夜明けの凱歌(前編)
アルバート領の空気を支配していたのは、死の匂いと鉄の味、そして絶対的な強者の登場によってもたらされた異様なまでの静寂だった。
レン・アルバートはまるで最初からそこにいたかのように、音もなくしかし圧倒的な存在感を放ちながらギュンターの前に立ちはだかっていた。
「レナード…アルバート…!」
ギュンターの喉から絞り出すような声が漏れた。
恐怖と、混乱と、そして理解を超えた現象に対する原始的な畏怖。
王都にいるはずの男が、なぜ、ここに。
その問いは彼の思考を完全に麻痺させていた。
「お前の負けだ、ギュンター」
レンは氷のように冷たい声で告げた。
その手には「軌跡の刃」が握られ、刀身が夕陽を浴びて妖しく煌めいている。
「お前は、俺の故郷に手を出した。それだけじゃない。俺の、たった一人の妹を恐怖に陥れた。その罪は万死に値する」
「ふ、ふざけるな…!」
ギュンターは、恐怖を振り払うように自らを奮い立たせた。
「小僧一人が現れたとて、この状況が変わるものか! 俺にはまだ五百の兵がいる! 貴様一人をミンチにすることなど、造作もないわ!」
ギュンターは自らの剣を抜き放ち狂ったように叫んだ。
「者ども何をしている! 敵はたった一人だ! 囲んで殺せ!」
しかし帝国兵たちは動かなかった。
いや、動けなかった。
彼らの心は先ほどのリシアの言葉によってすでに崩壊寸前だった。
聖戦の大義は揺らぎ、故郷の家族を想う心に宰相への疑念が芽生えている。
そして何より、目の前に立つレンという男が放つ尋常ならざる覇気に完全に呑まれていた。
それは死線を幾度となく乗り越えてきた彼らが肌で感じる「本物」の強者のオーラだった。
「…役立たずどもが!」
ギュンターは味方に見捨てられたことを悟り、自らレンに斬りかかった。
帝国最強の特殊部隊を率いる男の剣筋は常軌を逸していた。
常人ならば目で追うことすら叶わないであろう高速の斬撃。
だが、レンはその全てをまるでスローモーション映像でも見るかのように冷静に見切っていた。
彼の脳内ではFPSで培われた『予測エイム』と『偏差射撃』の概念が、ギュンターの次の動き、その次の動き、さらにその先の動きまでを完璧にシミュレートしていた。
「遅い」
レンは最小限の動きでギュンターの剣をいなすとカウンターで「軌跡の刃」を振るった。
ギュンターの頬を浅く切り裂く。
「なっ…!?」
ギュンターは信じられないという顔で後方へ飛び退いた。
自分の剣が赤子のようにあしらわれた。
この男、本当に人間か?
「お前に、俺の戦い方を見せてやる」
「軌跡の刃」が、込められている魔力を放出し蒼白い光を放ち始める。
「トレース・ビジョン、起動」
レンの視界に魔法的な「残像」が浮かび上がった。
ギュンターの体が次に移動するであろうルートが、光の線として表示される。
心臓や首筋といった、人体の急所が赤い光点としてハイライトされる。
それは、FPSにおける「ウォールハック」と「エイムアシスト」の完全な具現化だった。
「さあ、第二ラウンドだ」
レンの姿が掻き消えた。
「どこへ…!?」
ギュンターが周囲を見回したその瞬間、背後から死神の囁きのような声が聞こえた。
「後ろだ」
「ブリンク・ストライク」
FPSの瞬間移動アビリティを再現する高速移動。
ギュンターが振り返るよりも早く、レンの刃が彼の鎧の隙間を寸分違わず貫いていた。
肩、腕、足。
レンは急所を的確に破壊し、ギュンターの戦闘能力を瞬く間に奪っていく。
「ぐ…あああああっ!」
ギュンターはもはや悲鳴を上げることしかできなかった。
何が起きているのか全く理解できない。
敵は、瞬間移動を繰り返し自分の死角から、常に完璧な一撃を叩き込んでくる。
それはもはや剣技ではなく、魔法であり、呪いであり、神の御業のようだった。
「これが、俺の戦い方だ。お前のような盤上のルールでしか戦えない駒には、決して理解できないだろうがな」
レンは、両手両足を破壊され地面に無様に這いつくばるギュンターの前に立つと、その首筋に冷たい刃を突きつけた。
「最後に一つだけ教えてやる。お前が信じる宰相閣下は、今頃、自分の足元が崩れ始めていることにまだ気づいていない。
お前はただの捨て駒だ。
この戦場で俺の注意を引きつけている間に、宰相はもっと大きな何かを得ようとしていた。だが、それももう終わりだ」
レンの言葉は、ギュンターの心に、最後の、そして最も残酷な一撃を与えた。
自分は信じていた主に裏切られた。
ただ、利用されただけだった。
「…殺せ」
ギュンターは力なく呟いた。
「もはや、俺に生きる意味はない…」
「いや、お前にはまだ役目が残っている」
レンは冷たく言い放った。
「お前には、生きてこの敗北を宰相に報告してもらう。
そして、お前が犯した罪をこれから一生かけて償ってもらう。それがお前に与える最大の罰だ」
レンはギュンターにとどめを刺すことなく気絶させると、帝国兵たちに向き直った。
彼らは武器を捨て恐怖に震えながら、その場にひざまずいていた。
「お前たちに選択肢をやろう」
レンは静かに言った。
「このまま、俺たちに降伏し故郷へ帰る道を選ぶか。あるいは、無意味な抵抗を続けここで犬死にするか。どちらを選ぶ?」
帝国兵たちは誰一人抵抗しなかった。
彼らは自らの意志で武器を捨て投降を選んだ。
レンはアルバート領の戦いを、たった一人で完全に終結させた。
それは、圧倒的な力の差を見せつける完璧な勝利だった。
だが、レンの視線は、すでにこの戦場の先、帝国の心臓部へと向けられていた。彼はセリナの肩を抱き静かに言った。
「セリナ、行くぞ。お前の親父さんを助けに行く。そして、このくだらない戦争を終わらせるんだ」
「レナード…」
セリナは涙を浮かべながら力強く頷いた。
夜明けはまだ遠い。
だが、最も暗い夜の底で逆転の凱歌は、確かに高らかに響き渡ったのだ。




