第二話:祝いの茜(あかね)
あれから、十数年の歳月が流れた。
ヒコと初めて出会った頃、まだ瑞葉の存在は、ムラの人々にとって漠然とした「杜の何か」でしかなかった。しかし、ヒコが瑞葉のことを話したり、杜で不思議な体験をした子供たちの噂が広まったりするうちに、人々は次第に樟の大木に宿るものの存在を意識し始めた。やがて、誰からともなく小さな祠が建てられ、ささやかな供物が捧げられるようになった。人々が祈りを捧げるたび、瑞葉の力は少しずつ増し、彼女が宿る樟の杜は、より清浄な気に満たされるようになっていった。
そして今、瑞葉が宿る樟の周囲には、粗末ながらも屋根のある社が建てられ、ささやかながらも「お祭り」と呼べるような集いも行われるようになっていた。ムラの人々は、この杜の神を「樟の姫神」などと呼び、豊作や息災を願って手を合わせる。瑞葉自身も、かつてはおぼろげだった実体がより鮮明になり、聖域の中であれば、ある程度自由に姿を現し、物に触れるだけでなく、人々の小さな病を和らげたり、失せ物を探し当てたりする程度の「御利益」をもたらすことができるようになっていた。それでも、その姿は十三、四の少女のままで、瞳の奥の静けさと哀しみは、増した神力とは裏腹に、深まっているようにも見えた。
ヒコは、もう「ひこ」と舌足らずに呼ばれる幼子ではなかった。
背丈は瑞葉よりも高くなり、日に焼けた肌とたくましい腕は、ムラでも頼りにされる働き手の証。その目には、幼い頃の純粋さを残しながらも、厳しい自然の中で生きる者の知恵と力が宿っていた。
それでも、彼は時間を見つけては、変わらず杜の瑞葉を訪ねた。
「おねえ、変わりないか」
そう声をかけるヒコの眼差しは、幼い頃の瑞葉への全幅の信頼に加え、どこか彼女を敬い、大切に思う気持ちが込められているように感じられた。瑞葉は、言葉少なに応じ、ただ静かに彼の話に耳を傾ける。昔のように無邪気に衣の裾を掴むことはなくなったが、二人の間には、言葉にしなくても通じ合う、特別な絆が確かに存在した。
その日、ヒコは、いつになく改まった様子で杜にやってきた。手には、朝露に濡れた、色鮮やかな山百合の花束を抱えている。そして、彼の隣には、少し恥ずかしそうに俯く、ヒコと同じくらいの年の娘が寄り添っていた。手織りの麻布で作った簡素な衣をまとい、その優しい瞳には、ヒコへの深い愛情と信頼が映し出されている。
「おねえ…あのな、今日は、おめえに会わせたい人がいて…」
ヒコは、少し照れくさそうに、しかしきっぱりとした口調で切り出した。瑞葉は、ただ静かに二人を見つめている。その表情はあまり変わらないが、瞳の奥には、微かな驚きと、それ以上の温かい光が灯っているように見えた。
「こっちは、サキ。…おらと、一緒になるだ」
ヒコの言葉に、サキと名乗った娘は、さらに顔を赤らめ、瑞葉の前に深々と頭を下げた。
「サキ、と申します。ヒコからは、いつも『おねえ』様のことを伺っておりました。どうぞ、よしなにお願いいたします」
その声は、鈴を転がすように澄んでいた。
瑞葉は、ゆっくりと頷いた。
「…サキ」
その声は、いつものように静かだったが、どこか祝福の響きを含んでいるように聞こえた。
瑞葉は、サキの顔をじっと見つめる。その瞳には、ヒコへの真摯な想いと、慎み深い優しさが溢れていた。
(よかったな、ヒコ)
心の中で、瑞葉はそう呟いた。幼い頃、泥だらけで自分の衣の裾を掴んでいたあの小さな手が、今、こんなにも頼もしくなり、そして大切な人を守ろうとしている。その成長が眩しく、同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。それは、喜びと、そして自分だけが時の流れから取り残されていくような、ほんの少しの寂しさ。
ヒコは、瑞葉に山百合の花束を差し出した。
「これは、サキと二人で摘んできたんだ。おねえに、一番に見てほしくてな」
瑞葉は、その花束をそっと受け取った。朝日に輝く白い花びらが、清らかな香りを放っている。
「…綺麗だね」
瑞葉の唇から、自然とそんな言葉がこぼれた。
サキは、瑞葉が花を受け取ってくれたことに安堵したのか、ほっとしたように微笑んだ。その笑顔は、まるで野に咲く花のように素朴で、美しい。
三人は、しばらくの間、言葉少なにお互いを見つめ合っていた。
ヒコとサキの間には、初々しい愛情と、未来へのささやかな希望が満ち溢れている。瑞葉は、その二人を、まるで我が子の成長を見守る母親のような、それでいて、どこか遠い存在のような、複雑な眼差しで見つめていた。
(この幸せが、どうか、永く続きますように)
それは、神としてではなく、ただ一人の「おねえ」としての、心からの願いだった。
やがて、ヒコとサキは、名残惜しそうに杜を後にした。
「おねえ、また来るよ。今度は、サキと二人でゆっくりとな」
ヒコがそう言うと、サキも「また、お話を聞かせてくださいませ」と優しく微笑んだ。
瑞葉は、二人の後ろ姿が見えなくなるまで、黙って見送っていた。その手には、ヒコとサキがくれた山百合の花束が、しっかりと握られている。
夕焼けが西の空を茜色に染め上げ、杜の木々を黄金色に照らし出す。それはまるで、二人の門出を祝うかのようだった。
瑞葉は、受け取った花束を、粗末な社の祭壇に供えた。
そして、一人、樟の根元に腰を下ろし、目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、初めて出会った頃の、小さなヒコの姿。そして、今日の、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに隣の娘を紹介する、たくましい若者の姿。
(大きくなったな、ヒコ…)
その唇から、言葉にならないため息が、白い煙のようにこぼれた。それは、寂しさだけではない。確かな安堵と、そして未来への祈りが込められた、温かいため息だった。
それから数年が経ち、ヒコとサキの間には、二人の子供が生まれた。上の男の子はヒコにそっくりな腕白盛りで、下の女の子はサキに似て愛らしい笑顔を見せる。
晴れた日の午後など、サキは時折、二人の子供を連れて杜の社の近くにやってくるようになった。ヒコがムラの仕事でいない時だ。
瑞葉は、樟の深い影や、社の奥まった場所から、その母子の姿をそっと見守っていた。決して姿を現すことはない。ヒコがいない時、彼女はただの「見えざる杜の神」だった。
サキは、子供たちにムラの古い言い伝えを話したり、一緒に木の実を拾ったり、時には疲れて木陰でうたた寝をする子供たちを優しい眼差しで見守ったりしていた。その穏やかで幸せそうな光景は、瑞葉の心に温かな灯をともすと同時に、どうしようもない孤独感を呼び起こす。
(ヒコの、家族…)
瑞葉は、その光景から目を逸らすことができなかった。幼い子供たちのはしゃぐ声、サキの柔らかな歌声。それは、瑞葉が決して手にすることのできない、人の世の温もりそのものだった。
時折、上の男の子が、ふと瑞葉がいるであろう方向に視線を向けることがあった。何かを感じるのだろうか。だが、瑞葉は息を殺し、決してその存在を悟らせない。それは、ヒコとの間にだけ存在する、特別な繋がりを壊したくないという思いと、そして、これ以上人の世の幸せに深く触れることへの恐れからだった。
夕暮れが近づき、サキが子供たちを連れて帰っていく。
「さあ、父様が帰ってくる前に、おうちに帰ろうね」
その言葉を聞くたび、瑞葉の胸はきゅっと締め付けられる。
幾百年を生きる瑞葉にとって、人の一生は瞬きのようなもの。それでも、その一瞬一瞬に咲く、人の想いの美しさ、そして家族という絆の温かさを、彼女は誰よりも強く感じていた。だからこそ、その輪に入れない自分の存在が、ひどく寂しく、そして切なかった。
茜色の光が薄れ、夜の帳が下り始める。
瑞葉は、静かに目を開けた。その瞳には、いつもの哀しみに加え、ほんの少しだけ、柔らかな光が灯っていた。
ヒコとその家族の幸せを願う気持ちが、彼女の孤独な心に、小さな温もりと、そして深い寂寥感をもたらしていた。
それでも、彼女は明日もまた、この場所で、彼らを見守り続けるのだろう。それが、彼女にできる唯一のことだから。




