王都のチェス盤と、帝国の暗流(中編)
ヴァルクス帝国の帝城、宰相リヒテンベルク公爵の執務室では静かな祝杯が挙げられていた。
「見事なものでしたな、聖女様の演説は」
腹心の一人である、ハルトマン伯爵が媚びた笑いを浮かべて言った。
「ふふふ、あれは傑作だ」
宰相は、グラスの中の赤いワインを揺らしながら、満足げに答えた。
「恐怖と、同情と、そしてほんの少しの希望。民衆などという愚かな生き物は、その三つを与えておけば実に容易く転がる」
彼の足元には、先ほどの演説を終えたばかりの「聖女アステル」
――本名をリーネという痩せた少女が、怯えた子犬のように蹲っていた。
彼女は、宰相が集めさせた孤児の一人でありセリナに似ているという、ただそれだけの理由でこの役に選ばれた。
「宰相様…あの…もう、お家に帰しても、らえませんか…」
リーネがか細い声で懇願する。
宰相は、ワイングラスを置くとゆっくりと立ち上がり、少女の前に屈み込んだ。
そして、その冷たい指で少女の顎をくいと持ち上げた。
「お家? お前の家はどこにあるのかな? お前を飢えと寒さから救い出し、こうして温かい食事と寝床を与えてやっているのは、この私だぞ?」
その瞳は、笑っているようで一切の光を宿していなかった。蛇のように冷たい視線に射抜かれ、リーネは全身を硬直させた。
「いいかい、リーネ、お前はもはやただの孤児ではない。民を導く、聖女様なのだ。そして、聖女様は私に逆らったりはしない。もし、逆らえば…」
宰相は、言葉を切ると、部屋の隅に置かれた一つの鳥籠を指さした。籠の中には一羽の美しいカナリアがいた。
「お前が、あの鳥のように可憐な声で歌うことは二度とできなくなる。分かるね?」
それは、優しい脅迫、逃れられない呪いの言葉だった。
リーネは涙を堪え必死に頷くことしかできなかった。
彼女は宰相という名の悪魔に魂を捕らえられた、籠の中の鳥なのだ。
彼はハルトマン伯爵に次なる一手を命令した。
「バルクホルン将軍を、ただちに自宅に軟禁せよ。理由は、聖戦を前にして敵国である王国に内通しようとした、反逆の疑いでよい。彼の部下たちも同様だ。少しでも抵抗する素振りを見せれば、斬り捨てて構わん」
「はっ。しかし、将軍は帝国軍の重鎮。あまり手荒な真似をすれば、他の将軍たちの反発を招くのでは…」
ハルトマン伯爵が懸念を口にする。
「案ずるな」
宰相は、地図の上に置かれたバルクホルン将軍を示す駒を指で弾き飛ばした。
「他の将軍どもは、保身しか頭にない臆病者の集まりだ。ここで将軍を見捨てれば、次は自分たちの番だと震え上がり我への忠誠を誓うだろう。恐怖は、何より優れた支配の道具だ。それに、これで我らの計画の邪魔をする者は帝国内にはいなくなった」
宰相リヒテンベルクも、かつては帝国に忠誠を誓う有能な貴族だった。しかし、彼には拭い去れないコンプレックスがあった。それは、彼の家系が武勲ではなく、商業と謀略によって成り上がってきた新興貴族であるという事実だった。
バルクホルン将軍のような、代々続く武門の名家に対するどうしようもない嫉妬と劣等感。
それが彼の心を歪ませ肥大化させた野望の原点であった。
宰相の瞳の奥で、冷たくそして残忍な光が揺らめいていた。彼はチェス盤から不要な駒を排除するように
いとも容易く帝国の英雄を歴史の闇に葬り去ろうとしていた。
「その後、皇帝陛下の動向は?」
「もはや、我らの意のままに。皇后陛下を失って以来、陛下の心は、空っぽの器同然。我らが注いだ言葉だけが、彼の意思となります」
「よろしい」
宰相はワイングラスを掲げた。
「して、王国へ侵攻する別動隊の指揮官は、予定通りあいつに?」
「うむ」
宰相は、地図のアルバート領を指し示した。
「奴には、最高の舞台を用意してやらねばなるまい。レナード・アルバート…貴様のその常識外れの頭脳とやらが、我が完璧な論理の前でいかに無力であるかを、骨の髄まで思い知らせてくれるわ。奴の最も大切なものを、目の前で一つずつ丁寧に壊してやれ、とな」
その声は、これから始まる惨劇を心から楽しむかのような、愉悦に満ちていた。
「これで、盤上の駒は全て揃った。レナード・アルバート…貴様のその、小賢しい知恵が、我が築き上げたこの巨大な流れの前でいかに無力であるか。思い知らせてくれるわ」
「我々にはこの帝国を導く神の加護がついてる」
彼の背後で、籠の中のカナリアが悲しげに一声、鳴いた。それは、これから始まる、血塗られた聖戦の、序曲のように響き渡った。王都と帝都、二つの都でそれぞれの思惑が絡み合い、物語は静かに、しかし確実に破滅に向かい進んでいた。
帝国宰相、偽りの聖女リーネについて加筆し
あらためて3編構成にしました。
読んでいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いしますm(_ _)m