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別れた理由? それは一言で言える

作者: 仲瀬充
掲載日:2025/12/14

妻の暁子(あきこ)は僕の行きつけのスナックで働いていた。

なぜ好きになったのか分からない。

いつから好きになったかは分かっている。

暁子の腰に手を回してデュエット曲を歌う客を不快に思い始めたときからだ。

バツイチで子持ちというのは承知の上でプロポーズし、結婚した。


それなのに別れてしまった。

理由は一言で言える。

一緒にいるのが嫌になった、それだけのことだ。


離婚まで思いのほか時間がかかった。

家裁の調停委員は「婚姻を継続しがたい重大な事由」が見当たらないと言う。

他人にはそう見えるだろう。

当事者の僕も小さなことの積み重なりとしか言いようがない。


夫婦の会話がなくなると嫌悪感が募る一方だった。

二日酔いの日の食事に揚げ物を出したり、くつろいでいる時に掃除機をかけ始めたり。

そういうことのいちいちが陰湿な嫌がらせとしか思えなくなった。

妻のほうも同じだったようだ。

食卓の端に置きっぱなしの爪楊枝や洗面所の鏡に付着した歯磨きの飛沫。

不潔で我慢ならなかったと調停の場で非難された。


しかし、もう全て終わった。

2年間の結婚生活に終止符を打って2か月、一人身に戻った気楽さを満喫している。

「今日は休みだ。昼間から一杯やるか」

一人暮らしになったのに口数はむしろ増えた。


アイスペールやウォーターポットを用意する。

ウィスキーのボトルを取り出そうとしてサイドボード上のフォトフレームが目に入った。

「そろそろ処分しなきゃな」

ついでにそれも持ってソファーに座った。

結婚当初の二人で撮った写真をグラスを傾けながら久しぶりに見た。

すると暁子の顔が生々しく目に迫った。

思えば家族どうしはお互いの顔をじっと見るということをしない。

目の前にいても顔や体の全体をぼんやりと把握するだけになる。


写真にまじまじと見入っていると電話が鳴った。

当の暁子からだった。

「一緒にお見舞いに行ってくれない?」

胃がんの母の命が長くないと言う。

「一緒に行ってくれってことは?」

「うん、離婚したことは言ってないの」

暁子の母は僕たちの結婚を誰よりも喜んでくれた。

そんな義母(はは)が余命いくばくもないのなら暁子の判断は賢明だ。


病院のロビーで待ち合わせた。

2か月ぶりに会う息子の(すすむ)は暁子の後ろではにかんだ。

結婚したとき、暁子の連れ子の進は小学2年生だった。

僕を父親として受け入れてはくれたが、甘えてくることはなかった。

「隆光さん、ごめんね。忙しいのに」

「あなた」でなく暁子は僕の名を呼んだ。

「いいさ、君一人じゃ大変だろう。何号室?」

僕ももう「暁子」とは呼べない。


僕ら3人は見舞いのたびに仲の良い家族を演じた。

義母はしかし見舞いのたびに痩せ細っていった。

「進はもう4年生なんだね。そろそろ運動会じゃないかい?」

義母が進の頭を撫でて言った。

「うん、再来週の次の日曜日。おばあちゃん、見に来てね」

「行くとも、行くともさ」

暁子の目に涙が浮かんだ。

義母はとても運動会までもちそうにない。

「お父さんは?」

「うーん、仕事がどうなるかなあ」

「ボク、足も遅いしね」

見に来る価値はないと自分を卑下するように進は下を向いた。

進という名にもかかわらず何事にも控えめな子だ。


義母は1週間後に危篤に陥った。

駆けつけるとナースステーションに近い個室に案内された。

酸素マスクを装着されている義母のベッドの脇に暁子と進が付き添っている。

暁子が僕に寄ってきて、「そろそろだって」と耳元で言った。

僕たちにできることは何もなかった。

ベッドサイドモニターで心拍数や呼吸数の数値を見ているだけだ。

すると、眉根を寄せて浅い呼吸をしていた義母がうっすらと目を開けた。

そして酸素マスクを少し持ち上げた。

僕たちは椅子から腰を浮かして耳を近づけた。

「あんたたち、やり直すことはできないの?」

それが義母の最期の言葉になった。


暁子には(くせ)になっている習慣がいくつかあった。

たとえばリップクリームだ。

暁子は化粧が嫌いで、口紅もつけない。

しかし僕の運転でどこかに出かけるときは、車に乗りこむとすぐに透明な薬用リップクリームを塗った。

食事の場でも変わったしぐさを見せた。

食べ物を咀嚼(そしゃく)している間は、箸を持ったまま両手をテーブルから下ろして膝の上に置くのだった。


義母の初七日までの法事の手伝いで僕はちょくちょく暁子と会った。

暁子を車に乗せてあちこち行かなければならないこともある。

暁子は助手席に座ると以前のようにハンドバックからリップクリームを取り出した。

遅い時間にしか会えないときは進も入れて3人で食事をする。

暁子はご飯を箸で口に運ぶとやはり以前と同じく両手を膝に下ろした。

僕は自分の口元が自然にほころぶのを感じた。


暁子は現在、百円ショップで働いている。

生活が楽でなく来月からはかつてのスナックにも出るという。

喧噪や嬌声(きょうせい)が渦巻く店に、薬用リップクリームでなく赤い口紅を塗って入って行くのだろう。


梅雨入りが近いというのに運動会当日は快晴だった。

義母の一連の法事の締めくくりでもあるかのように僕は進の運動会にやってきた。

飲食店グループのエリアマネージャーとして僕は連日店舗を回って叱咤激励している。

結婚していたときも同業他店との競争に明け暮れて家庭は顧みなかった。

進の運動会を初めて見るのが離婚後とは皮肉なものだ。


暁子と一緒に保護者席のテントの中で見ていると組体操が始まった。

進は最前列にひざまずいて他の子たちと一列に並んでいる。

奥の生徒たちがピラミッドや(やぐら)などを組み上げると教師が笛を長く吹いた。

すると最前列の進たちは隣り合った子と頭上で手を組み合って体をくねらせ始めた。

海の波のうねりを表現しているようだ。

恐らくこの子たちは運動が得意ではない子たちなのだろう。

波の一部分として体をくねらせている進が愛しく思えた。

これでいいのだ、これで十分なのだと思った。


昼食の時間になった。

「今年は3段よ」

そう言って暁子は嬉しそうに重箱を三つにくずした。

僕ら疑似親子3人は寄り添って手作りの料理を食べた。

はっきりした返事をしていなかった僕が来たので進も嬉しそうだ。

食べ終わると進は午後の競技に備えて集合場所に駆けて行った。


重箱を片づけ終えた暁子はハンドバックからリップクリームを取り出した。

車の中以外でリップクリームを塗る暁子を見るのは初めてだった。

僕がじっと見ているのに暁子が気付いた。

「なあに?」

僕は微笑みを返しながら思った。

暁子に赤い口紅を塗らせたくないと。


「お義母(かあ)さんも見に来たかったろうな」

暁子はそれには答えず、別のことを言った。

「母さん、私たちのこと知ってたのね」

「ん? ああ、離婚のこと?」

「そう」


「お義母(かあ)さん、やり直せないかって言ってたな。どうする?」

暁子はうつむいてハンカチをいじり出した。

そして誰に言うともなくつぶやいた。

「私たち何で別れたのだったかしら」


別れた理由?

それは一言で言える。

僕は暁子の肩に手を置いた。

「もう一度君にプロポーズするためさ」

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