第三話:常磐木(ときわぎ)の鎮魂歌
歳月は、時には穏やかに、時には荒々しく過ぎていった。
ヒコとサキの間に生まれた二人の子供たちは、杜の恵みとムラの人々の愛情を受けて健やかに育ち、上の男の子は父の背中を追いかけるようにたくましく、下の女の子は母の優しさを受け継いでいた。水瀬神社と人々が呼ぶようになった瑞葉の社は、今ではムラの暮らしに欠かせない心の拠り所となり、祭りも年に数度行われるほどになっていた。瑞葉の力も、人々の信仰と共に増し、聖域である杜の中では、より明確にその姿を現し、ささやかな奇跡を起こすこともあった。しかし、その力をもってしても、人の世の大きな流れを変えることはできない。
その頃、ムラ々の間では、土地や水を巡る争いが絶えなかった。遠くの大きな国が力を伸ばし、その波紋がヒコたちのムラにも及ぶようになるまで、そう時間はかからなかった。
ある日、ムラの男たちが、武器を手に集められることになった。ヒコもまた、その中にいた。家族を守るため、ムラを守るため、彼は戦うことを決意したのだ。
その日、神社にやってきたヒコの顔には、いつもの朗らかさはなく、覚悟を決めた男の険しさと、愛する家族を残していくことへの深い苦悩が刻まれていた。サキは、涙を見せまいと気丈に振る舞っていたが、その白い顔は不安にこわばり、子供たちは、父のいつもと違う雰囲気に怯え、その衣の裾を固く握りしめていた。
「おねえ…行ってくらあ」
ヒコの声は、低く、絞り出すようだった。
瑞葉は、言葉もなく、ただじっとヒコを見つめた。その瞳には、幾百年もの間に幾度となく繰り返されてきた、避けられない別れの予感が、暗い影となって落ちていた。
「必ず、けえってくる。サキと、子供たちのためにも…そして、おねえに、また顔を見せにくるためにも」
ヒコはそう言うと、瑞葉の前に深々と頭を下げた。それは、幼い頃からの感謝と、そして無事を祈る、切実な願いが込められた一礼だった。
瑞葉は、そっと手を伸ばし、ヒコの肩に触れようとした。だが、その指先は虚しく宙を切り、力なく下ろされる。言葉にならない想いが、胸の奥で渦巻いていた。
(…気をつけて。どうか、無事で…)
声に出すことはできなかった。ただ、その強い願いだけが、瑞葉の全身から発せられているかのようだった。
出立の日。
ムラのはずれまで、サキと二人の子供たち、そしてムラの女子供たちが見送りに来ていた。瑞葉は、誰にも気づかれぬよう、杜の奥、樟の梢から、その光景をじっと見つめていた。
ヒコは、一度だけ振り返り、サキと子供たちに力なく微笑みかけると、迷いを断ち切るように前を向き、他の男たちと共に荒涼とした戦場へと向かう道を歩み始めた。
サキは、声を殺して泣き、小さな子供たちの手を強く握りしめている。子供たちは、父親の背中が小さくなっていくのを、ただ黙って見つめていた。やがて、その姿が見えなくなると、サキはついにその場に崩れ落ち、子供たちも声を上げて泣き始めた。
瑞葉は、その場を動くことができなかった。胸が張り裂けそうなほどの痛みに、ただ耐えるしかなかった。幾百年を生きてきても、この悲しみには慣れることなどできない。
ヒコが戦地へ赴いてから、サキは毎日欠かさず、二人の子供を連れて瑞葉の社へお参りに来るようになった。わずかな木の実や初穂を供え、深く頭を下げて、夫の無事を一心に祈る。その姿は、瑞葉の心を締め付けた。
瑞葉は、そんな彼女たちの姿を、社の奥から、あるいは樟の梢から、ただ息を殺して見守り続ける。姿を現すことはできない。今の彼女には、それが精一杯だった。
(ヒコ…どうか、この人たちの元へ…)
瑞葉もまた、サキと共に、ヒコの無事を祈り続けた。
そして、ある嵐の夜。
社の奥で静かに座していた瑞葉の全身を、鋭い衝撃が貫いた。それは、遠く離れた場所からの、生命の叫び。魂の慟哭。
(…ヒコ!)
瑞葉は、弾かれたように立ち上がった。その瞳に、かつてないほどの強い光が宿る。杜の中にいる限り、彼女の神力は穏やかに保たれている。だが、この聖域を一歩でも越えて力を振るうことは、今の瑞葉にとって、自らの存在を揺るがしかねないほどの大きな負担を強いる行為だった。それでも、迷いはなかった。
彼女は深く息を吸い込み、その全ての意識を一点に集中させる。そして、長年蓄えてきた神力を、ただ一点、ヒコの魂の叫びが聞こえる遠い戦場へと向けて解き放った。それは、瑞葉の魂の分身とも言える意識体を、杜の結界を越えて送り出すという、まさに禁忌に近い行為。彼女の本体は社の奥深くに留まりながらも、その存在の根幹を揺るғаすほどの激しい消耗を覚悟しての、決死の行動だった。魂の一部だけが、嵐の闇を切り裂いて戦場へと向かう。それは、彼女にとって、幾百年の孤独の中で初めて見出した温かい絆を守るための、最後の祈りにも似た行為だった。
風雨が吹き荒れる、血と泥の匂いが立ち込める戦場。
ぬかるみの中で、ヒコは倒れていた。胸には敵の矢が深々と突き刺さり、夥しい血が流れ出している。もはや、助からないことは明らかだった。薄れゆく意識の中で、彼の脳裏に浮かぶのは、サキの笑顔、子供たちの無邪気な顔、そして…幼い頃から自分を見守ってくれた、不思議な「おねえ」の姿。
「サキ…みんな…すまねえ…」
か細い声が、彼の唇から漏れた。
その時、ふっと、ヒコのそばに、陽炎のように瑞葉の意識体が揺らめき現れた。雨に濡れ、泥に汚れた戦場にあって、その姿だけが、どこかこの世のものならぬ儚くも清浄な光を放っているように見えた。実体を持たないその姿は、触れることすら叶わない。
「…おねえ…」
ヒコは、朦朧とする意識の中で、瑞葉の姿を捉えた。夢を見ているのだろうか。だが、その冷たくも優しい眼差しは、紛れもなく、いつも自分を見守ってくれていた「おねえ」のものだった。
瑞葉は、静かにヒコのそばに膝をつき、その泥にまみれた手を、そっと握ろうとした。しかし、その手は実体を持たず、ただヒコの手に重なるだけだ。それでも、ヒコには、確かにその温もりが伝わったような気がした。
「…ヒコ」
その声は、嵐の音にかき消されそうなほど小さかったが、確かにヒコの耳に届いた。
「きて…くれたんだな…」
ヒコの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
瑞葉は、何も言えなかった。ただ、彼の最期を見守る。幾百年の間に、幾度となく繰り返してきた、魂の旅立ちの儀式。だが、ヒコのそれは、あまりにも重く、そして悲しかった。
やがて、ヒコの呼吸が浅くなり、その瞳から光が消えていく。
「…安らかに、ヒコ」
瑞葉は、そう囁くと、彼の魂が、迷うことなく安らかな場所へ旅立てるように、静かに祈りを捧げた。
その瞬間、瑞葉の意識体は急速にその輪郭を失い、まるで霧が晴れるかのように希薄になっていった。杜の結界を越えて力を振るった代償は想像を絶するものであり、彼女の魂は、生命の糸が切れかかったかのように弱々しく、杜の社へと強制的に引き戻されていく。
嵐は、いつしか止んでいた。雲の切れ間から、冷たい月光が差し込み、戦場に横たわる無数の亡骸を静かに照らし出していた。
社の奥で、瑞葉は深い昏睡から覚めたかのように、かろうじて目を開けた。全身の感覚が麻痺し、指一本動かすことすらできない。視界もぼやけ、周囲の音も遠い。ヒコの最期を看取るという、たった一度の聖域外での力の行使が、彼女の存在そのものを危うくするほどのダメージを与えていた。人に姿を見せるどころか、意識を保つことすら困難な状態だった。
それから数年間、瑞葉は杜の奥深くで、ただひたすらに力を蓄えるしかなかった。
その間も、サキは子供たちを連れて、毎日社へお参りに来ていた。ヒコの無事を信じ、ひたすらに祈り続ける。
「父様、早く帰ってきてください」
幼い子供たちの無邪気な声が、瑞葉の耳に痛いほど響く。
瑞葉は、その姿を、ただ息を潜めて見守るしかなかった。ヒコの死を伝えることもできず、ただ、彼らが捧げる祈りを、虚しく受け止めるだけ。その無力感と罪悪感が、彼女の心を苛んだ。
(ごめんね、サキ。ごめんね…伝えられなくて…)
瑞葉の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、幾百年の時を生きる神が流した、初めての涙だったのかもしれない。
やがて、ムラにもヒコの戦死の報が届いた。
サキと子供たちの悲しみは、計り知れないものだった。それでも、彼女たちは、互いに支え合い、懸命に生きようとしていた。
瑞葉は、少しずつ回復してきた神力で、ようやくぼんやりとした人の形をとれるようになった頃、サキたちがヒコのささやかな墓標に花を供える姿を、遠くから見守った。
声をかけることはできない。今更、何を伝えられるというのだろう。
ただ、彼女にできるのは、残された家族が、悲しみを乗り越え、強く生きていけるように、静かに、そして力強く見守り続けることだけ。
ヒコとの絆は、彼の死によって途絶えたわけではない。それは形を変え、今、彼の愛する家族へと繋がっている。瑞葉は、その細くも確かな絆を、これからも守り続けていくのだろう。
夕暮れの光が、サキと子供たちの後ろ姿を、そして遠くに見えるヒコの墓標を、黄金色に染め上げていた。それは、悲しみの中にも、確かな希望の光を宿しているように見えた。
瑞葉は、その光景を、胸に深く刻み込む。
常磐木のように、変わることなくこの地に立ち続け、人々の営みを見守ってきた神。その瞳には、幾百年の哀しみと、それでもなお消えることのない、人間への深い慈愛が静かに揺らめいていた。