キャンバスの幻像 3:デジタルグリッチと拡散する歪み
キャンバスの幻像 3:デジタルグリッチと拡散する歪み
放課後の美術室に夕陽が差し込み、健太は新しいタブレットの画面にミナミのデッサンを描き終えた。ひび割れた旧いタブレットの呪縛から解放され、彼の絵はかつてないほど穏やかで、純粋な希望に満ちている。ミナミとの親密さも増し、その絆が創作意欲を掻き立てていた。
その瞬間、健太のタブレットが激しく明滅した。描いたばかりのミナミのデッサンは、デジタルグリッチに覆われ、無数のランダムな色と形に歪む。ノイズの奥には、どこかの美術室で描かれたらしいデッサンが、フラッシュバックのように瞬いた。リンゴ、石膏像、見知らぬ生徒たちの顔。その一つ一つに、**内在する欠陥のように不自然な「歪み」**が混じっているのが見えた。一瞬、田中の歪んだ自画像の断片、そしてミナミの頬の傷跡が幻影のようにちらつき、健太は息を呑んだ。床に滴り落ちた絵の具が、木目に沿って不自然に歪んで見える。錯覚か、それとも──。
「なんだ、これ……?」
健太が戸惑う間に、グリッチは収まり、ミナミのデッサンは元の美しい姿に戻った。しかし、彼の心には拭い去れない鉛のような不安が残った。まるで、タブレットが見えないネットワークの闇に引きずり込まれ、冷たい泥を浴びせられたかのような異様な感覚が、指先から全身に這い上がってくる。田中とタブレットを交換し、ようやく平穏を取り戻したはずだったのに、また何かが始まりつつあるのか。
デジタルを介した「歪み」の侵食
翌日から、学校中で奇妙な異変が囁かれ始めた。GIGAスクール構想で配布されたタブレットの、美術のオンライン共有フォルダに**「異様な絵」**が紛れ込んでいると話題になったのだ。
「おい、これ、誰が描いたんだよ? 目の色が左右で全然違うじゃん!」
昼休み、山本が提出された自画像デッサンを指して叫んだ。片方が鮮やかな青、もう片方は不気味なほど濁った赤。他にも、人物の顔が不自然に歪んだり、リンゴにありえないほどの深い皺が刻まれたりする絵が、共有フォルダで目立ち始めた。それはまるで、絵画に潜む悪意が、デジタルの光を通して滲み出たかのようだった。教師たちはシステムの不具合を疑ったが、原因は不明のままだった。
最初は単なる「描画ミス」や「悪ふざけ」だと思われていた。だが、「奇妙な歪み」を持つ絵の数は日ごとに増え、美術部だけでなく、タブレットを使う生徒たちの間で、背筋も凍るような噂が広まり始めた。廊下では「最近描くと変になるんだって」「デッサン、描きたくないな」と怯えた声が聞こえる。美術部の部長である佐藤も、眉間に皺を寄せ、提出された絵を険しい顔で見つめていた。
「ねぇ、健太君。最近、美術室のデッサン、なんか変じゃない?」
放課後、健太の元へ駆け寄ってきたミナミの表情は、どこか怯えている。かつて自分の頬に走った「ひび割れ」の記憶が疼いているかのようだ。
「私、最近描いてる人物デッサン、線がうまく引けなくて、顔がちょっと歪んじゃうの。筆が震えるの。クラスメイトの斉藤さんも、自分の肖像画が目が左右で違う色に…って、すごく気に病んでて。気のせいかなって思うんだけど、なんだか胸騒ぎがして…」
ミナミの言葉に、健太の心臓が大きく跳ねた。あのタブレットのグリッチ、共有フォルダの異変、そしてミナミの不調やクラスメイトの絵の「歪み」が、不気味な因果関係で繋がり始めた。それは、彼の脳裏に、あの古びたタブレットと田中が巻き込まれた悲劇の記憶を鮮明に蘇らせた。田中は、美術室には姿を見せないが、廊下ですれ違う彼の無表情な横顔に、以前のような憎悪とは違う、奇妙な空虚さ、まるで何かが抜け落ちたような「歪み」の痕跡を感じ取っていた。
デジタルの傷が現実を侵食する
その週末、異変は学校全体に波及した。校内LANを通じて**「Google Classroom」の共通課題として提出されたデジタル作品に、これまでになかった**「グリッチ」のような視覚的なノイズが混じるようになったのだ。画面が乱れ、色が反転し、まるでデジタル空間が悲鳴を上げているかのようだった。不協和音のような電子音がタブレットから響き渡り、生徒たちを怯えさせた。サポートセンターは「異常なし」と返すばかりだ。
さらに恐ろしいことに、一部の生徒たちの体に、**彼らがタブレットで描いた「歪み」と酷似した痕跡が現れ始めた。**まるで、デジタルの傷が現実の皮膚に転写されたかのように。この異変は、絵の微細な違和感から始まり、徐々に生徒たちの精神に影響を与え、最終的に身体へと転写される、段階的な進行を見せていた。
サッカー部のA君は、「ibisPaint X」で描いたリンゴのデッサンが極端に歪んだ後、実際に彼の肌の一部に、リンゴに刻まれたような不自然なシワや変色が現れた。「原因不明の皮膚炎」と診断されたそれは、触るとひどく冷たく、まるで死んだ皮膚のような奇妙な質感だった。
吹奏楽部のBさんは、「CLIP STUDIO PAINT」で自画像を描いた際、瞳の色が左右で異なる「グリッチ」が発生した。数日後、彼女の瞳の虹彩の色が、わずかだが左右で微妙に異なって見え始めたのだ。
美術部員のC君は、プリインストールされている描画アプリで風景デッサンを描いた際、画面の歪みによって遠近感が崩壊した絵を描いてしまった。すると、彼は突然、遠近感が掴めなくなるという平衡感覚の異常を訴え始め、ついには保健室の常連となった。
これらの現象に共通しているのは、すべてGIGAスクール構想で導入されたタブレットと、そこで使われている**美術系の描画アプリ(特に、共通のクラウドストレージと連携しているもの)**を通じて発生していることだ。デジタル技術がもたらす新たな学びの環境が、まるで意図せずして、見えない「歪み」を広げる舞台となってしまっているかのように、静かに、しかし確実に生徒たちの日常を侵食していた。
奇妙な連鎖と真の原因
健太は、以前の自分とタブレットの奇妙な関係を思い出していた。あの時は、彼のひび割れたタブレットが媒介だった。しかし今は違う。GIGAスクール構想によって生徒一人ひとりにデジタルツールが手渡され、誰もが簡単に絵を描き、共有できるようになった広大なデジタル環境そのものが、何か別の「歪み」を増幅・伝播させているかのようだ。この異変は「原因不明の体調不良」や「最新アプリのバグ」として処理され、誰もが日常の便利さに慣れ親しみ、その裏に潜む異変を都合よく「気のせい」だと片付けていた。このままでは、被害者が増える一方だ。
健太は、これらの異変の連鎖に、ある可能性を見出していた。それは、**以前、田中が健太の古いタブレットに自画像を「完璧」に描こうとした際に、その不完全なタブレットが吸収しきれなかった「歪み」のエネルギーが、消滅したわけではなく、学校のデジタルネットワーク上に「残留」していたのではないか、という疑念だ。**田中の歪んだ願望が、デジタル空間の深部に根を張ってしまったのではないか。廊下で田中とすれ違うたび、健太は彼の無表情な横顔に、奇妙な空虚さ、まるで何かが抜け落ちたような「歪み」の痕跡を感じ取っていた。彼の歪んだ眼差しのフラッシュバックが健太の脳裏をよぎる。
そして、生徒一人ひとりのデジタルデバイスがネットワークで繋がれ、日々大量のデッサンデータが交換されるようになったことで、その「歪み」のエネルギーが**「デジタルグリッチ」として顕在化し、無意識のうちに生徒たちのデッサンに影響を与え、最終的には描いた本人たちの身体にまで影響を及ぼし始めた**のではないか、と。まるで、感染症のように、デジタルデータを通して「歪み」が伝播しているのだ。
「あの歪んだ自画像は、完全に消えたはずなのに……」
健太はゾッとした。あの時、田中の自画像を消せなかったのは、田中本人でなければ不可能だと考えた。しかし、田中の意識が戻り、「もう一人の田中」が消え去ったことで、自画像も消えた。それは、「描かれた存在の消滅」によって、絵の「呪縛」が解かれたという意味だった。
だが、もし、あの自画像が「描かれた者の存在」を消すことで消えるタイプの絵だったとしたら? そして、絵が消えてもなお、「絵を描こうとした者の歪んだ願望」や「タブレットが吸収しきれなかった負のエネルギー」が、データとしてデジタル空間に残ってしまっていたとしたら? それが、学校のネットワークに蔓延し、静かに新たな奇跡を引き起こしているとしたら? その可能性に、健太は背筋が凍る思いだった。
健太は、自分の新しいタブレットを手に取った。あのグリッチは、単なるバグではなかったのかもしれない。それは、ネットワーク上に拡散した「歪んだデータ」の断片が、彼のタブレットにまで侵食してきた証拠だったのだ。
健太は、ミナミの無垢な瞳を見つめた。彼女の頬の傷は消えたが、心の奥底にはあの記憶が残っている。今度は、**自分自身の描く絵が、意図せずして、大切な友人たちを傷つけているかもしれない。**彼の心に、新たな責任と、冷たい恐怖が同時に押し寄せた。自分の「描く力」が、光と影の両面を持つことを、彼は改めて突きつけられたのだ。便利で、誰もが使うようになったデジタル技術が、同時に、誰も気づかない形で「歪み」を拡散している。その恐ろしさに、健太は孤独を感じていた。一体、誰にこの異変を相談すればいいのだろう。
新たなツールと視界に潜む歪み
放課後の美術室は、絵の具と古い木の匂いが混じり合う、健太にとって安らぎの場所だった。最近は、デッサン用の石膏像や静物画のモチーフを見るたびに、その奥に潜む「歪み」の気配を感じ取るようになっていた。美術部の活動が終わり、顧問が口を開いた。
「みんな、GIGAスクール構想で配られたタブレットにはもう慣れたかな? 実は、美術部にはもっと便利なツールを導入したんだ。」
顧問が取り出したのは、真新しいスマートグラスだった。細いフレームに、小さなカメラが搭載されている。
「これは『視覚記録用スマートグラス』だ。モデルの動きを多角的に記録したり、色調を詳細に分析したり、美術部にとって大きな助けになるはずだ。」
健太は、この新しいツールが学校に蔓延する「歪み」にどう影響するのか、一抹の不安を感じていた。
その日の放課後、健太は美術室でミナミのデッサンに集中していた。隣のイーゼルでは、部長の佐藤が、顧問から借りたばかりのスマートグラスを装着し、熱心に石膏像のデッサンに取り組んでいる。その時、カツン!と乾いた音が響き、佐藤がイーゼルの脚のコードに躓き、装着していたスマートグラスが滑り落ち、硬い床に叩きつけられた。
佐藤は青ざめながらスマートグラスを拾い上げた。レンズには、まるで蜘蛛の巣のように**無数の細いひびが一本、不気味に走っていた。**彼は震える声で健太に経緯を説明し、顧問には内緒にしてほしいと懇願した。健太は、佐藤の焦りを見て、彼の秘密を共有することを選んだ。以前、自分のタブレットを壊した時と、どこか似た状況だった。ひび割れたタブレットに憑りつかれていた過去が、彼の脳裏をよぎる。健太は自身の絵を描くことで、タブレットに宿っていた「歪み」を一時的に鎮静化させ、自らの身を守ったのだ。まるで、彼の筆が「歪み」そのものの本質を捉え、それを再構成する力を持っていたかのように。しかし、今回は自分の絵が友人たちを傷つけているかもしれないという新たな恐れがあった。佐藤は、その場に緊張が走ったまま、慌ててスマートグラスを部室の机の上に置き忘れ、飛び出すように去ってしまった。
翌日、部室に入った健太は驚くべき光景を目にした。数人の部員が、置き忘れられたスマートグラスを好奇心から装着し、レンズのひび割れに気づき、自分が壊したと思い込んでパニックに陥っていたのだ。彼らは高価な備品を壊したという罪悪感に苛まれ、次々とスマートグラスを置き去りにし、足早に部室を後にした。まるで感染症のように、無邪気な好奇心が連鎖し、そのたびに置き忘れられたスマートグラスが、次の犠牲者を待っているかのようだった。健太は、この連鎖を目の当たりにし、胸騒ぎを覚えた。夕方、誰もいなくなったのを確認した健太は、置き忘れられたスマートグラスを拾い上げ、顧問が保管していた鍵のかかった棚に、そっとそれをしまってしまった。
スマートグラスが導入されてから数週間、美術部ではそれが日常の風景に溶け込んでいた。部員たちは顧問の目を盗んで、スマートグラスを様々な形で活用していた。ある部員は、デッサン中にスマートグラスのグリッド線と骨格のアシスト機能に頼りすぎていた。現実の不完全さを許さず、完璧な描線に固執するその姿勢は、まるでデジタルが生み出す「理想像」に囚われているかのようだった。彼が理想とする完璧なラインは、そこに自らの「歪み」を投影していた。
別の部員は、風景画を描くために、屋上からスマートグラス越しに写真を撮りまくっていた。「写真に撮れば構図の勉強になる」と言いながら、撮った画像をSNSに投稿したり、フィルターをかけて加工したりすることに時間を費やし、実際に絵筆を動かす時間は減っていった。それは、「映え」を追求するあまり、現実を加工し、歪めていく現代の傾向そのものに見えた。
またある部員は、共同制作の準備で他の部員の絵をスマートグラスでスキャンし、自分のタブレットに取り込んで修正を加えていた。「より良い作品にするため」と言いながら、無断で他者の作品に手を加え、デジタル上で上書きしていく行為は、共同制作における暗黙の了解を破る「お約束破り」だった。彼の中には、他者の努力を尊重せず、自分の都合の良いように「修正」してしまおうという、自己中心的で微かな歪みが芽生えているようだった。
健太は、こうした部員たちの行動を静かに見守っていた。彼らの行動はどれも悪意があるわけではない。しかし、スマートグラスという新しいツールを通して、絵を描くことへの「姿勢」や「意識」が、どこか歪んでいくように感じられた。それは、レンズに刻まれたひび割れのように、彼らの「視界」だけでなく、彼らの心にも、目に見えない「歪み」が入り込んでいるかのようだった。
身体に現れる異変と顧問の「誤解」
数日後。美術部室の部員たちは、互いの顔を訝しげに見つめ合っていた。
「ねぇ、最近さ、なんか寝不足じゃない?」
部員の一人の目の下には、どこか不自然な、**ヴィジュアル系のメイクを思わせるような独特のくすみや影が、目の上下を囲むように広がっている。**その黒い影の中には、**スマートグラスのレンズに走るひび割れと酷似した、細く、しかし確実に、まるで皮膚の内側から浮かび上がったかのような「線のような筋」**が見え隠れしていた。光の加減や、部員が焦ったり不安を感じたりするたびに、その線は微妙に濃くなったり、形を変えたりしているようにも見えた。
「あれ? お前もだ。なんか、おんなじ感じのクマできてない?」
別の部員が自分の目を指さしながら言った。
「これ、もしかして、あのスマートグラス…?」
誰かが呟いた。その言葉に、スマートグラスを装着した覚えのある部員たちが、一斉に顔を青ざめさせた。高価な備品を壊した罪悪感に加え、得体の知れない「呪い」のようなものが身体に刻まれたという恐怖に震え始めた。それは、ミナミの頬にあった傷と、どこか共通する不気味さを纏っていた。
部員たちは、この異変を顧問や他の生徒に知られるのを恐れ、必死に隠そうとした。コンシーラーを塗ったり、伊達メガネをかけたり…。しかし、目の周りの異変は隠しきれるものではない。彼らの顔は疲労困憊しているように見え、日ごとに口数が少なくなっていった。
佐藤は、目の周りに同じ「微病」を抱える部員たちを見て、顔を青ざめさせていた。自分が壊したスマートグラスが、こんな身体的な異変を引き起こし、無邪気な後輩たちを巻き込んでしまったことに、激しい罪悪感を覚えていた。
そんなある日のこと。顧問が部室で鍵のかかった棚からスマートグラスを出そうとした際、うっかり手から滑らせてしまった。カツン、と小さく、しかし嫌な音が響く。
顧問はスマートグラスを拾い上げ、レンズに走る無数のひび割れに気づいた。彼の顔から血の気が引いた。
「な、なんだこれは……! 私が、私が壊してしまったのか……!」
顧問は、元々ひび割れていたことを知らず、**自分が落とした衝撃でこの無数のひび割れができたのだと強く思い込んでしまった。**部員たちは皆「自分が壊した」という罪悪感を抱えながらも、誰一人として顧問の言葉を否定することはなかった。佐藤も沈黙を選んだ。その場の誰もが真実を語れない中、健太は、知らずに責任を背負い込む顧問の姿を見つめた。その複雑な状況は、健太の心を鉛のように重くした。
「す、すまない皆! 私が、不注意で……本当に申し訳ない!」
顧問は深々と頭を下げ、部員たちに謝罪した。そして、美術室から足早に立ち去り、すぐにスマートグラスを修理に出す手配を始めた。顧問の「責任感」によって、スマートグラスの物理的な問題は一旦、幕引きとなった。
数週間後、修理を終えたスマートグラスが顧問の手元に戻ってきた。レンズはぴかぴかに磨かれ、ひび割れ一つない。顧問は安堵の息を漏らし、再び鍵付き棚にそれを収めた。
その日から、美術部員たちの目の周りに現れていた奇妙な「線のような筋」や「ヴィジュアル系のメイクのような影」が、わずかながら薄れていくことに、健太は気づいた。劇的な変化ではなかったが、確かに彼らの顔から不穏な空気が少しずつ引いていくようだった。
健太の心には、拭い去れない重さが残っていた。目の周りの異変が薄れていく部員たちを見て安堵する一方で、顧問が真実を知らぬまま責任を被った事実に、鉛のようなものが沈んだ。真実を隠蔽したことで一時的に問題が収まったとしても、その偽りの平穏は、彼の心の奥底に新たな「歪み」の種を蒔いたような気がした。描こうとする風景が、時折、現実にはない不自然なモザイク状の光を帯びて見えるなど、彼の視覚にも微かな異変が現れ始めていた。
さらに、健太は驚くべき変化に気づいた。以前、**身体に不自然なシワや変色が現れたA君、瞳の色が左右で異なるようになったBさん、そして遠近感の異常を訴えていたC君の症状も、微かではあるが軽減しているようだった。**彼らはわずかながら活力を取り戻しているように見えた。
健太は、修理されたスマートグラスと、これらの異変の関連性を静かに見つめた。物理的な修理が、なぜデジタル空間の「歪み」に影響を与えたのか。それはまだ謎に包まれていた。しかし、今回の顧問の「完全な状態に戻す」という行動が、美術部員だけでなく、学校全体に広がる「歪み」の一部にまで間接的に作用し、その影響をわずかながら和らげたことを、健太は確信していた。
美術部の日常は、再び平穏を取り戻したかに見えた。部員たちは以前よりも明るくなり、目の異変については口にすることもなくなった。しかし、健太は知っていた。この解決は一時的なものに過ぎず、大もとの「歪み」はまだデジタル空間に根を張っていることを。そして、その「歪み」は、デジタルツールや人間の「ずるさ」、自己保身、そして真実から目を背けるといった心の歪みと深く繋がっていることを改めて痛感した。
彼は、再び美術部へと急いだ。顧問は最近、**「Handy Art Reference Tool」や「5分スケッチ」**といった新しいデッサン支援アプリの導入を進めている。デジタルデッサンに触れる機会が増え、データがより多く流通することで、同時に「歪み」が拡散するリスクをさらに高めているとも言える。もしかしたら、美術部の生徒たちが、この異変の震源地になっているのかもしれない。健太は、美術部の活動記録が保存されているオンラインフォルダを、改めて確認する必要があると感じていた。特に、田中のデータがどのように残っているか、美術部の共有サーバーからその痕跡を辿ることを考えた。しかし、個人情報保護の観点から、どこまでアクセスできるのかは未知数だった。
健太は、机の引き出しからスケッチブックを取り出し、ペンを握りしめた。もしかしたら、彼の「絵の力」が、この見えない「歪み」の真の姿を明らかにし、それを「癒す」ことができるのかもしれない。あのひび割れたタブレットの呪縛を解いたように。その時、彼は確信した。絵を描くことで対象の本質に深く触れ、そこに潜む歪みを、心の奥底から**「視る」ことができるのだと。それは、ただ絵の具を塗る行為ではない。彼の内なる視覚が、デジタル空間の闇に根を張る「歪み」の輪郭を捉えようとしていた。**だが、もし、この「歪み」が、彼自身の描く絵にまで侵食し、新たな深淵へと彼を誘うとしたら?
その時、スマートフォンの通知音が鳴り響いた。画面に表示されたSNSのトレンドワード。そこに不気味なほど早く移り変わっていく奇妙な図形がちらつき、健太ははっきりと新たな「歪み」の気配を感じ取った。それは、まるで彼の視界に直接、デジタルノイズが流れ込んできたかのようだった。そのトレンドワードは「#完璧な自分」や「#加工こそ正義」といった、自己を過度に美化したり、現実を歪曲するようなハッシュタグと共鳴し、表面的な理想に執着する人間の心の歪みを映し出しているようだった。