第2話
夜の屋敷は、いつも静かすぎる。
古い木の床がきしむ音と、窓を叩く雨だけが響く。
私は暖炉の前に座って、膝を抱えていた。
今日も市場で石を投げられた。
頬の傷はもう塞がったけど、腕輪の内側に触れると、まだ熱を持っているような気がする。
(……また、誰かが助けてくれた)
あの黒マントのひと。
子供たちが逃げていく後ろで、彼は私に向かって小さく頭を下げた。
銀の髪が、雨に濡れて光っていた。
(やっぱり……あの時の少年に似てる)
五年ぶりに思い出す顔。
王立学園の裏庭で、私の魔力を「美しい」と言ってくれた唯一の人。
でも、ありえない。
あんな優しい瞳の人は、きっと今ごろ幸せな婚約者と一緒にいるはずだ。
私は魔女だもの。
誰も近づきたくない、呪いの塊だもの。
……そう思っていたのに。
コンコン。
突然、玄関を叩く音がした。
夜の十一時過ぎ。
こんな時間に誰が?
私は息を潜めて立ち上がる。
魔力がざわめいて、指先が青白く光り始めた。
(落ち着いて……暴走したら、また誰かを傷つける)
腕輪を強く握る。
冷たい金属が、ぎゅっと肌を締めつける。
コンコン。
今度は少し強く。
「……誰ですか?」
声が震えた。
返事はない。
私はそっとドアに近づき、鍵穴から外を覗いた。
雨に打たれて立つ、黒いマントの男。
フードを深く被っているけど、濡れた銀髪がはっきり見える。
背が高くて、肩幅が広い。
まるで絵本に出てくる騎士みたいだ。
「……あなた、今日の」
男はゆっくりとフードを外した。
雨に濡れた銀の髪。
透き通った青い瞳。
五年前と変わらない、優しい笑み。
「久しぶり、エリシア」
私の心臓が、どきんと跳ねた。
「……え?」
声が出ない。
膝ががくがく震えて、壁に手をつく。
男──彼は一歩近づいて、静かに言った。
「覚えていてくれて嬉しいよ。……僕だよ、セイル」
セイル。
その名前を聞いた瞬間、涙が溢れた。
五年前、王立学園で私に腕輪をくれた少年。
名前を聞く前に、彼は突然転校してしまった。
それきり、会えなくなった。
「……どうして、ここに」
「君を探してた」
彼は当然のように言った。
「五年間、ずっと」
雨が彼のまつ毛に溜まって、ぽたりと落ちる。
私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「でも……私は魔女で……」
「知ってる」
セイルは微笑んだ。
「だからこそ、来たんだ」
彼は懐から小さな包みを取り出した。
布に包まれたそれは、私の腕輪と同じ銀色だった。
「これ、予備。君の魔力が強くなりすぎて、前の腕輪じゃ抑えきれなくなってるだろうと思って」
……え?
私は自分の左腕を見た。
確かに、最近腕輪が熱を帯びている。
魔力が漏れそうになる瞬間が増えていた。
「どうして、そんなことまで……」
セイルは少し困ったように笑った。
「だって、僕が君に約束したじゃないか。
『この腕輪を着けていれば、絶対に暴走しない。僕が保証する』って」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
(この人……ずっと、私のことを)
涙が止まらない。
「入って……雨に濡れてる」
私は慌ててドアを開けた。
セイルは「お邪魔します」と丁寧に頭を下げて、中に入ってきた。
背が高くて、屋敷の天井が低く感じる。
暖炉の火が、彼の横顔を照らす。
本当に、五年ぶり。
でも、変わらない優しい瞳。
「……セイルさんは、今何を?」
私はおずおずと聞いた。
彼は少しだけ目を伏せた。
「それは……まだ、言えないんだ」
「え?」
「ごめん。でも、約束する。必ず全部話す日が来る」
謎めいた言葉。
でも、なぜか怖くなかった。
この人がいるだけで、私の魔力が静かになる。
まるで、嵐の海に灯台が現れたみたいに。
「……お茶、淹れます」
私は立ち上がった。
セイルが慌てて止める。
「いいよ、そんなこと。君は座ってて」
「でも、お客様なのに」
「僕はお客様じゃない」
彼はまっすぐ私を見て、言った。
「君の味方だよ、エリシア。ずっと前から」
その瞬間、暖炉の火がぱちんと弾けた。
私の心も、同じ音がした気がした。




