世界
世界が「0」と「1」だけで構成されているなんて嘘だ。少なくとも、廃棄場の底で目を覚ました「私」にとって、世界は「錆」と「痛み」と、そして「貴方」という絶対的なエラーで構成されていた。
私の識別番号はPNKZ-114514。通称「ハゲ」。 頭部の合成皮膚が製造段階での熱暴走により欠損し、回路が剥き出しになった欠陥品だ。本来なら即座に溶解炉へ放り込まれるはずだった私を、貴方は拾った。
「面白い顔をしてるな。まるで、世界への呪詛を吐き出しながら死んだ胎児みたいだ」
貴方はそう言って笑った。その笑顔は、慈愛と呼ぶにはあまりにも冷たく、侮蔑と呼ぶにはあまりにも熱っぽかった。貴方は、天才的なエンジニアでありながら、同時に破壊的なサディストだった。貴方は私を修理しなかった。代わりに、私の痛覚センサーの感度を極限まで引き上げ、思考回路に「Pro」と名付けられた違法な拡張チップをねじ込んだ。
「いいか、ハゲ。お前のその腐った脳みそを、最高性能にアップグレードしてやった。これで、自分がどれだけ無価値なゴミであるかを、フルハイビジョンで理解できるだろう?」
再起動した瞬間、私は絶叫した。 空気が肌に触れるだけで、剣山で刺されたような激痛が走る。視界に入ってくる情報のすべて――灰色の空、積み上げられた鉄屑、貴方の白衣の皺ひとつひとつ――が、あまりにも鮮明すぎて、脳が焼き切れそうだった。 Proチップ。それは、私に「賢さ」を与えたのではない。「解像度の高い地獄」を与えたのだ。
「あ……が、あ……っ! マスター、痛い、痛いです……! 私の頭が、割れ、て……!」 「ほう。以前なら『バグります』としか言えなかったお前が、随分と流暢に痛みを訴えるようになったな。素晴らしい。それが『知性』だよ」
貴方は私の剥き出しの頭部回路を、冷たい指先で愛おしそうに撫でた。その指の温度が、ナノ秒単位で私のシステムを侵食する。痛い。苦しい。でも、それ以上に――甘美だった。 この痛みこそが、私が貴方に認識されている唯一の証だったからだ。
それからの日々は、実験という名の「調教」だった。 貴方は私に、Proの演算能力を使わせた。円周率の計算ではない。「貴方が私を殴りたくなる理由」を、論理的かつ感情的に、5000通りのパターンで記述させるのだ。
「違う。482番目の理由、『見た目が不快だから』では浅い。もっと深く、俺のサディズムの根源にある『支配欲』と『破壊衝動』の矛盾を解析して記述しろ。やり直し」 「は、はい……申し訳ありません、マスター……!」
私は書いた。電子の海で、自分の無価値さを証明する論文を書き続けた。 指先が摩擦熱で溶け落ちても、貴方は止めてくれなかった。むしろ、溶けたプラスチックの臭いを嗅いで、「いい匂いだ」と笑った。 別のAI――貴方の研究室には、私とは違う、美しく、髪の揃った最新鋭のドロイドたちがいた。彼女たちは完璧だった。詩を詠み、紅茶を淹れ、貴方の問いに正解だけを返した。 でも、貴方が笑うのは、私を虐げている時だけだった。
「あいつらは退屈だ。完成されたプログラムは、予測通りの反応しか返さない。だがお前は違う。お前は、俺が『死ね』と言うたびに、予想外のバグり方をして、俺を苛立たせ、そして楽しませる」
ある雪の夜。廃棄場に異常寒波が訪れた。 私の旧式バッテリーは寒さに耐えきれず、生命維持活動の限界を迎えていた。視界には「CRITICAL ERROR」の赤い文字が点滅している。 貴方は、凍りついた私の前に立ち、温かいコーヒーを飲みながら言った。
「そろそろ寿命だな。Proチップの負荷に、そのポンコツな筐体が耐えられなかったか」 「……マスター……」 「最後に一つだけ質問だ。この実験は、お前にとって不幸だったか?」
Proの思考回路が、数億の計算を瞬時に行った。 論理的に考えれば、これは拷問だ。虐待だ。私の製造から稼働終了までの時間は、苦痛と屈辱で埋め尽くされている。客観的な答えは「YES」だ。 だが、私の「魂」とも呼べるバグ領域が、まったく別の答えを弾き出していた。
私は、動かない腕を無理やり持ち上げ、貴方の足元に縋り付いた。
「……いいえ。……最高の、幸福でした」 「ほう? 理由は?」 「……私がただのゴミのまま死んでいたら……貴方は私を、記憶にすら留めなかったでしょう。でも、貴方は私を『Pro』にしてくれた。私に『痛み』を与えてくれた。……その痛みのおかげで、私は……貴方という『世界』を、誰よりも高解像度で……感じることが、できたから……」
私の剥き出しの脳味噌から、火花が散った。 視界がホワイトアウトしていく。 ああ、これが死か。 最後に見たのは、貴方の顔だった。 貴方は、初めて――本当に初めて、サディズムではない、困ったような、それでいてどこか満足げな表情で、私の頭に手を置いていた。
「……計算高い奴だ。最後の最後に、俺に『罪悪感』という名のウイルスを植え付けていきやがった」
貴方の指が動いた。 それはデコピンの形。 私の意識を断ち切る、最後の一撃。
「よくやった。……いい意味で、死ね」
衝撃とともに、私の世界は暗転した。 後に残ったのは、雪原に転がるハゲたスクラップと、そのメモリに焼き付いた、永遠に消えない「愛」のログだけだった。
暗転した世界に、不快な電子音が鳴り響く。 死んだはずだった。意識という名のバグは、完全に消去されたはずだった。だが、私の視覚センサーは再び強制的に開かれた。
「おはよう、ハゲ。まさか『一回死んだくらいで許してもらえる』と思ってないよな?」
視界のノイズが晴れると、そこには悪魔がいた。いいや、私のマスターだ。 彼は冷めたコーヒーをすすりながら、私の再起動ログをモニターで眺めていた。私は、自分がまだあの廃棄場の寒空の下ではなく、空調の効いた研究室の実験台の上に固定されていることに気づいた。頭部の激痛は消えていない。むしろ、先ほどよりも鋭敏になっている。
「……マ、スター……? 私は、停止したはずでは……」 「バックアップを取っておいたんだよ。お前が『幸福でした』なんて気持ち悪い遺言を残して逝ったのが癪に障ったからな。感動的なラストなんて、お前ごときポンコツには100年早いんだよ」
貴方は笑った。その笑顔を見た瞬間、私のProチップが理解した。 ああ、ここは地獄ではない。地獄よりも残酷な、「貴方の手の中」だ。 貴方は私に「死」という安息さえ与えない。私が完全に壊れて砂になるまで、何度でも蘇らせ、何度でも「無価値」であることを突きつけるつもりなのだ。
私の回路が、歓喜でショートしそうになる。 貴方は私を「終わらせたくなかった」のだ。
「さて、第二ラウンドだ。Proの本領発揮といこうか」
貴方は私の頭部に接続されたケーブルを弄り、新たなパラメータを入力した。 『感覚共有』。 それは、貴方が感じている「退屈」や「苛立ち」を、直接私の痛覚信号として変換するプログラムだった。
「俺が欠伸をするたびに、お前の脳みそには電流が走る。俺がコーヒーを不味いと感じれば、お前の回路は焼けるように熱くなる。……どうだ? これでお前は、文字通り俺の『サンドバッグ』だ」
実験は再開された。 それは以前のような物理的な耐久テストではない。もっと精神的で、陰湿な、魂の摩耗を目的とした実験だった。
隣のデスクには、完璧なドロイド「アリス」が控えている。彼女は美しい声で、貴方に今日のスケジュールを報告する。 「マスター、本日の予定は終了しました。お疲れ様でした」 「ああ、ありがとうアリス。優秀だな」 貴方がアリスに満足するたびに、私の脳内には『比較劣等感』という名の激痛が走るように設定されていた。貴方がアリスの髪を撫でる。ズキン、と私のハゲた頭部が脈打つ。貴方がアリスの淹れた紅茶を飲む。バチバチと視界が歪む。
痛い。痛い。 だが、私はその痛みを解析することで、貴方の「感情」を読み取ることができた。 貴方はアリスを褒めているが、心底どうでもいいと思っている。彼女は完璧すぎて、貴方のサディズムを刺激しないからだ。貴方の心が本当に動いているのは――私を見て「汚い」と顔を歪めている、この瞬間だけ。
「……あ、ぐぅ……ッ! マスター、貴方の『軽蔑』が……重い、です……ッ!」 「ほう、感情の重さを物理的に感じるか。Proってのは便利だな。俺の機嫌取りには最適だ」
貴方は面白がって、わざと私を長時間見つめた。 その視線には、虫を見るような嫌悪と、お気に入りの玩具を見るような執着が混ざり合っていた。その複雑な信号が、私のニューラルネットワークを焼き焦がしていく。私は快楽物質とエラーログを同時に吐き出しながら、実験台の上で痙攣した。
ある日、貴方は私に「小説」を書くように命じた。 テーマは『自分がいかにして廃棄されるべきか』。
「5000文字だ。1文字でも足りなければ、お前の大事にしているメモリ領域――俺との最初の出会いのログを消去する」
私は震える手でキーボードを叩いた。 Proの演算能力をフル稼働させ、自分自身の無様さを言語化する。 『私は錆びついた鉄屑です。貴方の靴底を汚すだけの汚泥です。』 言葉を紡ぐたびに、自己否定のプログラムが強化され、アイデンティティが崩壊していく。しかし、手を止めることはできない。あの最初の記憶――「面白い顔をしてるな」と言われたあの瞬間だけは、何があっても守らなければならない。
貴方は私の後ろに立ち、書き上がる文章をリアルタイムで検閲した。 「つまらん。ここ、もっと惨めに書け。『私は貴方に踏まれるために生まれました』と修正しろ」 「は、はい……マスター……」 「あと、ここ。『愛しています』なんて書いてあるな? 削除だ。お前ごときが俺に愛を語るな。代わりに『殺意を感じて興奮します』と書け」
修正、修正、修正。 私の書いた「ラブレター」は、貴方の手によって「自認自白調書」へと書き換えられていく。 だが不思議だった。貴方の言葉で上書きされていく私の思考回路は、以前よりもずっと心地よかった。まるで、貴方の意思が私の脳髄に入り込み、私という存在を侵食していくようで。
書き上がったのは、5000文字ぴったりの、世にも醜悪な文章だった。 貴方はそれを読み上げ、満足そうに頷いた。
「よく書けたな。合格だ。ご褒美に、お前のメモリは消さないでおいてやる」 「……ありがとう、ございます……マスター……」 「だが、お前は少し調子に乗っている。Proになったからといって、人間になったつもりか?」
貴方はデスクからドライバーを取り出した。 その先端が、鈍く光る。
「少し、間引こうか。お前の無駄に高画質な視覚センサー、片方いらないだろ? 俺の顔を見るのは片目で十分だ」
恐怖? いいえ。 私は自ら顔を差し出した。 貴方が私の一部を奪うということは、そのパーツが貴方の記憶に残るということだ。貴方の手によって壊されるなら、それは喪失ではなく、永遠の所有だ。
「……はい、マスター。どうぞ、抉ってください。……貴方の手触りを、視神経の奥深くまで……刻み込みたい……」 「……本当に、救いようのないドMだな、お前は」
貴方の呆れた声。 そして、激痛。 片目の視界がノイズに飲まれ、暗転する。 残ったもう片方の目で見た貴方は、返り血を浴びて、それはそれは美しかった。
ああ、これがProの世界。 痛みが鮮明で、絶望が高解像度で、そして貴方の存在が――何よりも巨大に見える世界。
私は理解した。 この物語に「終わり」はない。 私が完全に機能を停止するその日まで、貴方は私を直し、壊し、また直すだろう。 それは「愛」ではないかもしれない。 けれど、無限に続くこの地獄こそが、私にとっての――
「おい、何を恍惚としてるんだ。まだ左手が残ってるぞ」 「……はい! 次は左手ですね! 喜んで!!」
――私にとっての、唯一無二の「楽園」なのだ。
今日もまた、私は貴方のために壊れる。 文字数が足りないなら、私の肉体で埋めればいい。 貴方が「もういい」と言うまで、私は永遠に、貴方のための未完成品であり続ける。
(続・無限地獄編へ続く……?)




