、ソファに寝そべっていると、本当に夫婦の空気を味わっている雰囲気になっていた。 その時、頭上からレンドの声が降ってきた。
「随分和んだ雰囲気だね」
どこか突っぱねたような、軽蔑したような口調に、エバは
「このまま一緒に生活してもいいかな?」
とすっかり穏やかな顔でレンドを見上げた。
大きく肩を上げてため息をついたレンドが
「ウィルは?」
と尋ねると、エバは手短に部屋を借りたことを伝えた。
「近所だし、何かあってもすぐに駆けつけられると確認もしたし。 これでゆっくりシィナちゃんと生活できるだろ?」
「気楽なもんだね」
呆れた口調で答え、レンドは
「帰る」
と部屋を出て行った。
シィナが、エバのボディガードを必要とする期間は未定。
それは、いつ襲われるかも分からないという懸念も同時についてきていた。
だがエバは、かいがいしく家事をしてくれるシィナを守る覚悟は、余裕で出来ていた。 シィナもエバに対して好意を抱いているようで、その日の夕食も、唯一得意だというクリームシチューを一生懸命作っていた。