「私だけのお兄様」でなくなった日
アルバート家の末娘である私は、幼い頃から家で孤立していたレナードお兄様のことをいつも案じてきた。剣も魔法も苦手なお兄様は、厳格な父や才能溢れる兄たちから、常に冷たい言葉を浴びせられていた。
「稽古しているのに、どうして剣が少しも上達しないんだ?本気でやっているのか?レナード! この役立たずめが!」
「お前のような者がいるから、アルバート家が侮られるのだ!」
父や兄たちの怒声が、食堂に響き渡る。レナードは、ただ黙って俯いているだけ。その姿を見るたび、私の胸は締め付けられるように痛んだ。
「お父様、お兄様は、その…お体の具合が優れないだけですわ!」
必死に庇っても、父の怒りは収まらない。
「リシア、お前は兄を甘やかすな!」と一喝され、私もまた俯くしかなかった。使用人たちもまた、遠巻きに見ては「レナード様は、きっとこの家の落ちこぼれだわ」と囁き合う。
でも私は知ってる。父や兄たちに見せない、お兄様の別の顔を…。
あれは三年ぐらい前、私が8歳になった頃だった。
突然の高熱にうなされ、うわごとを繰り返すのをみて、流行病が感染ることを恐れてか母や使用人たちは遠巻きに見守るばかりだった。その時、真っ先に私の部屋に駆けつけてくれたのは、いつも一人で過ごしていたお兄様だった。
「リシア、大丈夫か? 怖い夢でも見ているのか?」
「お兄様…、側にきてはいけません。病がうつってしまいます…」
「大丈夫だ、そんなことは気にせずにゆっくり休むんだ。何かして欲しいことはないか?」
その言葉は独りで心細かった私の心をあたたかい何かで満たしてくれた。身体が安心感で包まれていく…。
「ありがとう…ございます。お兄様…あの、怖くて…何かお話を聞かせてください」
お兄様は優しく微笑み、私の好きな人形を手に取って、語りかけるように物語を話し始めた。それは、騎士や魔法使いが活躍する物語ではなく、不思議な光が飛び交う、見たこともない戦場の物語だった。
「……お兄様、そのお話、どうして知ってるの?」
「これは、俺だけの秘密の物語なんだ。誰にも言っちゃいけないよ」
その日から、毎日のように私の部屋を訪れ、物語を聞かせてくれた。物語は、剣や魔法の才能がないはずのお兄様が、まるで戦場の英雄であるかのように、敵を打ち倒し、仲間を救い、勝利を手にするという、不思議なものだった。
やがて熱は下がり、すっかり元気になった。でも私の心にはお兄様の優しさと、語ってくれた「秘密の物語」が深く刻み込まれた。
この時からお兄様のことを気がついたら目で追うようになった。
ある日、いつも一人で過ごしているお兄様が、屋敷の裏庭の片隅で、小さな石を並べて何かをしているのを見つけた。
「お兄様、何をしているの?」
「これは、敵の動きと、味方の位置を計算しているんだ。この石をここに動かすと、敵の側面をつける。そうすれば、正面から戦わなくても、勝利できる」
少し照れくさそうに説明してくれた。剣も魔法も使えないが、それでも誰よりも「勝利」を真剣に追い求めていることを私は知った。
父や兄たちが知らないお兄様の秘密。それは、剣や魔法の才能がないからこそ、誰よりも深く、そして真剣に「戦い」と向き合う真の強さだった。私は周囲の冷たい視線から守るように隣に寄り添いたいと思った。そしていつの日か、お兄様の優しさと強さを、みんなにも分かってほしいと心の中で願っていた。
そうこうするうちに、私はもう一つの秘密にも気づいた。お兄様の部屋の本棚の裏に、古い使用人用の部屋に続く、隠された階段があること。そして、時々、その階段を使ってこっそりと屋敷を抜け出していることを。
(お兄様、きっと、このお家にいるのが辛いのね……)
そのことを誰にも言わなかった。それは、お兄様が唯一、息抜きのできる時間だと分かっていたからだ。ただ無事に帰ってくるのを、部屋の窓からそっと見守っていた。それが、自分にできる精一杯のことだと思っていた。
だから、山賊との戦いで、お兄様が英雄になった時、私は誰よりも誇らしかった。自分の信じていた本当の姿を、みんなが認めてくれた。もう、誰も「役立たず」とは呼ばない。
でも、その誇らしさの裏で、言いようのない寂しさも感じる。「自分だけが知っているお兄様」ではなくなってしまったから。
そして、その寂しさは、戦勝を祝う宴の後、巨大な戸惑いへと変わった。
「お兄様、この方たちは…?」
宴の後、リシアはレナードが町の少年少女たちと親しげに話しているのを見かけた。カイと名乗る少年は、まるで昔からの親友のように兄の肩を叩き、ミアという少女は、兄に絶対の信頼を寄せるような眼差しを向けている。
「俺たちは『影の守護隊』! レン隊長の指示で、町の外で山賊の別動隊を叩いてたんだ!」
「レン隊長がいなかったら、今頃この町は……」
レン隊長?だれ?お兄様はレナードよ…? 影の守護隊…? 私は、愕然とした。お兄様がこっそり屋敷を抜け出していたのは、ただ辛い現実から逃れるためではなかった。お兄様は、自分に内緒で、こんなにも多くの仲間を作り、自分の軍隊を組織し、本当に戦っていたのだ。
「お兄様……どうして?…どうして私には、話してくださらなかったのですか…?」
リシアの問いかけに、レナードは少し困ったように笑った。
「ごめんな、リシア。心配かけたくなかったんだ。それに、これは家とは関係なく、俺がやってみたかったことだから」
その言葉が、胸に突き刺さった。心配かけたくなかった? 違う。お兄様は私を必要としてくれなかった。私がいなくても、彼にはカイやミアという、共に戦う仲間がいた。秘密を共有する存在は、気づかないうちに自分だけではなくなっていたから…。涙がこぼれ落ちた。お兄様は嬉し涙だと思ったようだけど、私は寂しく悲しかった…。
その複雑な心境に、さらに追い打ちをかけたのが、捕虜として屋敷に連れてこられた帝国の姫騎士、セリナの存在だった。
最初は敵意をむき出しにしていたセリナが、最近、お兄様と話す機会が増えている。書斎で二人きりで戦術書を覗き込んだり、庭で剣の稽古をつけたり。その距離は、明らかに近すぎるように見える…。
「お兄様、あの人と、何を話しているのですか…?」
ある日、私は勇気を出して尋ねた。レナードは、少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「セリナは、俺の戦術に興味があるんだ。彼女は敵だったが、素晴らしい戦士だ。学ぶべきところが多い」
その言葉に、何も言い返せなかった。お兄様が、自分以外の女性を「素晴らしい」と褒めている。しかも、その相手は、自分たちを殺そうとした敵国の姫騎士で、そして…あんなに美しい人。
私の心に、黒い靄のような感情が広がる。それは、嫉妬と呼ぶにはあまりにも幼く、しかし、無視するには大きすぎる、複雑な感情だった。
お兄様は、もう自分だけのものではない。カイやミアといった頼もしい仲間がいて、そして、セリナという好敵手がいる。
でも、それでも、信じたい。お兄様が、最初にその秘密を打ち明けてくれたのは、自分なのだと。どんなに多くの仲間ができても、どんなに強く美しい女性が現れても、自分とお兄様を繋ぐ、あの日の「秘密の物語」の絆だけは、決して揺るがないはずだと。
私はは、ぎゅっと拳を握りしめる。ただ守られているだけの妹ではいられない。光魔法の才能を持つ自分にも、きっとお兄様の力になれることがあるはずだ。
「お兄様、必ず私も一緒に戦えるようになります。待っていてください!」
私の決意の言葉に、お兄様は優しく、そして少し驚いたように、見つめ返すのだった。