マスターシェージ嫌い
翌朝、なにやら食器がカチャカチャと軽くぶつかる音に目を覚ましたエバとレンド。
「ん? ウィル、早いな?」
時計を見ると、いつも起きる時間よりも一時間ほど早い。 いつもと違う場所で眠りについていたので、二人共体中がきしんでいた。
数秒後、部屋の扉が開き
「おはようございます。 呼びましたか?」
とウィルが現れた。
「ん? 今起きてきたのか? じゃあ、今キッチンに居るのは……?」
眠気の残る目をこすりながらエバがソファから立ち上がり、キッチンへと近づくと、いつもウィルがしているフリルの付いたエプロンをしたシィナがそこに立っていた。
「シィナ?」
驚くエバの後ろから、慌ててレンドも顔を出した。
「キミがシィナ?」
「あ、おはようございます! もうすぐ朝食の用意が出来ますから、顔でも洗って待っていてください」
「はあい!」
素直に返事をするエバの首根っこを掴んで引き止めながら、レンドが気遣った。
「キミがここまですることはないよ。 ウィルも居るんだから、キミは休んでて。 まだ疲れも残っているだろう?」
「いえ、助けてもらった身ですし、何かお礼をしたいんです」
昨日眠りに入ったそのままの顔は、ほぼすっぴん状態のシィナだったが、何の問題も無い可愛らしい瞳で見上げ、自分の気持ちを告げた。
エバは感動したように、潤んだ瞳でレンドの肩を叩き
「ほら、シィナちゃんもこう言ってくれてるんだしさ、お言葉に甘えようよ! さ、顔を洗いに行こー!」
と、楽しげに洗面所へと姿を消してしまった。
レンドは申し訳なさそうにシィナに向きなおすと
「無理はしちゃダメだよ、キミは大事な客人なんだから」
と一言残すとエバの後を追った。
誰も居なくなったリビングで、ソファの前にポツンと残されたウィルが所在なさげに立ち尽くしていると、シィナがつかつかと近づいた。 その顔からはさっきまでの太陽のような明るい笑顔はすっかり消え、明らかに嫌悪感がにじみ出ていた。
「あなた、マスターシェージでしょう?」
「はい」
素直に答えるウィルに、シィナは眉をしかめて自分の体を抱いた。
「気味が悪い……あたし、マスターシェージが大っ嫌いなの! だから、視界に入らないで!」
睨みながらそう低い声で言い捨てると、シィナは再びキッチンに戻って朝食の支度に戻った。
「あれ、ウィル? どうした?」
廊下ですれ違ったウィルに、エバは顔をタオルで拭きながら声を掛けた。 すっかり目も覚めて、晴れ晴れとした表情をしている。 これからシィナが作ってくれた朝食にありつけるかと思うと楽しみで仕方がないのだ。 その後ろからレンドも、仕方なく付き合った様子でついてきていた。
「シィナさんが、視界に入るなとおっしゃるので」
「えっ? 彼女、そんな事を言ったのか?」
エバはレンドと顔を見合わせ、首をかしげた。
「何かの間違いだろ? キミがマスターシェージだと、知っているのか?」
レンドの問いに、エバが答えた。
「いや。 俺が彼女を助けたし、ウィルは力を発動していないはずだ。 瞳も、銀色にはなっていなかったはずだし」
タオルを首にかけ、腕を組んで首を傾げているエバに、レンドは
「本人に聞いてみよう」
と、とりあえずウィルを連れてリビングに戻ることにした。
「そんなの、すぐに分かるわよ」
シィナはさっきウィルに見せた嫌悪感丸出しの顔で、腕を組んだ。
「いくら軽いとは言っても、女性があたしをあんなに軽々と抱き上げられるわけないもの。 それにこの無表情な応対は、どう見てもマスターシェージ!」
まるですぐにでも刺さる勢いで鋭く指を差して、シィナはウィルを近づかせないでと警告した。
「どうしてそんなに、マスターシェージが嫌いなの?」
穏やかなレンドの問いにシィナは、今度は手を腰に当てて肩を吊り上げた。
「パパの性よ! パパはいつだってマスターシェージのことばっかり! あたしが何を話しかけても、『後で』『後で』って全然聞いてくれないのに、研究生がちょっとマスターシェージの事を聞こうものなら、一時間でも一日中だって話し続けるんだから! あたしにとって、マスターシェージはパパを盗った張本人! あたしの敵なの!」
シィナがマスターシェージの事をどうしようもなく嫌いなのだと理解したエバは、ポンとウィルの肩を叩いた。
「ウィル。 しばらく外で遊んで来い。 何かあったら呼ぶから」
「はい」
勿論ウィルは嫌な顔もせず、反論ひとつもせずに踵を返すと、部屋を出て行った。
「いいのか?」
レンドが心配そうな顔でエバに声をかけると、振り返った彼の顔はあろうことか喜びに満ち溢れていた。
「エバ…………」
レンドは呆れかえって肩を落とした。
「これからシィナちゃんと二人きり……」
そう呟いたエバは、何か鼻歌を歌いながらシィナの肩を抱くと
「お腹空いちゃったよ、シィナちゃん! 今日の朝食は何かなぁ?」
と仲良さそうにキッチンへと向かっていった。 シィナはさっきとはまるで違う口調で
「あたし、料理はあまり得意じゃないんだけど、フレンチトーストを作ってみたの。 お口に合うかどうか、心配だわ」
とエバに甘えた眼差しを向けるので、彼もまた彼女の魅力に落ちていくのだった。 レンドはその後ろ姿を細い目で見ながら、小さく突っ込んだ。
「一体、何をやってんだよ?」
実際シィナの作った朝食は、本人が言った通りにお世辞にも決して美味しいとは言えなかったが、彼女の可愛らしさにはエバの味覚どころか思考回路もすっかりマヒしていた。
「これからずーっと、作ってくれると嬉しいなー?」
と甘えるエバに、シィナは嬉しそうにしなを作って微笑んだ。
「エバさんが喜んでくれるなら、あたしもお料理、頑張っちゃいます!」
『こりゃ、完全に【男好きな女】と【女好きな男】だな……』
レンドは二人を見つめながら、少し引いた目で見つめていた。
そして、食後に珈琲でのんびりしているエバに、レンドがそっと身を寄せた。
「昨日の話なんだけど、シィナをここに置いておくのは忍びないと思う」
「何でだよ?」
口を尖らせるエバに、レンドはよく考えてみろ、と肩を小突いた。
「シィナはウィルの事を心底毛嫌いしてる。 この先何かあった時にウィルに守ってもらうことになっても、シィナはそれを良しとは思わないだろう。 それか、キミ一人で守るつもりか?」
「なんとかなるさ!」
「何とかなるなら、警察は要らないんだよ! いいか? 今はウィルを一旦外に出しておいて良しとなったけど、これが数日続くとしたらどうするつもりなんだ? お前、ウィルを野ざらしにするつもりなのか?」
「そうかぁ……それもそうだなぁ」
エバは改めて事の面倒さに気付いたが、それほど気にしていない雰囲気の、一際のんびりした口調で答えた。 レンドはため息をついた。
「ウィルは何も言わないし、逆らうこともしない。 キミの命令次第でどうだって動く。 それがどういうことか、いくらキミでも、もう分かってるだろ?」
マスターシェージとはいえ、ウィルはれっきとした仕事のパートナーだ。 いざというときに近くにいなかったら、困るのは目に見えている。 かと言ってウィルを事務所に戻すと、シィナの機嫌も損ねるだろう。 せっかく自分に懐いてくれている可愛らしい彼女の信用を失うのは、エバにとっては辛い選択だった。
「よし……」
エバはおもむろに立ち上がると、傍に引っ掛けてあったジャケットをつかんだ。
「どこに行くんだよ?」
見上げるレンドに、
「部屋を借りてくる!」
「えっ?」
驚くレンドを尻目に、エバはシィナの警護を頼むと、足早に部屋を出て行った。 レンドは反論も出来ず、呆然としてソファに座ったままエバが閉めた扉を見つめていた。 キッチンから、シィナもきょとんとした顔で覗いていた。