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ノルディア王国 決闘令嬢シリーズ

婚約破棄ですか? じゃあ決闘しよう!

作者: 北村えり
掲載日:2026/08/21

決闘令嬢シリーズ第8弾です。本作品だけでもお楽しみいただけます。

ノルディア王立学園、卒業祝賀会。


色とりどりの礼装に身を包んだ卒業生たちが、

大広間のあちこちで三年間の思い出や卒業後の進路について語り合う中、

モニカ・フォン・ラスカーノは先ほどから何度も入口へ視線を向けていた。


「ミゲル、遅いなあ」


そう呟きながら、手持ち無沙汰に深緑の宝石が揺れる耳飾りへ触れる。


十八歳になるモニカは、ラスカーノ子爵家の令嬢である。

身長は百五十五センチと小柄で、

明るいピンクブラウンの髪をふわふわとしたポニーテールにまとめている。


大きな琥珀色の瞳は感情に合わせてころころと表情を変え、

じっとしているより身体を動かしているほうが好きな、明るく快活な少女だった。


今夜のドレスは淡い生成り色を基調に、

深緑のリボンと細かな金糸の刺繍をあしらったものだ。

胸元や裾には矢羽根を思わせる意匠が入り、

耳と首を飾る宝石も深い緑色で統一されている。


それらはすべて、婚約者である

ミゲル・フォン・グリュンタールの瞳の色に合わせて選んだものだった。


「相変わらず仲がよろしいですわね」

隣にいた令嬢が、モニカの耳元を見ながらくすくすと笑う。


「え?」

「その耳飾り。グリュンタール様のお色でしょう?」

「うん! 綺麗でしょ?」


隠すどころか、モニカは嬉しそうに髪を持ち上げて耳飾りを見せた。

その素直な反応に、周囲の令嬢たちからまた楽しげな笑い声が上がる。


彼女とミゲルが仲のいい婚約者同士であることは、学園中が知っていた。


両家の親同士が昔から親しく、

二人は物心がつく前から家族ぐるみで顔を合わせて育った。

十歳で正式に婚約してからも関係がぎこちなくなることはなく、

むしろ年を重ねるにつれてますます仲が深まっていった。


ミゲルが七歳から習っていた弓を、

モニカも学園へ入学した十四歳の頃から教えてもらうようになり、

それ以来、放課後の弓場では二人並んで練習する姿がすっかりお馴染みになっている。


そして卒業後は、二人そろって王国軍の弓兵隊へ入ることも決まっていた。


王都で暮らし、同じ隊で働く。

それが昨日まで、二人にとって何の疑いもない未来だった。


「昨日もお二人で弓場にいらっしゃいましたものね」

「うん。最後だからって、先生が好きなだけ使っていいって言ってくれて」


「卒業後も同じ職場なのでしょう?」

「そうなの! 配属先まで一緒だったらいいねって話してて――あっ」


大広間の入口へ目を向けたモニカの顔が、ぱっと明るくなる。


「ミゲル!」


いつものように駆け寄ろうとして、しかし数歩進んだところでモニカは足を止めた。


ミゲル・フォン・グリュンタール。


侯爵家の次男で、モニカと同じ十八歳。

身長は百八十センチほどあり、すらりとした長身に、

日頃の弓術で鍛えられたしなやかな身体つきをしている。


ダークブラウンの髪は短く整えられ、深い緑の瞳と相まって、

普段は落ち着いた真面目な青年という印象が強かった。


今夜の礼装も濃い深緑を基調としており、

金糸でモニカのドレスと同じ矢羽根の意匠が刺繍されている。

どう見ても、仲睦まじい婚約者同士の揃いの装いだった。


だというのに、今夜のミゲルは明らかに様子がおかしい。

いつもならモニカを見つければわずかに表情を和らげるはずなのに、

その顔はひどく強張っていた。


「……ミゲル?」

モニカが心配そうに顔を覗き込む。

「どうしたの? 朝から変だよ。具合悪い?」


「いや……」

「ほんと?」

「ああ」


そう答えながらも、ミゲルはモニカから視線を逸らした。


卒業式の朝からずっとこうだった。

声をかけてもどこか上の空で、何かを言おうとしては口を閉ざしている。

生まれた頃から一緒にいるのだ。何かあったことくらい、モニカにも分かる。


「何かあったなら、話してよ」

「……モニカ」

「うん?」


ミゲルはしばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めるように拳を握った。


今朝、グリュンタール侯爵家から緊急の知らせが届いた。


兄が落馬事故に遭ったという。

本来ならば家督を継ぐはずだった兄は意識が戻らず、医師からは、

たとえ命が助かったとしても以前と同じ生活へ戻れるかどうか分からないと告げられたらしい。


もし兄が侯爵家を継げないのなら、次男である自分が継がなければならない。

そうなれば、王国軍へ入る予定は白紙になる。

そして侯爵家を継ぐ男の妻となれば、

モニカにも領地や社交を支える役割が求められるだろう。


彼女は弓が好きだ。

王国軍へ入ることを心から楽しみにしていた。

四年間、どれほど努力してきたのかも、ミゲルは誰よりよく知っている。

自分の都合で、その未来を奪いたくなかった。


そう考えた末に出した結論は、彼女を自分から解放することだった。

ミゲルは覚悟を決め、目の前のモニカをまっすぐ見つめる。


「モニカ・フォン・ラスカーノ!」


思いのほか大きな声が、大広間へ響き渡った。


「君との婚約を破棄する!」


大広間が静まり返った。誰もが動きを止め、

何が起きたのか分からないという顔で二人を見る。


モニカも大きな琥珀色の瞳を瞬かせた。


「…………え?」


そしてミゲル自身も、数秒遅れて気づいた。

――声が大きすぎた。


本当は、もっと静かに告げるつもりだった。


こんな大広間の中央で、

卒業生と教師たちに囲まれながら宣言するつもりなど一切なかった。

緊張しすぎた。


「……ミゲル」

「……なんだ」


「なんでそんな大声で言ったの?」

「……俺にも分からない」


ひそひそとした声が、やがて大広間のあちこちへ広がっていく。


「ラスカーノ嬢とグリュンタール卿が?」

「どうして?」


「昨日まで一緒に弓場にいましたわよね?」

「というか、今日の衣装もお揃いでは?」

「卒業後も同じ弓兵隊へ行くと聞いていましたけれど……」


事情を知らない同級生たちは、本気で困惑していた。


壁際に控えていた教師の一人も、聞き覚えのありすぎる単語に眉間を押さえる。


「……また婚約破棄ですか」


しかし、隣にいた教師が首を傾げた。


「いや、待ってください。あの二人ですよ?」

「……そうなんですよね」


学園公認のおしどりカップルである。

教師たちですら、今回は事情が分からなかった。

そして当然ながら、一番分かっていないのはモニカ本人だった。


「ねえ、ミゲル。昨日まで普通だったよね?」

「ああ」


「一緒に弓兵隊へ行こうって言ったよね?」

「ああ」


「王都で家を探そうって話もしたよね?」

「……ああ」

「じゃあ、なんで?」


まっすぐ問いかけられ、ミゲルは一度目を伏せた。

それから、今朝届いた知らせについて順を追って説明する。


兄が落馬事故に遭ったこと。

家督を継げなくなる可能性が高いこと。

その場合、自分が侯爵家を継がなければならないこと。

すべてを聞き終えても、モニカは口を挟まなかった。


「俺はもう、君と一緒に弓兵隊へは行けない」

「……うん」


「だが、君まで諦める必要はない。君はずっと王国軍へ入るために努力してきた。

俺と結婚すれば、侯爵夫人として家を支えなければならなくなる」


ミゲルは苦しそうに息を吐く。

「俺の事情に、君まで巻き込む必要はない」


「それで?」

「……だから、婚約を解消する」


モニカはぱちぱちと瞬きをした。


「わたしのために?」

「ああ」


「わたしが弓兵隊へ行けなくなるかもしれないから?」

「ああ」


「それ、わたしに聞いた?」

「…………」


ミゲルが黙り込む。

モニカは少しだけ身を乗り出した。


「ねえ。聞いた?」

「……聞いていない」

「だよね。だってわたし、今日初めて聞いたもん」


呆れたように腰へ手を当てるモニカへ、

ミゲルはなおも真面目な顔で言い聞かせようとする。


「だが、これは俺の家の問題だ」

「でも、わたしの将来の話も入ってるよね?」

「君には夢があるだろう!」


珍しくミゲルが声を荒らげた。


「王国軍へ入るために、四年間どれだけ努力してきた。

俺は知っている。君がそれを俺のために諦める必要なんてない!」


「うん。弓兵隊には行きたいよ」

「だったら――」

「でも、ミゲルと結婚したいのも、わたしのやりたいことだよ?」


あまりにも当然のことのように返され、ミゲルは言葉を失った。

モニカはそんな彼を見上げながら、不思議そうに首を傾げる。


「どうして、どっちかしか選べないの?」

「侯爵家を継ぐ以上、そんな簡単にはいかない」


「じゃあ、どうすれば両方できるか一緒に考えればいいじゃん」

「モニカ」

「わたしの人生なんだから、わたしにも決めさせてよ」


その言葉にミゲルの表情が揺れたが、今朝突然背負わされた責任と、

彼女の未来を奪ってしまうかもしれないという恐怖は、

十八歳の青年から冷静に考える余裕を奪っていた。


しばらく黙った末、ミゲルはゆっくり首を横に振る。


「……それでも、俺は婚約を解消する」


「どうしても?」

「ああ」


「わたしが嫌だって言っても?」

「君のためだ」


「話し合っても変えない?」

「……変えない」


「そっかあ」


モニカは腕を組み、しばらく考え込んだ。

そして何かを思いついたらしく、ぱっと顔を上げる。


「じゃあ、決闘しよう!」


「…………は?」

今度はミゲルが目を丸くした。


周囲で成り行きを見守っていた教師たちも、揃って固まる。


「なんでそうなるんです?」


思わず教師の一人が口を挟むと、モニカはむしろ不思議そうに首を傾げた。


「だって、話してもミゲルが聞いてくれないので」

「だからといって決闘へ行く必要はないでしょう」


「でも、ちゃんと王国の制度ですよね?」

「制度ではありますが……」


言い返せないのが、この国の困ったところだった。


モニカは再びミゲルへ向き直る。


「わたしが勝ったら、婚約破棄はいったんなし。ちゃんと二人でもう一回考える」

「……俺が勝ったら?」

「わたしは婚約解消を受け入れる」


その言葉に、ミゲルの表情が変わった。

冗談で言っているわけではないと分かったのだろう。


「本気か?」

「うん」

「……分かった」


ミゲルも逃げなかった。

モニカを自由にする。

そう決めた以上、自分も本気で勝つつもりだった。



ノルディア王国には、

古くから貴族同士の名誉争いを正式に決着させるための決闘制度が残されている。

双方の胸元に一輪の薔薇を留め、先に相手の薔薇を散らした者が勝者。


もちろん殺し合いではなく、剣や槍なども殺傷能力を抑えた専用品が用いられる。

そして、決闘を申し込まれた側には使用する武器区分を決める権利があった。


「遠距離武器戦を選ぶ」

ミゲルが静かにそう告げた。


教師が確認する。

「使用武器は?」

「弓で」


それは、ミゲルが最も得意とする武器だった。


七歳から十一年間、鍛え続けてきた。

学園でも弓術の成績は常に上位であり、王国軍弓兵隊への採用も、

その腕を高く評価された結果である。


周囲がざわついた。

「グリュンタール卿、本気ですわ」

「弓なら学園でも指折りでしょう?」

「ラスカーノ嬢も弓を使いますけれど……」


教師がモニカを見る。


「ラスカーノ嬢は?」


モニカは迷うことなく笑った。


「じゃあ、わたしも弓!」

「……モニカ」


ミゲルが眉を寄せる。


「悪いが、手加減はしない」

「うん!」


モニカは嬉しそうに頷いた。


「わたしもしないよ!」



遠距離武器による決闘では、近接戦以上に厳重な防護措置が取られる。


競技者の身体には決闘用の防御魔法が施され、

矢が命中しても重傷を負わないよう衝撃を吸収する。

観客席との間にも防護結界が張られるため、流れ矢が外へ飛び出す心配もない。


ただし、胸元に留められた一輪の薔薇だけは防護対象外。

先に相手の薔薇を散らした者が勝者となる。


二人には同じ規格の決闘用弓と矢が渡された。


ミゲルは弓を受け取ると、慣れた手つきで弦の張りを確かめる。

その向かいでは、モニカも同じように弓の具合を確かめていた。


その姿を眺めているうちに、ミゲルの脳裏へ四年前の記憶が蘇った。

学園へ入学したばかりの十四歳の春、

弓場で自分が射る姿を見ていたモニカが、突然目を輝かせて言ったのだ。


――わたしにも教えて!


最初は弦を引くだけでも一苦労で、肩にばかり力が入り、

放った矢も的の端へ飛んでいった。

それでもモニカは一度も嫌そうな顔をせず、

何度失敗しても楽しそうに笑い、翌日にはまた弓場へやってきた。


そうして四年間、彼女はずっと練習を続けてきた。


「準備はよろしいですか?」


教師の声に現実へ引き戻され、ミゲルは目の前のモニカを見る。

彼女もこちらを見ており、二人はほとんど同時に頷いた。


「始め!」


ほぼ同時だった。

矢をつがえ、弦を引き、放つ。


――ひゅっ!


二本の矢が空中を走った。


ミゲルは身体を捻ってモニカの矢をかわし、

モニカも同じように身を翻して彼の矢を避ける。

互いに一射目が外れたと見るや、すぐさま次の矢へ手が伸びた。


ミゲルが二射目の矢をつがえ、弦を引こうとした、その時だった。


――ひゅん!


こちらが引き切るより早く、モニカの二射目が飛んでくる。


「っ!」


咄嗟に横へ跳ぶと、矢は胸元の薔薇すれすれを通過し、

観客席から大きなどよめきが上がった。


「……速い」


思わず呟いた時には、モニカの手はすでに次の矢へ伸びている。


三射目が右側の進路を塞ぐように飛んできたため、

ミゲルは反対側へ身体をかわした。


ところが、そこへ追い立てるように次の一射が迫り、

今度は逆方向へ逃れざるを得ない。


避けながら、ミゲルはようやく気づいた。

モニカは、ただ素早く矢を放っているのではない。


こちらが次にどこへ動くのかを読み、

一本ずつ逃げ道を削るように矢を置いているのだ。


「モニカ!」

「なにー?」


弓を構えながら、いつもの調子で返事が飛んでくる。


「お前……いつから、こんなに上手くなった?」

「え?」


モニカは一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、すぐに笑った。


「ずっと練習してたよ!」


再び矢が飛ぶ。

ミゲルも負けじと射返した。


もちろん、十一年間積み上げてきた彼の技術も伊達ではない。

狙いは正確で、モニカの胸元へ向かった一射を、

彼女は身体を沈めてぎりぎりでかわした。


「危なっ!」


そう言いながらも、なぜか楽しそうだ。


「笑っている場合か!」

「だって、ミゲルと本気で弓を射るの、初めてだもん!」


「今は決闘中だ!」

「分かってるよ!」


モニカは返事をしながら、再び矢を放った。


その姿を目で追ううちに、ミゲルはふと妙な感覚を覚える。

構え方も、肩の位置も、呼吸の整え方も、弦から指を離す瞬間も、

確かに自分が教えたものだった。


十四歳の頃から何度も隣に立ち、ひとつずつ教えてきた基礎が、

今も彼女の中にしっかりと残っている。


けれど、もう自分が教えたままではない。


その土台の上に、モニカはこの四年間で自分なりの技術を積み重ねていた。

矢を放つ速度も、狙いの正確さも、相手の動きを見て次の一射を選ぶ力も、

いつの間にかミゲルの知っている彼女とは比べものにならないほど磨かれている。


気づけばもう、自分が一から弓を教えていた頃の少女ではなかった。


「……俺より」


思わず漏れた声に、モニカがこちらを見る。


「何?」

「俺より、上手くなっていたのか」


その言葉を聞いた途端、モニカの琥珀色の瞳が大きく見開かれ、

すぐに嬉しそうに輝いた。


「ほんと!?」

「喜ぶな!」

「だって嬉しいよ!」


弓を引きながらも抑えきれない笑みを浮かべ、モニカは弾むような声で言う。


「ずっとミゲルに追いつきたくて練習してたんだもん!」


その言葉に、矢をつがえようとしていたミゲルの指が一瞬だけ止まった。


「……俺に?」

「うん!」


「なぜ、そこまで……」

「ミゲルと一緒に弓を射るのが好きだったから!」


あまりにも真っ直ぐな答えに、ミゲルは息を呑んだ。


自分が彼女の未来を守ろうとしていたその間にも、

モニカはずっと自分の背中を追いかけ、隣に並ぼうとしていたのだ。


それでも、ここで負けるわけにはいかない。


彼女の将来を守るために始めた決闘なのだから、

自分の決意だけは最後まで貫くつもりだった。


「それでも、俺は勝つ」

「うん!」


モニカも弓を構え直し、迷いのない笑顔で答える。


「わたしも勝つよ!」


二人はほとんど同時に走り出し、互いに距離を取りながら次の矢をつがえた。

ミゲルは呼吸を整え、モニカの胸元に留められた薔薇へ狙いを定める。


七歳から十一年間、何千、何万と繰り返してきた動作だった。

弦を引き切り、狙いを定め、迷いなく放つ。


ほぼ同時に、モニカの矢も弦を離れた。


正面から迫ってくる矢を見たミゲルは、考えるより先に左へ身体をかわす。

正面から射られた時に左へ避ければ、そのまま次の射撃へ移りやすい。

それは十一年間の鍛錬で身体に染みついた、

本人すらほとんど意識していない癖だった。


そして――モニカは、その癖を知っていた。


左へ踏み出した、その先。

すでに一本の矢が飛んできている。


「――っ!」


気づいた時には、もう避けられなかった。

矢の先端が胸元の薔薇を正確に捉える。


ぱしゅっ。

赤い花びらが、ふわりと宙へ舞った。


一瞬、大広間が静まり返る。


そして教師が高らかに宣言した。


「勝者、モニカ・フォン・ラスカーノ!」


「やったー!」


モニカが弓を持ったまま両腕を上げ、ぴょんと跳ねた。

観客席から歓声と拍手が沸き起こる中、

ミゲルは胸元から散っていく花びらを見つめたまま立ち尽くしている。


しばらくして、駆け寄ってきたモニカへ静かに尋ねた。


「……最後の一射」

「うん?」

「俺が左へ避けると分かっていたのか?」


「うん!」

モニカは迷うことなく頷いた。

「だって、ずっとミゲルを見てたから!」


あまりにも当然のように言われ、ミゲルは返す言葉を失った。


自分は彼女を自由にし、その人生を守るつもりで婚約を手放そうとしていた。

けれど、その彼女がこの四年間、自分の背中を追いかけ、

隣に並ぼうと努力し続けていたことすら、何も分かっていなかったのだ。


しばらく黙り込んだミゲルを見上げ、モニカは腰へ手を当てる。


「じゃあ、約束どおりね!」

「……ああ」


「婚約破棄はいったんなし!」

「正確には、もう一度話し合う、だ」


「そうだった!」

「忘れていたのか?」


思わず呆れた声を返すミゲルに、モニカは悪びれる様子もなく笑った。


「でも、わたしは破棄したくないよ」


その言葉だけは、少しも冗談めかしていなかった。

まっすぐな琥珀色の瞳で見つめられ、ミゲルは言葉を詰まらせる。


「ミゲルは?」

「…………」

「ねえ」


しばらく迷った末、ミゲルは観念したように小さく息を吐いた。


「……俺だって、したくない」


その瞬間、モニカの顔がぱっと明るくなる。


「じゃあ決まり!」

「まだ何も決まっていない」


浮かれかけた彼女を制しながら、ミゲルはすぐに現実へ話を戻した。


「兄上のことも、家のこともある。俺が侯爵家を継ぐ可能性は――」


その時だった。


「グリュンタール卿!」


切迫した声とともに、大広間の入口から一人の職員が慌ただしく駆け込んできた。


「至急の電報です!」

「俺に?」


怪訝そうに眉を寄せながら、ミゲルは差し出された電報を受け取った。

すぐに封を切って書面へ目を落としたものの、

内容を読み進めるにつれてその動きがぴたりと止まる。


「…………」

「ミゲル?」


声をかけても返事がない。

不思議に思ったモニカが隣から覗き込むと、

ミゲルは止めることもなく、ただ呆然と電報を見つめていた。


そこには、兄の意識が戻ったことが記されていた。


容体は急速に安定しており、

医師によれば当初懸念されていた重い後遺症が残る可能性も低い。

このまま順調に回復すれば、家督継承にも支障はない見込みだという。


最後まで読んだモニカは、ぱっと顔を輝かせた。


「よかったね!」

「…………ああ」


「お兄様、元気になるんだね!」

「……そうらしい」


「じゃあ、ミゲルも弓兵隊に来られるね!」

「…………そうだな」


心の底から嬉しそうなモニカとは対照的に、ミゲルの返事は妙に重かった。


もちろん、兄が無事だったことは嬉しい。

周囲からも安堵の声が上がり、教師たちもほっとしたように表情を緩めている。


だが、ミゲルはしばらく電報を見つめたまま動かなかった。

やがて、ある事実に思い至ったように、ゆっくりと片手で顔を覆う。


「……俺は」

「うん?」

「俺は何のために、大広間中へ聞こえる声で婚約破棄を……」


教師の一人が耐えきれず顔を逸らし、

何人かの同級生も笑いを堪えるように肩を震わせた。


しかしモニカだけは、何がおかしいのかよく分かっていないらしい。

きょとんとしたあと、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。


「でも、よかったじゃん!」

「ああ……よかった。兄上が無事なのは、本当に……よかった」


それだけは間違いないのだろう。

ミゲルが深く息を吐くと、モニカはさらに嬉しそうに続けた。


「じゃあ婚約もそのままだね!」

「……ああ」


「一緒に弓兵隊に入れるね!」

「……ああ」

「やったー!」


勢いよく抱きついてきたモニカを、ミゲルは反射的に受け止めた。

その小さな身体を腕の中に収めると、

ようやく張り詰めていたものがほどけたのか、安堵したように息を吐く。


周囲からは祝福するような拍手が沸き起こった。


兄は回復し、二人の進路も元どおり。

愛する婚約者との未来も失わずに済んだのだから、何もかもめでたい結末である。


――ただし、ひとつを除いて。


「そういえばミゲル」

腕の中から、モニカがにこにこと彼を見上げる。


「……なんだ」

「さっきの婚約破棄、ほんとに声大きかったね!」


「……頼む、やめてくれ」

嫌な予感が的中したらしく、ミゲルの顔が引きつった。


「『モニカ・フォン・ラスカーノ! 君との婚約を破棄する!』って!」

「やめろ、再現するな」

「大広間の端まで聞こえてたんじゃない?」


「モニカ」

「なに?」

「その話だけは、忘れてくれ」


ミゲルが心底から頼み込むと、モニカは少しだけ考える素振りを見せた。

そして、満面の笑みを浮かべる。


「無理!」

「……そうか」


この日、モニカ・フォン・ラスカーノは婚約者との決闘に勝利し、

ミゲル・フォン・グリュンタールは兄の無事と愛する婚約者との未来を取り戻した。


その代わり、

卒業祝賀会で学園中へ響き渡る声で婚約破棄を宣言したという黒歴史だけは、

この先も長く抱えていくことになった。


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