偽りの聖戦と、二つの戦場(前編)
帝国の聖戦布告は、燎原の火の如く大陸を駆け巡った。
ヴァルクス帝国は、国境に集結させていた十万を超える大軍を、王国側が予測していた二軍編成ではなく、三つの巨大な軍団に再編。
王国領の三つの主要街道から、怒涛の如く侵攻を開始した。その進軍速度は、王国軍の最高司令部が立てた最も悲観的な予測すら、嘲笑うかのように上回っていた。
第一軍は、王都へと続く中央街道を。
第二軍は、南方の広大な穀倉地帯を。
第三軍は、天然の要害であるはずの北方の山岳地帯を。
まるで、事前に全ての障害が綺麗に取り除かれているかのようだった。国境の砦は抵抗する暇もなく陥落し、各地の防衛拠点は、まるで帝国軍を歓迎するかのように次々とその門を開いていく。
王都の作戦司令部は、恐慌状態に陥った。
「馬鹿な! 北方の『鉄壁』と呼ばれたダリウス砦が、わずか半日で陥落しただと!? ありえん!」
「中央街道の第ニ、第三守備隊が壊滅! 敵の勢いが止まりません! 騎兵隊が、まるで幽霊のようにこちらの側面を突いてくると…!」
「南方もです! こちらの配置、兵の数、補給路、その全てが、まるで筒抜けのようだとの報告が…!」
飛び交う絶望的な報告を聞きながら、レンは、司令部の壁に掲げられた巨大な軍事地図を、血走った目で見つめていた。彼は、この数日間、ほとんど眠らずに、帝国軍の動きを分析し続けていた。
「…おかしい。あまりに、綺麗すぎる」
「レナード?」
隣に立つセリナが、彼の疲弊しきった横顔を心配そうに覗き込んだ。
「敵の進軍ルートだ。あまりに合理的で、無駄がなさすぎる。まるで、完璧な攻略本を、一字一句違わずに、ただなぞっているみたいだ」
レンは、地図上の帝国軍の進路を示す赤い線を震える指でなぞった。
「だが、実際の戦争はそんなものじゃない。天候、地形、兵士の士気、指揮官の誤算…不確定要素が多すぎる。
なのに、この進軍にはそれが一切感じられない」
「それは、宰相の策略がそれだけ完璧だということでは…」
「いや、違う」
レンは、確信を持って首を振った。
「完璧すぎるんだ」
(FPSで言えば、チート行為だ。ウォールハックで、こちらの動きが全て見えているとしか思えない。そして、チートを使うプレイヤーの狙いは、一つじゃない。相手に、自分の圧倒的な力を見せつけて、絶望させ戦意を喪失させることだ。)
「宰相は、俺たちに『敵の狙いはこの三方向ですよ』と、わざわざ教えてくれている。これは巨大な陽動だ。本命は別にある」
レンの脳裏に、FPSで何度も経験した光景が鮮やかに浮かぶ。
四方八方から派手な銃撃戦を仕掛けて敵の注意を正面に引きつけ、その裏で一人のアサシンが音もなく背後から回り込み、敵チームの司令官の首をナイフ一本で掻ききる。
宰相がやろうとしているのは、それと全く同じことだ。
「宰相の本命はやはりアルバート領。
そしてそのための別動隊はもうとっくに動いているはずだ」
レンの予測は恐ろしいほど正確だった。
その頃、アルバート領の穏やかな静寂は一人の男の到着によって、無慈悲に引き裂かれようとしていた。
男の名は、オズワルド・フォン・ギュンター。
帝国軍の中でも、その冷酷さと残忍さで知られる特殊工作部隊「黒狼」の指揮官であり、宰相が最も信頼し、そして最も汚い仕事を任せてきた「刃」であった。
「…ふん。平和に呆けた、腑抜けた顔ばかりが住む土地だな」
ギュンターは、領地を見下ろす森の奥深く巧妙に偽装された野営地で、せせら笑うように呟いた。
彼の部隊五百名は帝国の正規軍とは全く異なる、獣道や廃坑などを繋いだ秘密のルートを通り、誰にも気づかれることなく領地の心臓部の目と鼻の先まで到達していた。
レンの妹であるエレノアが張り巡らせた監視網は、彼らのような「存在しない」部隊を想定してはいなかった。
「ギュンター様、エレノアとかいう女狐が張った物理的な監視網は、全て無力化しました。ですが、あの女、領民を使った情報網も構築している模様。迂闊に動けばすぐに感づかれます」
部下の一人が、低い声で報告する。
「構わん。我らの目的は派手な奇襲ではないのだからな」
ギュンターは、懐から取り出した小瓶を月光にかざした。
中には、無色透明の液体が入っている。
「計画を始めるぞ。宰相閣下からの直々のご命令だ。この土地を根絶やしにしろ。ただし、レナード・アルバートの妹、リシアだけは決して殺すな。最高の『餌』として兄の絶望する顔を特等席で見せてやるのだ、とな」
ギュンターの口元に、獲物を見つけた肉食獣のような、サディスティックな笑みが浮かんだ。
彼の策略は、単なる軍事行動ではなかった。それは、レン・アルバートという一人の人間の心を、内側から最も残酷な方法で破壊するための、悪魔的な罠の始まりだった。
時を同じくして、王都のレンもまた宰相が仕掛けたもう一つの、そしてより深刻な罠の存在に気づき、苦渋の決断を迫られていた。
「なんだと…!?」
作戦司令部に駆け込んできたダグラス騎士からの報告に、レンは思わず声を荒げた。
「王国貴族の一部が、帝国と内通している、だと…? それは、確かなのか!」
「はっ…! 確証を得ました。
彼らは帝国軍の進軍ルートに存在する自らの領地の安全と、戦後の地位の保証を引き換えに、我が王国軍の配置や兵站に関する詳細な情報を、帝国側に流していた模様です…!
裏切り者は、一人や二人ではありませぬ!」
これで帝国軍の進軍が異常にスムーズだった理由が、全て繋がった。内部に、それも枢要な地位にいる者たちの中に裏切り者がいたのだ。
宰相は、武力だけでなく人間の欲望や恐怖心という、最も効果的な武器を利用して、王国の守りを内側から崩壊させていたのだ。
「レナード、どうする? このままでは、前線の兵士たちが、何も知らぬまま、ただ犬死にするだけだぞ!」
セリナが、焦燥に駆られた声で言う。
レンは、唇を強く噛みしめた。
状況は、最悪を通り越して絶望的ですらあった。
三方向からの猛攻、内部からの裏切り、そして故郷に静かに迫る見えざる脅威。
打つ手の一つ一つが、別の危機を誘発しかねない危険なジレンマ。
彼の頭脳は、高速で回転しながらも、最適解を見つけ出せずにいた。
(どうする…どうすればいい…! このままでは、全てが崩壊する…!)
焦りが、彼の冷静な思考を蝕んでいく。
その時、彼の脳裏にFPSで絶望的な敗北を喫した、過去の記憶が蘇った。
圧倒的な戦力差、裏切りによる情報漏洩、味方からの罵声。あの時、自分はどうした? 諦めたか? いや、違う。
(そうだ…あの時、俺は…)
レンは、顔を上げた。その瞳にはもはや迷いはなかった。
あるのは非情なまでの冷徹な覚悟だけだった。
「…全軍に、後退命令を」
レンは絞り出すように、しかし、はっきりとした声で言った。
「第一防衛線を放棄。第二防衛線まで、全軍、即時撤退だ」
「なっ…!?」
その場にいた誰もが、自らの耳を疑った。
司令部の空気が凍り付く。
「正気か、アルバート顧問! 帝国に、広大な土地をみすみす明け渡せと申すのか!」
古参の将軍の一人が、怒りに顔を震わせて詰め寄った。
「そうだ」
レンは、反論する将軍たちを氷のように冷たい瞳で見据えた。
「情報が筒抜けの状態で戦うのは、自殺行為だ。敵は、俺たちが守ろうとする場所を、的確に、そして最小の犠牲で叩いてくる。ならば、一度守るべき場所を全て捨てる。敵が手にしている『攻略本』を白紙に戻すんだ」
それは、FPSにおける『リテイク』と呼ばれる、高度な戦術だった。
不利な状況で無理にエリアを防衛し続けて消耗するのではなく、一度全員でエリアを明け渡し、安全な場所で体勢と装備を立て直してから、全員で一斉にエリアを奪い返しに行く。
しかし、現実の戦争で自国の領土と民を意図的に放棄するなど、常識では考えられない悪魔の選択だった。
「ですが、それでは、そこに住む民の犠牲が…! 我々は、見捨てることになるのですよ!」
「だから、後退だ!」
レンは、叫んだ。
「兵だけではない! 民もだ! 全ての民を可能な限り後方へと避難させながら時間を稼ぐ! これは、敗走じゃない。次なる反撃のための、戦略的撤退だ!」
レンの常軌を逸した、しかし、その瞳に宿る絶対的な覚悟に、将軍たちは押し黙った。
国王エドワードは、苦悩の表情を浮かべながらも、レンの目を見つめ、静かに、しかし力強く頷いた。
彼はこの若き軍師にこの国の未来を賭けたのだ。
しかし、この決断は、レンや、そして王国全体をさらなる苦境へと追い込むことになる。
領地を放棄された民衆や、仲間を見捨てられたと感じた前線の兵士たちから、レンに対する不満と怒りの声が燎原の火のように燃え広がったのだ。
「アルバート顧問は、我々を見殺しにする気か!」
「王都の英雄などと、おだてられていい気になりおって! 所詮は田舎貴族の若造だ!」
「臆病者め! 帝国の犬め!」
宰相の真の狙いはそこにあった。
レンにあえて非情な決断をさせることで、彼が異世界で手に入れた最大の武器――民衆や兵士からの「信頼」を、彼自身の手で、内側から破壊させようとしたのだ。
王都のチェス盤で、レンは自らの手で自らの最も強力な駒を、一つ、また一つと、盤上から削り取ることを、強制させられていた。
彼は静かに、そして確実に孤立し始めていた。