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第四話:沈黙の聖域(せいいき)


――紅蓮ぐれんの炎が過ぎ去った後、水瀬みなせのムラとくすのきもりには、深い静寂と、言葉にできないほどの哀しみが残された。そして、人々は知ることになる。神の怒りに触れることの本当の恐ろしさと、その地に刻まれた禁忌の意味を。



夜が明け、朝日が焼け野原となった水瀬のムラを照らし出すと、その惨状はより一層際立った。家々は焼け落ち、畑は踏み荒らされ、そして至る所に、おびただしい数の敵兵の亡骸が転がっていた。その光景は、まさしく地獄そのものだった。

瑞葉みずはは、樟の大木の根元に力なく座り込み、その光景を虚ろな目で見つめていた。昨夜の半狂乱にも似た怒りと力の行使は、彼女から膨大な神力を奪い去り、心身ともに深い疲労と虚脱感をもたらしていた。そして何よりも、自らの手で多くの命を奪ったという事実が、重い鉛のように彼女の心を沈めていた。

(私は…守りたかっただけなのに…)

だが、その結果がこれだ。守れた命もあったかもしれない。しかし、それ以上に多くの命が失われ、平和だったムラは見る影もなくなった。


タケオミは、生き残った数少ないムラの男たちと共に、呆然としながらも後片付けを始めていた。彼の顔には深い悲しみと絶望の色が浮かんでいたが、それでも長の務めとして、民を励まし、導こうとしていた。

サキと子供たちは、幸いにも瑞葉の力によって守られ、無事だった。しかし、目の前で繰り広げられた殺戮の光景は、彼らの心にも深い傷を残しただろう。

タケオミは、瑞葉の元へ近づくこともできずにいた。昨夜の、破壊の女神と化した彼女の姿は、あまりにも恐ろしく、そして神聖すぎた。あれは、自分たちが知る慈悲深い樟の姫神ではなかった。あるいは、それもまた姫神の一つの姿だったのかもしれないが、今のタケオミには理解が追いつかなかった。


瑞葉の怒りがもたらした凄惨な結果は、すぐに周囲のムラ々や豪族たちにも伝わった。

水瀬のムラを襲った豪族の軍勢が、一夜にしてほぼ全滅したこと。そして、その原因が、樟の杜に宿る神の、人知を超えた力によるものらしいということ。

その噂は、恐怖と共に瞬く間に広がり、人々は水瀬の杜を「神の怒りに触れた禁忌の地」として畏れ、近づこうとしなくなった。あるいは、その強大な力を求めて、あるいは厄災を避けるために、遠くから密かに祈りを捧げる者もいたが、かつてのように気軽に人々が訪れる場所ではなくなってしまった。


生き残った水瀬のムラの民は、わずか数十人。彼らは、タケオミを中心に、焼け残った家や杜の近くに身を寄せ合い、静かに暮らし始めた。かつての豊かな実りも、賑やかな祭りも、もうない。ただ、深い悲しみと、そして瑞葉への畏怖の念だけが、彼らの心に重くのしかかっていた。

瑞葉は、そんな彼らの姿を、樟の木陰から静かに見守っていた。力を大きく失った彼女は、以前のように頻繁に姿を現すことも、ましてや奇跡を起こすこともできなくなっていた。ただ、そこにいるだけ。それが、今の彼女にできる精一杯だった。

そして、彼女自身もまた、人々との間に新たな壁ができてしまったことを感じていた。かつては親しみと感謝の対象であった「樟の姫神」は、今や畏怖と禁忌の対象となってしまったのだ。


数十年という時が流れるうちに、水瀬の杜とその周辺は、完全に周囲から隔絶された「聖域」あるいは「神のおわす地」として、人々の記憶の中に定着していった。

戦乱の時代が続いても、この地は大きな争いに巻き込まれることはなかった。神の怒りを恐れてか、あるいはその神聖さを敬ってか、誰もこの地に手を出すことはできなかった。

生き残ったムラの民の子孫たちは、細々と、しかし逞しくその地で暮らし続け、瑞葉への信仰をひっそりと受け継いでいった。彼らにとって瑞葉は、畏れ敬い奉る守り神だった。

時には、遠くの地から、大きな苦しみや絶望を抱えた者たちが、最後の望みを託してこの「沈黙の聖域」を訪れることもあった。瑞葉は、そんな彼らの切実な祈りに、ほんのわずかな力で応えることしかできなかったが、それでも、彼女の存在は、絶望の淵にいる人々にとって、一筋の希望の光となっていたのかもしれない。


瑞葉は、永い時間をかけて、失った力を少しずつ取り戻していった。

しかし、あの夜の記憶――自らの手で多くの命を奪ったという事実は、決して消えることのない深い傷として、彼女の心に刻み込まれていた。

それは、彼女にとって、神として、そして一人の「個」としてのあり方を、根本から揺るがす出来事だった。

人を愛し、人を守りたいと願う心。しかし、その力が暴走すれば、計り知れない破壊と悲しみを生む。そのジレンマを、瑞葉はこれからの永い時の中で、ずっと抱え続けていくことになるのだろう。

ヒコとの出会いがもたらした温もりと、この戦乱がもたらした絶望。その両極端な経験が、瑞葉という神を、より複雑で、より深い存在へと変えていった。


樟の大木は、今日も変わらず天を衝き、その下に佇む瑞葉は、静かに時の流れを見つめている。

その瞳には、千数百年の孤独と、数えきれないほどの哀しみ、そして、それでもなお消えることのない、人間への複雑な想いが、深く、深く、沈んでいくのだろう。

この「沈黙の聖域」で、彼女はこれからも、人々の営みを見守り続けるのだろう。喜びも、悲しみも、全てをその身に受け止めながら。


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