第一話:樟(くすのき)の姫神(ひめがみ)と長(おさ)の一族
――これは、瑞葉が「樟の姫神」として篤く信仰され、人々と杜が蜜月ともいえる時を過ごしていた頃の物語。しかし、その平穏の陰には、すでに黒い雲が近づきつつあった。
陽光が黄金色の稲穂を照らし、豊かな実りの予感を運んでくる季節。
ヒコが「おねえ」と慕った瑞葉の社は、今や「水瀬の社」と呼ばれ、樟の大木を中心とした杜全体が、清浄な気に満ちた聖域として、近隣のムラ々からも敬われるようになっていた。
瑞葉自身も、人々の信仰を集めるにつれてその力を増し、杜の中では、若く美しい少女の姿をはっきりと現すことができた。彼女は「樟の姫神」として崇められ、その御前に立つことを許されるのは、ムラの長とその一族、そして特別な祭りの時だけに限られていた。
ヒコの曾孫にあたる若者、タケオミは、この水瀬のムラの長として、民をよく治め、人々からの信頼も厚かった。彼は幼い頃から祖父や父に連れられて瑞葉の社を訪れ、その不思議な気配と、時折垣間見える美しい姫神の姿に、深い畏敬の念を抱いていた。タケオミは、ムラの繁栄は樟の姫神の加護あってこそと信じ、日々の感謝と祈りを欠かさなかった。
「姫神様、今年も見事な稲穂でございます。これも全て、姫神様のお力添えのおかげにございます」
収穫を前にしたある日、タケオミは一人、社の奥深く、瑞葉が好んで姿を現す樟の大木の根元に額づき、そう声をかけた。
瑞葉は、木の幹に寄りかかるようにして静かに佇み、その言葉に耳を傾けていた。彼女が直接言葉を返すことは稀だったが、タケオミには、姫神が自分たちの祈りを聞き届けてくれていることが、肌で感じられた。
(タケオミ…ヒコによく似た、真っ直ぐな目をする子)
瑞葉は、心の中でそう呟いた。ヒコの面影を色濃く残すタケオミを見るたび、胸の奥に温かいものと、そしてチクリとした痛みが同時に蘇る。
瑞葉の加護は、豊作だけに留まらなかった。ムラで病人が出れば、タケオミの祈りに応えてそっと癒しの力を送り、子供が行方知れずになれば、その居場所を夢枕に立って知らせることもあった。人々は、瑞葉を現世利益をもたらす慈悲深い神として崇め、祭りの日には、杜に続く道が供物を持った人々で埋め尽くされるほどだった。
瑞葉自身は、そのような直接的な崇拝や、大勢の前に姿を現すことを好まなかった。彼女の心には、依然として人との深い関わりへの恐れと、永い孤独が生んだ内向的な性質が根強く残っている。それでも、ヒコとその血を引く者たちが治めるこのムラの人々に対しては、特別な愛着と庇護欲を感じていた。できる限り彼らの助けになりたい、その想いが、彼女を現世利益の神としての役割へと導いていたのかもしれない。
タケオミの治める水瀬のムラは、姫神の加護もあって、近隣でも特に豊かで平和だった。飢饉に見舞われることも少なく、ムラ人たちの顔には笑顔が絶えない。その噂は、風に乗って遠くのムラ々にも伝わっていった。
しかし、光が強ければ影もまた濃くなる。
水瀬のムラの突出した豊かさと、それを支える樟の姫神の存在は、次第に周囲の豪族たちの関心を引くようになっていた。ある者はその力を利用しようと近づき、ある者はその豊かさを妬み、そしてまたある者は、得体の知れない神の力を不気味なものとして警戒した。
ある時、隣のムラの使者が、タケオミのもとを訪れた。表向きは友好の挨拶だったが、その言葉の端々には、水瀬のムラの富と、姫神の力に対する探るような響きが込められていた。
「タケオミ殿のムラは、まこと豊かですな。これも全て、樟の姫神様のお力とか。一度、我らが長にもその御利益を賜りたいものですな」
タケオミは、その言葉に隠された野心を感じ取りながらも、穏やかに応対した。
「姫神様は、この杜と、この地に生きる者をただ静かに見守っておられるだけ。特別な御利益など、滅相もございません」
使者は意味ありげに微笑むと、早々に引き上げていった。
その夜、タケオミは再び瑞葉の社を訪れた。
「姫神様…近頃、よからぬ風聞が耳に入ります。このムラの平和を脅かそうとする者たちが、姫神様のお力に目を付けているやもしれません」
瑞葉は、樟の枝を揺らす夜風の音に紛れて、静かにタケオミの言葉を聞いていた。彼女の瞳には、いつもの静けさに加え、ほんのわずかな憂いの色が浮かんでいるように見えた。
(また、繰り返されるのか…人の欲望というものは…)
ヒコとの別れの原因となった、人の争い。その記憶が、瑞葉の胸を重くする。
彼女は、タケオミに直接的な助言を与えることはできない。神の介入は、時として人の世の理を歪めてしまうことを、永い経験から学んでいた。
しかし、タケオミを見つめるその眼差しには、彼と、彼が守ろうとするムラへの深い慈しみと、そしてこれから起こるであろう試練に対する、静かな覚悟が込められているように見えた。
水瀬のムラの周囲には、いつしか不穏な空気が漂い始めていた。
遠くの山々からは、時折、戦支度をするかのような物音が聞こえ、夜には怪しげな松明の光がちらつくこともあった。タケオミは、ムラの男たちを集め、見張りを強化し、杜の周りにも簡素ながら柵を巡らせ始めた。
瑞葉は、その様子を静かに見守りながら、自らの聖域である杜の結界を、より一層強く張り巡らせていた。彼女にできることは、この杜と、ここに逃げ込んでくる者たちを守ることだけ。
だが、その守りが、やがて訪れる嵐のような厄災の前で、どれほどの意味を持つのか。
瑞葉の心には、かつてないほどの重圧と、そして言いようのない不安が静かに広がっていた。