リロード
俺、高槻レンは、ごく普通の家庭に育った。
両親は俺に深い愛情を注いでいた。少なくとも、彼らはそう信じていたはずだ。だが、それは俺が「優秀であること」を前提としたものだった。
父は大手企業の管理職で、母は教養ある専業主婦。彼らは俺が名門大学に進み、一流企業に就職することを当たり前だと思っていた。幼い頃の俺は、そんな両親の期待に応えようと、常に完璧であろうと努力した。
テストは満点を取る。習い事は模範的にこなす。そうすれば、両親は笑顔になった。
「レンは本当に優秀ね」
母の言葉が嬉しかった。でも、どこか息苦しかった。
ある日、俺が描いた絵を見た父が言った。
「もっと現実的に描きなさい。こんな空想の世界じゃなくて」
俺が書いた物語を読んだ母は笑った。
「非現実的ね。もっと勉強になることを書いたら?」
その言葉が、俺の心を少しずつ閉じていった。
俺は悟った。自分の内にある「想像力」や「創造性」は、両親の求める「現実」や「優秀さ」とは相容れないものなんだと。
中学生になり、俺は家にいる時間が増えた。
「レンは勉強熱心だ」
両親は喜んだが、俺が熱中していたのは、PCゲームだった。特にFPSゲームの世界に、俺はのめり込んでいった。そこは、現実のルールから解放された、俺だけの自由な空間だった。
「レン、またそんなゲームばかりして。そろそろ受験も考えないと」
両親の言葉は、俺の心の壁を厚くした。
彼らは、画面の中の複雑な戦略も、仲間との連携も、瞬時の判断も、すべてを「くだらない遊び」としか見ていなかった。俺は、自分の情熱が誰にも理解されない孤独を、この頃から感じ始めていた。
高校に入ると、俺は本格的にFPSの世界に足を踏み入れた。クラスにいたゲーマー仲間とオンラインでチームを組み、毎晩のようにボイスチャットで声を枯らした。
チームには、口は悪いが面倒見の良いリーダーの「ケン」、寡黙でいつも俺の背中を守ってくれる「ハヤト」、そしてチームのムードメーカーで、いつも明るい「ミイ」がいた。彼らは、俺の家庭環境も、俺の挫折も知らなかった。だが、画面の向こうで繰り広げられる戦場では、彼らは俺の最高の理解者であり、かけがえのない仲間だった。
「レン、そこカバー頼む!」
「了解!」
ボイスチャットから聞こえる仲間の声。それが、俺の心を満たしてくれた。
ある夜、強敵との試合で追い詰められた時、ハヤトが放った一言が、俺の心に深く響いた。
「レン、一人で背負うな。俺たちがいる」
その言葉に、俺は涙がこぼれそうになった。
現実の世界では一人で戦ってきた俺にとって、仲間と共に勝利を目指すという経験は、何よりも温かいものだった。
勝利した時の高揚感は、現実では味わったことのないもの、俺にとっては他に代わるものがない「生きている証」だった。深夜、ヘッドセット越しに響く仲間たちの歓喜の声。彼らはまるで一つの生き物のように喜びを分かち合った。
「すげえなレン!今の動き、神業だったぞ!」
「よっしゃあああ!勝ったぞ!勝ったあああ!」
画面の向こうの仲間たちと勝利を分かち合う瞬間、俺は心の底から笑っていた。そこには、両親の期待も、現実の厳しさもなかった。
ただ、ゲームと、仲間と、そして勝利だけがあった。
(ここが、俺の居場所だ)
俺は確信した。
「プロゲーマーになる」
俺は、その夢を両親に告げた。
だが、両親の反応は、俺の予想通りだった。
「ゲームを仕事にする?レン、冗談はやめなさい」
父の声は冷たかった。
「現実を見なさい。そんな夢、叶うわけがない」
母の言葉は、まるで俺の心を凍らせる氷のようだった。
それでも、俺は諦めなかった。
だが、今思えば当然だが、プロの世界は想像以上に厳しく、俺よりも圧倒的な才能を持つプレイヤー、桁外れの練習量をこなすライバル。そして何よりも、生活という現実が、俺の行く手を阻んだ。
トライアウトに落ち続けた。スカウトの目に留まることもなかった。
「お前じゃ無理だ」
「才能が足りない」
冷酷な現実が、俺を打ちのめした。そして、気づけば、仲間たちは一人、また一人とディスプレイの前から去っていった。
家庭の事情、学業、仕事。それぞれの「現実」が、彼らをFPSの世界から引き離していった。
「わりぃ、レン。もう、俺たちは一緒にゲームできそうにない」
ケンからの最後のメッセージを見た時、俺の心は砕けた。
「ごめん、レン。お前はプロになれるって信じてる。でも、俺は、もう...」
ハヤトの謝罪が、俺の胸に突き刺さった。
「レン、楽しかったよ。また会おうね」
ミイの明るい声が、最後だった。
最後に残ったのは、俺だけだった。
仲間たちからの最後の言葉は、俺の心を深く傷つけた。勝手な言い分だが、彼らは、俺にとっての「FPS」が、ただのゲームではなく人生そのものだったことを理解してはくれなかった。皆生活がある、いつまでも食えないことをやり続けることはできない。大人にならなきゃ…。
頭では理解できていても「裏切られた」という気持ちを拭うことができないまま、社会から離れよりいっそうゲームに没頭していった。
30歳になった。
俺はコンビニの深夜バイトで生計を立て、帰宅すれば惰性でゲームを起動するだけの、無気力な日々を送っている。
脱ぎっぱなしの服が散乱し、コンビニ弁当の容器が虚しく転がっている部屋。
その中央で、煌々と光を放つゲーミングモニターだけが、俺の唯一の居場所だった。
俺は、一人になった。
無機質なディスプレイに映る戦場で、かつての仲間たちの姿を幻視する。
「ケン、ハヤト、ミイ...」
だが、どれだけ叫んでも、もう彼らの声が聞こえることはなかった。
その日も、俺はオンラインのゲーム大会に参加していた。賞金が出るわけでも、スカウトが来るわけでもない、ただの深夜の野良試合。それでも、かつての情熱の残滓が、俺をディスプレイに縛り付けていた。
「――レン、右!右見てるか!?」
ヘッドセットから、焦ったような仲間の声が飛ぶ。
しかし、俺の反応はコンマ数秒、遅れた。
かつて神業とまで言われた俺の反射神経は、無気力な日常の中で鈍りきっていた。
画面の中で、敵のアバターが放った閃光が弾け、俺の視界が真っ白に染まる。
『You are dead.』
無慈悲なシステムメッセージ。それが、俺のチームの敗北を決定づけた。
「...わりぃ」
かろうじて絞り出した謝罪の言葉は、誰の耳にも届かなかっただろう。仲間からの落胆のため息が、ヘッドセット越しに痛いほど伝わってくる。
その瞬間、俺の胸を、まるで灼熱の鉄杭を打ち込まれたかのような激痛が襲った。
「ぐっ...ぁ...!?」
息ができない。心臓が、まるで万力で締め上げられるように軋む。
視界が急速に暗転していく。
歪むモニターの光の中で、俺は薄れゆく意識の片隅で思った。俺はヘッドセットを外すことも最後にぽつりと呟くこともできなかった。
(ああ、こんなところで、終わりか...)
プロゲーマーになる夢も、仲間との絆も、すべてを失った空っぽの部屋で、たった一人で。
あまりにも、あっけない幕切れだった。
俺の人生は、FPSと共に始まり、FPSと共に終わった。
たった一人で、空っぽの部屋で。そして、俺の最後の記憶は、かつての神業を失った俺の「死」を告げる、無慈悲なシステムメッセージだった。
それが、高槻レンという人間の、最後の記憶だった。
———
(……ここは?)
意識が浮上する。瞼の裏で、柔らかな光を感じた。
ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れない光景だった。高い天井から吊るされた、優美な装飾の天蓋。滑らかな手触りのシーツ。部屋の調度品は、どれも俺が今まで見たこともないような、アンティークなデザインで統一されている。豪華だが、どこか色褪せ、使い古された印象を受けた。
人は目覚めた時、天井が違うと、いつもと違う場所にいることに気がつく場合がある。俺も目覚めてすぐに、ここが自分の家ではないことに気づいた。
混乱のまま、自分の手を見る。白く、華奢で、明らかに俺の手ではない。慌てて体を起こすと、その体もまた、記憶にある自分のものよりずっと細く、若々しいものに変わっていた。
その瞬間、頭の中に奔流のように、膨大な情報が流れ込んできた。
「――レナード・アルバート」
知らないはずの名が、自分の名であるかのように、しっくりと馴染む。ここは魔法と騎士が支配する中世風の王国「アークライト王国」。そして俺は、その辺境に領地を持つ没落寸前の貴族、アルバート家の三男、レナード・アルバートに転生したのだと。
「レナード様、お目覚めですか」
ドアがノックされ、侍女らしき女性が入ってくる。彼女の目に宿るのは、敬意ではなく、侮蔑と憐れみが入り混じったような冷たい光だった。
「旦那様と奥様が、朝食の席でお待ちです。また寝坊などと、これ以上、あの方々を失望させないでいただきたいものですね」
侍女の言葉は、レナードの記憶にある家族からの評価を裏付けていた。
食堂へ向かうと、長いテーブルの上座に座る厳格な顔つきの父と、神経質そうな母、そして二人の兄が、すでに食事を始めていた。俺の姿を認めると、父であるアルバート男爵が、忌々しげに舌打ちをする。
「なんだ、レナード。まだその寝ぼけ面を晒す気か。剣の才能もなく、魔法の素質もない。我が家の恥さらしめが」
「兄上たちを見習え。お前のような役立たずがいるから、アルバート家がますます侮られるのだ」
兄たちからの追い打ちの言葉が、突き刺さる。記憶の中のレナードは、この言葉に傷つき、ただ俯くだけだった。だが、今の俺の心には、別の感情が渦巻いていた。
(……なるほどな。これが、俺の新しいスタート地点か)
冷え切った家族関係、没落寸前の家。まさに、どん底からのスタート。だが、不思議と絶望は感じなかった。むしろ、空っぽだった心が、新たな目標で満たされていくような、奇妙な高揚感さえ覚えていた。