第三話:紅蓮(ぐれん)の杜(もり)
――黒い雨雲は、ついに激しい嵐となって水瀬のムラを襲った。平和な日常は一瞬にして炎に包まれ、人々の悲鳴が杜に木霊する。その時、永い間静かに人々を見守ってきた樟の姫神の中で、何かが決定的に変わろうとしていた。
月も星も見えぬ、漆黒の闇夜。
水瀬のムラの周囲には、息を殺した数多の兵たちが、じりじりと包囲の輪を狭めていた。彼らは、近隣の豪族たちが差し向けた手練れの戦士たち。その目には、略奪への欲望と、血に飢えた獣のような獰猛な光が宿っていた。
ムラの櫓で見張りをしていた若い男が、最初に異変に気づいた。闇の中に揺らめく、無数の松明の光。そして、地を揺るがすかのような鬨の声。
「敵襲ーっ!敵襲ーっ!」
叫び声は、つかの間の静寂を切り裂き、ムラ全体を恐怖の底に突き落とした。
タケオミは、かねてからの準備通り、鐘を打ち鳴らし、ムラの男たちを招集した。女子供は、瑞葉が宿る杜の社へと避難させる。
「皆、落ち着け! 我らには姫神様がついている! このムラは、絶対に渡さん!」
タケオミの声は、恐怖に震えるムラ人たちを鼓舞したが、彼の顔にもまた、死を覚悟した者の壮絶な覚悟が滲んでいた。
間もなく、ムラの柵は破られ、鬨の声をあげた敵兵たちが、雪崩のように押し寄せてきた。迎え撃つタケオミたちムラの男たちは、数の上では圧倒的に不利だったが、故郷と家族を守るという一心で、必死に抵抗した。
剣戟の音、怒号、そして断末魔の叫び。平和だったムラは、一瞬にして地獄絵図と化した。
瑞葉は、社の奥深く、樟の大木の根元で、その全てを感じ取っていた。
杜の結界は、今のところ敵兵の侵入を阻んでいる。しかし、結界の外で繰り広げられる惨状は、彼女の心を容赦なく抉った。
ヒコが愛したムラの家々が炎に包まれ、罪のない人々が次々と刃に倒れていく。タケオミの奮戦も、多勢に無勢、時間の問題であることは明らかだった。
(やめて…もう、やめてくれ…!)
瑞葉の全身が、激しい怒りと悲しみで震えていた。彼女の力は、この杜の中では絶大だ。その気になれば、杜の外の敵を一瞬にして薙ぎ払うこともできるかもしれない。しかし、それは、神としての禁忌を破ることになる。それは、かつてヒコの最期を看取った時のように、自らの存在を大きく削ることになるかもしれない。そして何より、それは、さらなる憎しみと争いの連鎖を生むだけではないのか。
葛藤が、瑞葉の心を激しく揺さぶる。
その時、瑞葉の耳に、聞き慣れた悲痛な叫び声が届いた。
サキだった。彼女は、幼い子供たちを庇いながら、杜の入り口近くで、数人の敵兵に囲まれていたのだ。タケオミの妻であり、ムラの長の妻であるサキを捕らえれば、大きな手柄になると思ったのだろう。
「離せ! この子たちに手を出すな!」
サキは必死に抵抗するが、女の力ではどうすることもできない。幼い子供たちは、恐怖に泣き叫んでいる。
その光景が、瑞葉の目に焼き付いた。
ヒコが愛したサキ。ヒコの血を引く、あどけない子供たち。彼らが、今まさに、獣のような男たちの手にかかろうとしている。
――プツン。
瑞葉の中で、何かが切れる音がした。
永い間、自らを律してきた理性も、神としての禁忌も、もはやどうでもよかった。
ただ、守りたい。この者たちだけは、絶対に。
「許さない…」
瑞葉の唇から、地の底から響くような、冷たく低い声が漏れた。
次の瞬間、樟の大木が、まるで意思を持ったかのように激しくざわめき、杜全体から凄まじい神気が立ち昇った。それは、これまで瑞葉が見せてきた慈悲深い姫神の力とは全く異なる、荒々しく、そして破壊的な力。
杜の入り口でサキたちに襲いかかろうとしていた敵兵たちが、見えない力に薙ぎ倒され、悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされた。
瑞葉の姿が、社の奥から、燃え盛る炎を背にして現れる。その瞳は、もはやいつもの静けさを失い、紅蓮の炎のような怒りに燃え上がっていた。その姿は、美しい少女というよりは、全てを焼き尽くす破壊の女神そのものだった。
「我が杜を穢し、我が民を傷つける者どもよ…その罪、万死に値する!」
瑞葉の声は、もはや囁きではなく、雷鳴のように戦場に響き渡った。
彼女が手をかざすと、杜の木々が意思を持ったように敵兵に襲いかかり、大地からは鋭い岩が突き出し、天からは局地的な嵐が敵兵を打ち据える。それは、もはや戦いではなく、一方的な蹂躙だった。
瑞葉は、半狂乱に近い状態で、次々と敵兵を屠っていく。彼女の脳裏には、ヒコの笑顔、サキの優しさ、そして幼い子供たちの無邪気な顔が繰り返し浮かんでいた。それらを守るためならば、彼女は悪鬼にでもなろうと覚悟した。
初めて、自らの意思で、人を殺める。そのおぞましい感覚と、それでも止まらない怒り。瑞葉の心は、喜びも悲しみも感じない、ただひたすらな破壊衝動に支配されていた。
タケオミは、その光景を呆然と見ていた。いつも穏やかで慈悲深い姫神様が、これほどまでに恐ろしい力を秘めていたとは。そして、その力が、自分たちのために振るわれていることに、彼は感謝よりも畏怖を感じた。
やがて、攻め込んできた豪族たちの軍勢は、瑞葉の圧倒的な力の前に、ほぼ壊滅状態となった。生き残った者たちも、恐怖に駆られて武器を捨て、我先にと逃げ出していく。
戦場には、敵兵の死体と、焼け落ちた家屋、そして呆然と立ち尽くすムラの生き残りだけが残された。
嵐のような戦いが終わった時、瑞葉は、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちそうになった。
紅蓮の炎のように燃え上がっていた瞳からは、急速に光が失われ、いつもの深い哀しみが戻ってくる。
(私は…何をしてしまったのだ…)
手のひらを見つめる。そこには、目には見えないが、確かに夥しい血の感触が残っていた。
初めて人を殺めたという事実。そして、その行為によって守れたものと、永遠に失ってしまったもの。その重みが、瑞葉の心に深く、深く刻み込まれた。
杜の木々は静まり返り、ただ、焼け焦げた匂いと、死の気配だけが、紅く染まった空の下に満ちていた。