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第二話:黒い雨雲


――水瀬みなせのムラの豊かさと、それを支えるくすのき姫神ひめがみの存在は、次第に周囲の豪族たちの欲望を刺激し始めていた。平穏な日々の空に、暗く不吉な雨雲が垂れ込めようとしていた。


隣のムラの使者が帰ってから数日後、タケオミの元には、さらにいくつかのムラや小さな国を束ねる豪族からの使者が、入れ替わり立ち替わり訪れるようになった。彼らは口々に友好を唱え、貢物を持参することもあったが、その真の目的は水瀬のムラの富と、樟の姫神の力を探ることにあるのは明らかだった。ある者は姫神の加護を自らのものにしようと画策し、またある者は、水瀬のムラがこれ以上力をつけることを恐れていた。


瑞葉みずはは、社の奥深く、樟の大木の根元で、それらの動きを静かに感じ取っていた。人々の祈りを通して、あるいは杜を訪れる者たちの心のざわめきを通して、彼女にはムラの外で渦巻く黒い感情が手に取るように分かった。

(また、始まった…人の子の、尽きぬ欲望が…)

ヒコの時代にもあった、小さな土地や獲物を巡る争いとは質の違う、より大きく、組織だった悪意。それが、じわじわと水瀬のムラに迫っているのを感じ、瑞葉の胸は重苦しさで満たされた。


タケオミもまた、ただ手をこまねいているわけではなかった。彼はムラの長老たちと日夜協議を重ね、若い男たちには弓や槍の稽古を強化させた。杜の周囲に巡らせた簡素な柵は、より頑丈な丸太を組み合わせて補強され、ムラの入り口や見晴らしの良い場所には、物見のためのやぐらが築かれ始めた。

子供たちの無邪気な声が響いていた杜の端にも、緊張した面持ちの男たちが見張りに立つようになり、ムラ全体の空気が次第に張り詰めていく。サキをはじめとする女たちは、男たちの身の回りの世話をしながらも、不安な表情を隠せずにいた。


「姫神様、我らは断じて屈しませぬ。このムラと、姫神様をお守りするためならば、いかなる困難にも立ち向かう所存にございます」

タケオミは、日々の務めの合間を縫っては社を訪れ、瑞葉にそう誓いを立てた。その瞳には、かつてのヒコと同じ、強い意志の光が宿っている。しかし、その奥には、先の見えない不安と、民を率いる者としての重圧が滲んでいた。

瑞葉は、言葉を返すことはなかった。ただ、樟の葉を揺らす風の音に、彼女の深い憂慮と、タケオミへの静かな励ましが込められているかのようだった。彼女には分かっていた。人の子の争いは、神の力で安易に止めるべきではないことを。それは、さらなる歪みを生むだけかもしれない。しかし、このムラが、ヒコが愛したこの場所が、踏みにじられるのを見るのは耐えられなかった。


そんなある夜、瑞葉は杜の中で、奇妙な気配を感じ取った。それは、獣のものでも、ムラ人のものでもない。複数の人間が、息を殺して杜の境界に近づいてくる気配。斥候せっこうだろうか。

瑞葉は、そっとその力を使い、杜の木々をわずかに揺らし、ふくろうの鳴き声を響かせた。それは、ムラの夜警へのささやかな警告のつもりだった。

間もなく、杜の端で小さな騒ぎが起こり、数人の不審者が捕らえられたという話が、翌朝、タケオミの口から瑞葉にもたらされた。彼らは隣国の豪族の手の者で、ムラの防備を探りに来ていたのだという。

「姫神様のお導きがなければ、気づけなかったやもしれません。感謝いたします」

タケオミは深々と頭を下げた。

瑞葉は、その言葉に複雑な思いを抱いた。自分が介入したことで、一時的に危険を回避できたかもしれない。だが、それは根本的な解決にはならず、むしろ相手の警戒心を煽っただけかもしれない。

(私は…何ができるのだろう…)

強大な力を持ちながらも、それを振るうことへの深い躊躇い。そして、大切なものを守りたいという切実な願い。その狭間で、瑞葉の心は揺れていた。


捕らえられた斥候の口から、恐るべき情報がもたらされた。水瀬のムラの豊かさを妬むいくつかの豪族が密かに手を結び、近いうちに大規模な襲撃を計画しているというのだ。彼らの狙いは、ムラの富を略奪し、そして樟の姫神の力を無力化、あるいは自らの支配下に置くこと。

その報は、ムラ全体に衝撃と恐怖をもたらした。もはや、小さな衝突では済まされない。ムラの存亡をかけた戦いが、目前に迫っていることを誰もが悟った。

タケオミは、悲壮な決意を固め、ムラの民に告げた。

「我々は、この地を、そして姫神様を、命に代えても守り抜く!」

男たちは雄叫びをあげ、女子供は涙をこらえながらも、男たちの無事を祈った。


瑞葉は、社の奥で、その全てを感じ取っていた。人々の恐怖、怒り、そして絶望にも似た覚悟。それは、彼女の心を激しく揺さぶった。

(守らねば…ヒコが愛したこのムラを…彼の子孫たちを…!)

だが、どうやって? 神の力で敵を打ち払えば、それは新たな争いの火種となり、より大きな災厄を招くかもしれない。かといって、ただ見ているだけで、この愛すべき者たちが蹂躙されるのを許せるはずもなかった。

黒い雨雲は、刻一刻と水瀬のムラの上空に近づき、今にも激しい雷雨を降らせようとしていた。瑞葉の心にもまた、出口の見えない嵐が吹き荒れ始めていた。


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