王都のチェス盤と、帝国の暗流(前編)
王都の空気は、肌に纏わりつくように重かった。
アルバート領の澄んだ風に慣れたレンの肺は、人々の野心と策謀が澱のように沈殿したこの帝都の空気を、異物として拒絶しているかのようだった。
国王から与えられた軍事顧問の執務室は、城の中でも特に眺望の良い場所にあったが、レンの目には眼下に広がる街並みさえも、巨大で複雑なチェス盤にしか見えなかった。
「…やはり、敵の狙いは陽動と本命の二段構え、と見るべきか」
レンは、広げられた巨大な軍事マップを睨みつけながら呟いた。
その上には、彼がFPSでマップ研究をする際に用いるのと同じように、敵味方の想定戦力や進軍ルート、補給線を示す色とりどりの駒や線が、無数に引かれている。
向かいのソファに座っていたセリナが、革の手袋をきつく締めながら、険しい表情で頷いた。
「いかにも宰相リヒテンベルクが好みそうな、陰湿で回りくどい手です。大軍を国境に集めてこちらの耳目を引きつけ、その裏で、息のかかった少数精鋭の別動隊に真の目的を果たさせる…」
「そして、その本命は十中八九、アルバート領だろうな」
レンは地図上の一点を、駒の先端でトントンと叩いた。
そこは彼の故郷であり、今や王国の食料と兵站を支える最重要拠点と化している。
「俺と、帝国の『裏切り者』であるお前を同時に排除できれば、宰相にとっては一石二鳥。いや、それ以上の価値がある。何より、俺が心血を注いで作り上げたあの場所を破壊することは、奴にとって最高の娯楽になるはずだ」
その言葉には、個人的な感情が滲んでいた。
レンは宰相のようなタイプの人間を、ゲームの世界で嫌というほど見てきた。自らの知性に溺れ、他者を見下し、盤面を支配すること自体に快感を覚える、歪んだプレイヤー。
そういう相手には正面から付き合うだけ無駄だ。
相手の予測の、さらにその裏をかく必要がある。
執務室の扉が、控えめに三度ノックされた。
レンが「入れ」と短く応じると、王都の情報収集部隊に所属する若い騎士が、緊張した面持ちで入ってきた。
「アルバート顧問、失礼します。帝国側より、新たな動きです」
騎士が恭しく差し出した羊皮紙の報告書に目を通したレンの眉間に、深い皺が刻まれた。
「…『聖女』のお披露目、か。思ったより仕掛けてくるのが早いな」
報告書には、ヴァルクス帝国の帝都で、宰相リヒテンベルク公爵が後見人となり、「聖女アステル」を名乗る少女が民衆の前に姿を現したと、詳細に記されていた。
聖女は、神々しい光に包まれながら、「王国に囚われたセリナ姫を救い出し、神の敵である邪悪な王国に鉄槌を下す」ための「聖戦」を訴えたという。
民衆はその奇跡的な光景と扇動的な演説に熱狂し、
帝都は今、開戦前夜の異様な興奮に包まれている、と。
報告書に添えられた似顔絵は、セリナの気高い面差しを巧みに写し取りながらも、どこか儚げで民衆の庇護欲を掻き立てるような印象を与えるものだった。
「ふざけるな…!」
セリナは報告書をひったくるように手に取ると、わなわなと拳を震わせた。
「私の名を、民を騙すために使うなど…!
アステルだと? そんな名前、聞いたこともない!
あの男、私の顔と名誉にまで泥を塗る気か…!
万死に値する!」
「落ち着け、セリナ。怒りは、思考を鈍らせるだけだ」
レンは冷静に彼女を諭しながらも、内心では宰相の用意周到さに舌を巻いていた。
「これは宰相からの明確なメッセージだ。
『お前の居場所は、もう帝国にはない』。
そして、王国の人間に対しては、
『我々には神がついている』という揺さぶりでもある」
「では、私はどうすれば…! このまま偽物が本物としてまかり通るのを、指をくわえて見ていろと?」
「決まっている。お前の居場所はお前が作るんだ。
俺がそうしたように」
レンの静かだが力強い言葉に、セリナはハッと顔を上げた。
そうだ、彼はいつだってそうだった。
誰もが不可能だと諦めるような逆境を、常識外れの発想で覆してきたではないか。
「まずは、このチェス盤の駒を整理しよう」
レンは、地図の上に白と黒の駒を置き始めた。
「国王陛下、王国の騎士団、そして俺たち。これが白の駒。対する黒の駒は、宰相、帝国軍本隊、そして、おそらく存在するであろう『別動隊』。そして…」
レンは、一つの黒い駒を、盤面の外れ、王国と帝国のちょうど中間に置いた。
「帝国の皇帝陛下と、セリナの実家であるバルクホルン将軍家。この駒が黒のままか、あるいは白に返るか。
それが、この戦いの鍵を握る。
宰相がこれだけ派手に動くからには、この駒をすでに無力化していると考えるべきだろうな…」
レンの推測は悲しいほどに的を射ていた。
その頃、ヴァルクス帝国の帝城では、まさにその「黒い駒」の色を決定づける、静かで、しかし決定的な戦いが繰り広げられていたのだ。
玉座に座す皇帝アドルフは、壮年を過ぎたばかりだというのに、その顔には生気がなく、まるで老人のように深い疲労の色が刻まれていた。
彼の目の前には、宰相であるリヒテンベルク公爵が、爬虫類を思わせる冷たい笑みを、その薄い唇に浮かべて立っている。
「―――というわけで、陛下。もはや、王国との戦いは避けられませぬ。民衆は聖女アステル様の登場に沸き立ち、セリナ姫君の奪還を今か今かと待ち望んでおります。今こそ、陛下の御名の下、聖戦の火蓋を切るべき時かと存じます」
宰相の言葉は、どこまでも丁寧な物腰とは裏腹に、有無を言わせぬ圧力を伴っていた。
それは、もはや臣下が君主に行う進言ではなく、飼い主が犬に与える命令に近い響きを持っていた。
「待て、宰相」
皇帝はかろうじて君主としての威厳を保ちながら反論した。
「セリナの父、バルクホルン将軍は、外交による平和的解決を強く主張している。彼の意見も聞かずして、一方的に戦を始めるとは、あまりに早計ではないか…」
「将軍は、娘御の可愛さのあまり、判断が著しく鈍っておられるのです」
宰相は侮蔑の色を隠そうともせず、せせら笑うかのように言った。
「それに、将軍のやり方では、手ぬるい。王国に巣食うレナード・アルバートという男…奴は、ただの田舎貴族ではありませぬ。我が国の至宝であるセリナ姫を誑かし、手駒とした恐るべき智将。生半可な交渉など、赤子の手をひねるようにあしらわれるのが関の山でございましょう」
宰相はここ数ヶ月、皇帝の耳にレンの脅威を執拗に、そして粘り強く吹き込んできた。
騎士団を赤子のように翻弄した戦術、王位継承権を持つ王子をいとも簡単に失脚させた謀略、そして、帝国の誇り高き姫騎士さえも籠絡する人心掌握術。
その報告は、事実を数倍に誇張し、悪意に満ちた虚偽を巧みに織り交ぜられ、皇帝の心を、確実に恐怖という名の毒で蝕んでいた。
かつて、皇帝アドルフは聡明で決断力に溢れた、名君の器とさえ言われた男だった。
しかし、数年前に最愛の皇后を原因不明の病で失って以来、彼は抜け殻のようになってしまった。
深い悲しみは彼の気力を奪い、彼は次第に政務の一切を有能な宰相リヒテンベルクに任せきりになっていった。
その心の隙、権力の空白に、宰相は音もなく、しかし確実に入り込んだのだ。
皇帝の周囲は、いつの間にか宰相の息のかかった者で固められていた。
古くからの忠臣たちは、些細な罪状で次々と失脚させられ、遠方の領地へと追いやられた。皇帝の元に届けられる情報は、すべて宰相によって検閲され、彼の意に沿うように歪められた。
気づけば、皇帝は帝城という名の鳥籠の中で、宰相という名の飼い主から与えられる餌を待つだけの、哀れな鳥となっていた。
「…しかし、戦となれば、多くの民の血が流れることになるのだぞ」
皇帝は最後の力を振り絞るように、か細い声で抵抗を試みた。
「陛下」
宰相は、ゆっくりと玉座に近づき、その耳元で、悪魔のように甘く囁いた。
「ご安心を。この戦、血を流すのは王国だけでございます。我が策はすでに万全。それに…」
宰相は、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
それは、皇后が亡くなる直前に、皇帝に宛てて書いた手紙の写しだった。宰相は、皇后の侍女頭を金と脅迫で抱き込み、本物の手紙を密かに入手していたのだ。
その内容は、夫の身を案じ帝国の未来を憂う、愛情に満ちたものだった。
「皇后陛下も、きっと天でお喜びになりましょう。弱き民を救い、帝国の威光を大陸全土にお示しになる、陛下の勇気あるご決断を。皇后陛下はいつだって陛下の栄光を、誰よりも強く願っておいででしたからな…」
その言葉は、皇帝の心を完全に折る最後の一撃となった。
妻の思い出は、彼にとって、誰にも汚されたくない唯一の聖域だった。その聖域を、宰相は土足で踏みにじり、自らの醜い野望を正当化するための道具として利用したのだ。
「…好きに、せよ」
玉座に深く身を沈め、皇帝は力なく呟いた。
その瞳から最後の光が消えた。
その瞬間、皇帝アドルフは一人の人間としての意思を完全に放棄し、宰相が意のままに操る魂のない「傀儡」となった。
宰相は、満足げに口元を歪めると玉座に背を向けた。
彼の心は、大陸全土を手中に収めるという、途方もない野望の達成感に打ち震えていた。
レナード・アルバートという計算外の駒の存在さえも、今や彼の壮大な計画を彩る、小気味よいスパイスにしか感じられなかった。