人間とマスターシェージ
カランカランカラン……
とベルの軽い音をさせて扉を開けたレンドは、カウンターから少し離れた四人掛けのテーブル席にエバを見つけると、まっすぐに向かった。 いつものスマートに見えるスーツをラフに着こなして颯爽と近づくと、エバと向かい合わせた席にするりと座った。
「今日、ボクはとても久しぶりの非番だったんだ。 約一ヶ月ぶりのね。 そんな貴重な時間を割いてまで来てやったボクに感謝しろよ!」
「悪いな」
エバはレンドのからかうような嫌味にも、いつものように大した反応はせずに、ウィスキーの残るグラスを見つめていた。 レンドはエバがいつもと違う雰囲気をしていることに気付くと、彼の顔色を覗きながら肘を付いた。
「何かあったのか?」
そう言いながら、注文を聞きに来たマスターに
「珈琲」
と告げた。 エバはやっと顔を上げると、細い目でレンドに言った。
「バーにまで来て珈琲かよ?」
「知らないのかい? ここの珈琲は絶品なんだ! マスターが選びぬいたこだわりの豆をだな……まぁいい。 で、なに、話って?」
暖色系の照明にほのかに照らされる店内には数人の客が席を埋め、心地よく流れるジャズに浸りながら酒を楽しんでいる。 エバは自分のウィスキーに口を付けると、
「あいつのことだよ」
と始めた。 【あいつ】とはウィルのことだと、レンドはすぐに分かった。 不用意に名前を言うと、すぐに聞きつけて来てしまうため、注意して話さなくてはならない。
「喧嘩でもしたか?」
レンドは差し出された珈琲の匂いを目を閉じて吸い込むと、恍惚の表情を見せた。
「喧嘩なんかするか。 お前、マスターシェージのことを少しは知ってんだろ? それに関わる仕事してんだから」
「何が聞きたい? ボクに分かることなら、何でも教えてやるよ」
レンドは楽しそうににやけながら、エバの表情から何か読み取ろうとしていた。 エバは珍しく真面目な顔でまっすぐにレンドを見つめ、
「人間とマスターシェージの違いって、何だ?」
と尋ねた。 レンドはなんだ、という拍子抜けた顔で肩の力を落とすと、つまらなさそうに体を起こした。
「なんでそんなに残念そうな顔をするんだ?」
「もっとさ、ボクの権力を最大限に使った危ないことを依頼でもされるのかと期待していたから」
「お前、それでも警察官か?」
呆れるエバを無視したレンドは遠い目をしながら、真面目に答えた。
「違いか……仕事の任務を遂行するだけに生まれてきたような奴らだから、感情っていうものは除外視されている。 特に同情や好意なんてものは必要ないから、最初から切り捨てられてるって話だ。 ま、実際ボクがマスターシェージを作ってるわけじゃないから詳しくは知らないし、作る人間によって、その違いも微妙にあるみたいだ。 今この国に存在する、マスターシェージを製造できる人間は、公式だけで十人に満たない。 それだけ幾らかの特徴はあるかもしれないな。 とにかくはっきりと言えるのは【人間じゃない】ってことだな」
「……感情はないのか」
呟くエバの脳裏には、今までのウィルのことが思い返されていた。
一度レンドの元へ引き取られたウィルがエバの前に姿を現したときに、エバが改めて自分のパートナーに任命した時には、一筋の涙を流した。 それに対して、ウィルは【ウレシイ】という感情だと呟いた。
昨日も焼却処分が決まったマスターシェージの死体を、ウィルはずっと見送っていた。 その夜も一人で何か思い悩んでいたようで、その時言った言葉
「例え同じ種族だとしても、彼らを仲間だとは思いません」
というのは、むしろウィル自身に言い聞かせていたようにも聞こえた。
遠く視線を泳がすエバに、レンドがはたと思い出したように言った。
「あ、もう一つあった!」
「なんだ?」
「マスターシェージは、子供を産めない」
人差し指をピンと立てて自慢げに言うレンドを、エバは据わった目をして、静かに睨んだ。
「お前、何か勘違いしてないか?」
するとレンドはからかうようにエバの顔色を伺いながら
「ふう~ん」
と楽しそうに口を尖らせた。 エバは呆れたように茶色の猫毛の間に指を差し込み前髪を掻き上げると、席を立った。
「悪いな、貴重なオフに時間割いてもらっちまって。 ここは俺が奢る」
そう言って立ち去ろうとするエバに、レンドは珈琲を飲みながらさりげなく呟くように言った。
「言ったはずだよ。 マスターシェージを買うのを勧めた時、決して女は選ぶなって。 女好きなキミなら、必ず間違いを起こすだろうから」
「…………」
エバはちらっと振り向くと
「アイツはただの仕事のパートナーだ。 マスターとして、知らなきゃならんことだってあるだろ?」
とため息混じりに答えると、カウンターの奥で静かにグラスを拭くマスターに二人分の代金を払って店を出て行った。
エバのグラスを取りに来たマスターが
「彼なら大丈夫でしょう」
と、聞かせる風でもなく呟いた。 レンドは静かにもう一度珈琲の香りを吸い込んで恍惚の表情を浮かべた。