第一話:小さき手のぬくもり
陽の光が木々の間から柔らかく差し込み、鳥のさえずりが森に満ちる頃。まだ人の往来もまばらな、深い緑に包まれた聖なる杜。その中心にそびえ立つ、天を突くような樟の大木。その根元、木漏れ日が揺れる場所に、瑞葉は静かに佇んでいた。
白い、麻を粗く織ったような簡素な衣をまとい、その姿は十三、四の少女と見紛うばかり。だが、その黒曜石のような瞳には、この杜と共に幾百年もの時を重ねてきた、深い叡智と、人知れぬ寂しさが宿っている。
彼女はこの樟から生まれ、自我を持ってから幾星霜。ようやく人の形をまとい、この聖域の中であれば、おぼろげながらも物に触れることができるようになったばかりだった。
その日、杜の静けさを破って、小さな足音が近づいてきた。
現れたのは、土と汗にまみれた、四つか五つほどの男の子。短い髪を額に垂らし、くりくりとした大きな瞳が、好奇心いっぱいに杜の奥を覗き込んでいる。近くのムラの子だろうか。一人でここまで来たのか、親らしき者の姿は見えない。
男の子は、瑞葉が宿る樟の、苔むした大きな根に興味を示したのか、よちよちと駆け寄った。だが、次の瞬間、木の根に足を取られ、派手に顔から転んでしまった。
「ふえぇぇん!」
額を擦りむいたのだろう、甲高い泣き声が杜に響き渡る。
瑞葉の姿が、ふっと男の子のそばに現れた。まだおぼつかない実体は、陽光の下では少し透けて見えるかのようだ。
屈み込み、その泣きじゃくる顔を覗き込む。その瞳には、いつもの静けさに加え、ほんの少しだけ戸惑いの色が浮かんでいた。
「…痛かったのう」
囁くような、それでいて澄んだ声。瑞葉がそっと擦りむいた額に手をかざすと、樟の葉がそよぐような、心地よい気が流れ、不思議と痛みが和らいだかのように、男の子の泣き声が少し小さくなる。
瑞葉は、近くにあった大きな葉を取り、それで優しく泥を拭ってやった。その手つきは、どこかおぼつかないけれど、温かい。
男の子は、しゃくりあげながらも、目の前の美しい少女をじっと見つめている。その冷たいようでいて、どこか優しい眼差しに、いつしか涙も止まっていた。
瑞葉は、男の子が落ち着いたのを見計らい、そっと立ち上がろうとした。これ以上、関わるべきではない。人の子の成長はあまりにも早く、その度に胸を締め付ける痛みを知っているから。
しかし、男の子は、瑞葉の衣の裾を、小さな手でしっかりと掴んでいた。
「…おねえ、だあれ?」
舌足らずな声で、男の子が尋ねる。その真っ直ぐな瞳に、瑞葉は一瞬言葉を失った。
「…」
名乗るべき名を持たない。ただ、この杜にいるだけの存在。
瑞葉が答えられずにいると、男の子は構わず、にぱっと笑った。
「おら、ヒコ! おねえ、あそぼ!」
屈託のない笑顔。その瞬間、瑞葉の心の奥底で、永い間閉ざされていた何かが、ほんの少しだけ緩んだような気がした。
それからというもの、ヒコと名乗る男の子は、毎日のように杜にやってくるようになった。時にはムラの大人たちに隠れて、時には他の子供たちを出し抜いて。
「おねえ! きょうはなにしてあそぶだか?」
ヒコは、瑞葉を見つけると、子犬のように駆け寄り、その衣の裾を掴んで離さない。瑞葉は、言葉少なに応じ、ただ黙ってヒコの遊び相手になった。
一緒に杜の落ち葉を集めて小さな塚を作ったり、色鮮やかな木の実を拾って見せ合ったり。瑞葉は決して自分から何かを教えたり、導いたりすることはしない。ただ、ヒコがやりたいことを見守り、時折、危なくないようにそっと手を貸すだけ。彼女のかすかな力は、ヒコが転びそうになるのをほんの少し支えたり、手の届かない木の実をそっと落としてやったりする程度だったが、ヒコにとってはそれが魔法のように感じられた。
ヒコは、瑞葉の隣で、飽きることなく色々な話をした。ムラでの出来事、捕まえた虫のこと、昨日見た夢のこと。瑞葉は、ただ静かに耳を傾ける。その表情はあまり変わらないけれど、ヒコの話を聞いている時の彼女の瞳は、ほんの少しだけ柔らかく、優しい光を帯びているように見えた。
時折、ヒコが遊び疲れて、瑞葉の膝の上でうとうとと眠ってしまうこともあった。まだおぼつかない実体ではあったが、ヒコが寄りかかると、不思議と温もりを感じる。そんな時、瑞葉は、その小さな寝顔を、慈しむような、それでいてどこか切なげな眼差しで見つめる。その小さな手に触れたい衝動を抑え、ただ静かに、その温もりを感じていた。
(このぬくもりも、いつかは…)
そんな思いが胸をよぎるたび、瑞葉はそっと目を伏せる。
それでも、ヒコが「おねえ、おねえ」と自分を呼ぶ声は、不思議と心地よかった。数百年の孤独の中で、忘れかけていた感情が、少しずつ蘇ってくるような感覚。
ある日、ヒコが小さな赤い実を手に、瑞葉の元へ駆け寄ってきた。
「おねえ、これ、うまいぞ! あげる!」
それは、杜の奥で見つけた木苺だったが、ヒコにとってはとっておきのご馳走なのだろう。
瑞葉は、その実をそっと受け取った。
「…ありがとう」
本当に久しぶりに、心の底から言葉が出たような気がした。
ヒコは、瑞葉が実を受け取ってくれたのが嬉しくて、満面の笑みで瑞葉の周りを飛び跳ねている。
その屈託のない笑顔を見ていると、瑞葉の唇にも、ほんの僅かだが、柔らかな笑みが浮かんだ。
(この日々が、いつまでも続けばいいのに)
そんな叶わぬ願いを、瑞葉は初めて心の中で強く思った。
だが、同時に知っている。人の子の成長は、瞬く間に過ぎ去り、そして必ず別れの時が来ることを。
それでも今は、この小さき手のぬくもりと、自分を「おねえ」と呼ぶ無邪気な声を、もう少しだけ、感じていたい。
夕暮れ時、ヒコがムラの大人に呼ばれて帰っていく。
「おねえ、またあしたな!」
手を振りながら去っていく小さな背中を、瑞葉はいつまでも見送っていた。
その瞳には、慈しみと、そしていずれ来る別れを予感する、深い哀しみが静かに揺らめいていた。
樟の葉が、さわさわと音を立て、まるで瑞葉の心を慰めるかのように、優しく彼女を包み込んでいた。