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千年神楽(せんねんかぐら)〜さみしがり屋の神様は叶えたい~  作者: 輝夜
そして今:さみしがり屋の神様は叶えたい

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縁日の影、神様の吐息


蝉の声が遠のき、空の高さに秋の気配が漂い始めた週末。古くからこの土地を見守る水瀬みなせ神社は、年に一度の例大祭で、朝から人の波と熱気に満ちていた。色鮮やかな幟旗のぼりばたが風に舞い、参道には香ばしい匂いを立ちのぼらせる屋台がひしめき合う。子供たちの甲高い笑い声、威勢のいい呼び込み、そして遠く響くお囃子の音が、渾然一体となって空気を震わせていた。年末年始には身動き一つ取れないほどの参拝客でごった返すこの神社も、今日の賑わいはそれに次ぐものだ。


そんな喧騒のただ中にありながら、本殿の脇、天を衝くようにそびえる御神木――樹齢二千五百年を数えるくすのきの深い影の中だけは、時が止まったかのように静寂が支配していた。

瑞葉みずはは、そこにいた。

白い狩衣かりぎぬのような簡素な着物をまとい、濡れたような黒髪を背に流す姿は、十三、四の少女のそれ。けれど、陽光を弾く白い肌と、人形めいた整いすぎた顔立ちには、どこかこの世のものならぬ冷たい美しさと、千数百年以上もの間、無数の人々の喜びと悲しみ、出会いと、そしてあまりにも多くの別れを見つめてきた、計り知れないほどの深い静けさが宿っている。彼女の瞳は、全てを見透かすようでいて、その実、何もかもが遠い過去の残像のように映っているのかもしれない。


不意に、瑞葉の視線が、金魚すくいの屋台の前で微かに揺れた。派手な法被の男が客を捌くのに忙しい中、小さな女の子が一人、赤いポイを握りしめたまま、わっと泣き出したのだ。おそらく、母親とはぐれたのだろう。心細げに震える幼い肩。祭りの喧騒は、そんな小さな悲鳴をいともたやすく飲み込んでしまう。


次の瞬間、瑞葉の姿は、まるで陽炎が揺らめくように御神木の影からふっと消えていた。そして、泣きじゃくる女の子のすぐそばに、音もなく現れる。

少女の前にそっと屈み込み、その小さな顔を覗き込む瑞葉の瞳に、ほんの一瞬、遠い昔の誰かの面影を追うような、複雑な光が灯る。

「…大丈夫」

囁くような、それでいて芯のある声。女の子は驚いて顔を上げた。目の前には、見たこともないほど綺麗な人が、自分と同じ目線で見つめている。瑞葉は、その小さな手にそっと触れた。温かい。その刹那の温もりに、千数百年前の、忘れ得ぬ手の感触が蘇り、胸の奥が微かに疼く。

瑞葉は、女の子が先ほど母親と指差していた方向を、白い指で静かに示した。そこには、キャラクターのお面を売る屋台があった。

「あ…」

女の子は泣き止み、こくりと頷くと、瑞葉の手を離れ、母親の元へと駆け出す。その小さな背中を見送る瑞葉の指先が、微かに宙を彷徨う。もう少しだけ、その温もりに触れていたいと願う心が、彼女を引き留めようとするのを、永い経験が静かに押しとどめる。

「おかあさーん!」

母親が娘をきつく抱きしめた時には、瑞葉の姿はもうどこにもなかった。

「きれいなおねえちゃんがね、おしえてくれたの」

女の子の言葉に、母親は「そう、親切な人がいたのね、よかったわね」と微笑み、軽く周囲に会釈する。


御神木の影に戻った瑞葉は、再び喧騒を眺める。その唇の端に、ほんの微かな、誰にも気づかれぬほどの寂しげな笑みが浮かんだかのように見えたが、すぐにいつもの静謐な表情に隠れる。

(…よかった。でも、また、行ってしまうのだな)

心の中で、そっと呟く。その声は、幾度となく繰り返された出会いと別れの、諦念にも似た響きを帯びていた。指先に残る微かな温もりが、愛おしくも切ない。


しばらくして、射的の屋台から歓声が上がった。若い男女が、大きなクマのぬいぐるみを手に喜び合っている。微笑ましい光景だ。しかし、その直後、女性がふと顔を曇らせた。バッグを探り、辺りを見回す。

「…ない!鍵、落としちゃったみたい…」

青ざめる女性。男性も慌てて周囲を探し始めるが、人混みの中では小さな鍵など見つかりそうもない。


瑞葉は、まるで風が木々の葉を揺らすように、その二人のそばを音もなく通り過ぎた。その刹那、女性の足元、踏み固められた土の上に、キラリと光るものがあった。古びた神社の絵馬の形をしたキーホルダー。彼女の力は、この聖域の中では些細な「運」を動かす程度のことなら、もはや息をするように自然に行える。人々の信仰を集め、神としての格を上げた今の彼女にとって、それはごく僅かな力の行使に過ぎない。

「あっ!あった!よかったぁ…」

女性が歓声をあげ、それを拾い上げる。二人は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げた。さっきまで、そこには何もなかったはずなのに。

「誰か拾って置いてくれたのかな?」「ラッキーだったね!」

彼らはすぐに気を取り直し、ぬいぐるみを抱えて次の屋台へと向かう。瑞葉は、その弾むような背中を、ほんの少しだけ優しい眼差しで見送る。その眼差しには、喜びを分かち合いたいという淡い願いと、それが叶わぬことへの、長い年月が生んだ静かな諦めが滲んでいた。

(その笑顔が、曇らないようにね)

心の中で、そう願う。その眼差しには、多くの出会いと、それ以上の別れを見届けてきた者だけが持つ、深い慈愛の色と、拭いきれない人恋しさが影のように落ちていた。人波に紛れ、彼女の姿はすぐに儚い影のように消えた。


陽が西の空を茜色に染め、境内には提灯の明かりが灯り始める頃。

特設舞台では、地元の子どもたちによるお囃子の奉納演奏が始まっていた。笛や太鼓の音が、祭りの賑わいを一層盛り上げる。その中で、ひときわ小さな体で懸命に横笛を吹いている少年がいた。しかし、演奏の途中、彼の笛に取り付けられていた赤い組紐が、ぷつりと切れかかっているのに瑞葉は気づいた。このままでは、演奏中に笛が手から滑り落ちてしまうかもしれない。少年自身も気づいているのか、額に汗を滲ませ、顔がこわばっている。


誰も気づかない、ほんの一瞬。瑞葉の姿が舞台の袖、観客の視線からは完全に死角となる位置に現れた。彼女は、まるで繊細な織物を扱うかのように、細く白い指先を宙に伸ばす。指先が切れかかった組紐に触れたか触れないかの刹那、赤い紐はまるで最初からそうであったかのように、しっかりと繋ぎ合わされていた。この程度の「繕い」ならば、彼女の永い経験と蓄積された力をもってすれば、瞬き一つする間もなく行える。

少年は、手に伝わる感覚の変化に一瞬驚いたが、すぐに気を取り直して演奏を続けた。力強い笛の音が、滞りなく境内に響き渡る。無事に演奏を終え、万雷の拍手を受けた少年は、ほっとした表情で舞台袖に下がった。先ほど、袖に誰かいたような気がしたが、そこには誰もいなかった。

瑞葉は、ただ静かにその場を離れる。その横顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。だが、もし間近で見ることができたなら、その瞳の奥に、遠い昔、誰かのために必死で力を振るった記憶の残滓が、微かな揺らぎとして見えたかもしれない。そして、あの頃とは比べ物にならないほどの力を持ちながらも、結局は「見守る」ことしかできない自分への、静かな諦観も。


陽がとっぷりと暮れ、境内は無数の提灯の灯りに彩られ、幻想的な雰囲気を醸し出している。屋台の灯り、人々の話し声、笑い声。昼間の喧騒とはまた違う、夜の祭りの賑わいがそこにはあった。

瑞葉は、いつもの御神木の影に戻っていた。

数えきれないほどの人々の笑顔、感謝の声。それは瑞葉に直接向けられたものではないけれど、確かに彼女の存在がもたらしたものだ。しかし、その賑わいの中にいればいるほど、彼女の胸の奥底には、言いようのない空虚感が広がっていく。それは、永すぎる時の中で、何度も味わってきた、満たされない渇望にも似ていた。触れたい、でも触れられない。その繰り返しが、彼女の心を静かに、しかし確実に蝕む。

これほどの力を持っていても、人の心に直接触れることは許されない。あるいは、自らそれを禁じているのかもしれない。かつて、あまりにも深く関わりすぎた故の、痛みを伴う教訓として。


ふと、瑞葉の視線の先で、小さな女の子が父親に肩車をされ、満面の笑みで夜空を指差していた。父親は娘の言葉に耳を傾け、時折高い高いをしては、娘の歓声に目を細めている。その幸せそうな光景から、瑞葉は目が離せない。

彼女の白い指先が、まるで無意識のように、そっと宙に伸ばされようとした。まるで、その温かな光景に触れようとするかのように。しかし、指先が虚空を掴む寸前で、はっとしたように動きを止め、ゆっくりと自身の袖の中に隠された。その瞬間、彼女の瞳が微かに揺らぎ、唇をきゅっと結ぶ。それは、遠い昔、誰かの小さな手を握った時の、忘れられない温もりの記憶が鮮烈に蘇ったかのようだった。そして、その温もりが、あっという間に自分の手から離れていった時の、あのどうしようもない寂しさも。

(どれほどの時が過ぎても、この痛みは消えぬものか…)


(また、一つ、祭りが終わる。たくさんの灯り。たくさんの、温もり…そして、私はまた、一人)


人々が楽しげに肩を寄せ合い、語り合いながら行き交う。その無数の背中を、瑞葉はただじっと見つめている。その小さな後ろ姿は、ひどく頼りなげで、世界の喧騒からたった一人取り残されてしまったかのように、物悲しく見えた。その瞳は、楽しげな人々を映しながらも、どこか遠く、手の届かない温もりを焦がれるように見つめているかのようだった。


祭りの喧騒もそろそろ終わりに近づき、屋台が店じまいを始める頃。

一人の少年が、ふらりと神社の境内に入ってきた。高校生くらいだろうか。手には何も持たず、お祭り目当てというよりは、何かを探しているような、あるいはただ静かな場所を求めているような雰囲気を醸し出している。少年は、ゆっくりと境内を見渡し、ふと、瑞葉がいる御神木のあたりに目をやった。


その瞬間、木々の深い緑の影の中に、白い着物のようなものが揺らめいた気がした。まるで、そこに誰かが立っているかのように。

「…え?」

少年は思わず足を止め、目を凝らす。だが、瞬きをした次の瞬間には、もうそこには何も見えなかった。ただ、風にそよぐ木の葉が、影を揺らしているだけだ。

「……気のせい、か」

少年は小さく呟き、少し不思議そうな顔をしながらも、そのまま本殿の方へと歩を進めた。そして、賽銭箱の前に立ち、静かに手を合わせる。何を願ったのか、それは誰にも分からない。


やがて、最後の参拝客も見送られ、祭りの後の静寂が、ようやく境内を包み込んだ。屋台も片付けられ、あれほど人でごった返していた参道も、今は嘘のように静まり返っている。

瑞葉は、拝殿の濡れ縁にそっと腰を下ろし、高く澄んだ夜空を見上げた。煌々と輝く月が、境内を淡く照らし出している。

指先に残る、ほんの僅かな温もりの記憶。それが、彼女にとっては何よりも代えがたい宝物であり、同時に、胸を締め付ける切なさの源でもあった。


ふと、遠くから、小さな子供の笑い声と、それを優しく包み込むような母親の声が聞こえてきた。祭りの帰りだろうか、小さな男の子が母親の手をしっかりと握り、今日の出来事を一生懸命に話している。母親は時折相槌を打ちながら、慈しむような眼差しで我が子を見つめている。男の子が何か面白いことを言ったのか、二人は顔を見合わせて楽しそうに笑った。その姿は、月明かりの下で、温かな光の輪郭を描いているように見えた。


瑞葉は、その親子の姿を、じっと見つめていた。

その瞳は、まるで硝子玉のように透き通っているのに、今にも涙が一粒こぼれ落ちてしまいそうなほど、潤んでいるように見える。唇は固く結ばれ、何かを堪えるように微かに震えている。

彼女の視線は、母親に甘える子供の無邪気な笑顔に、そしてその手を優しく握り返す母親の温かい手に、釘付けになっていた。

それは、瑞葉が焦がれてやまない、けれど決して手の届かない温もり。まるで、ほんの少しだけ触れることを許された温もりが、すぐに自分の元から去ってしまうことを、幾度も、幾度も経験してきたかのように、彼女はただ、その光景を目に焼き付けようとしていた。

強大な力は、時に無力だ。人の心の温もりだけは、どんな力をもってしても手に入れることはできない。


やがて、親子の姿は闇の中に消えていく。

瑞葉は、彼らが去った後も、しばらくの間、その方向をじっと見つめていた。

その小さな背中は、月明かりに照らされて、一層頼りなく、そして深い孤独を纏っているように見える。

彼女の唇から、言葉にならない、か細いため息が、白い煙のようにふわりとこぼれ落ちた。それは、千数百年もの孤独と無数の別れを抱える、さみしがり屋の神様の、声にならない叫びにも似ていた。

そして、いつかまた誰かと出会い、心を繋ぐことへの、諦めきれない淡い期待を、その潤んだ瞳の奥に秘めて、ただ静かに月を見上げていた。

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。

さみしがり屋の神様、瑞葉みずはの物語、いかがでしたでしょうか。


賑やかなお祭りの喧騒の片隅で、人知れず小さな奇跡を起こす彼女。

その瞳に映る景色、胸に秘めた千年の想いの一端を、少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。


私たちは日々、たくさんの人とすれ違い、時には短い言葉を交わし、そしてまた別れていきます。瑞葉にとって、それはあまりにも永く、そして数えきれないほどの繰り返しかもしれません。

それでも、彼女が誰かのためにそっと手を差し伸べるのは、その心の奥底に、消えることのない人の温もりへの渇望と、優しい眼差しがあるからなのだと思います。


もし、あなたの身の回りでふとした幸運や、誰かのさりげない親切に出会ったなら。

もしかしたらそれは、瑞葉のような存在が、すぐそばで見守ってくれているのかもしれませんね。


この物語が、皆様の日常にほんの少しの温もりと、見えないものへの想像力を添えることができたなら、書き手としてこれ以上の喜びはありません。


瑞葉の旅は、まだ始まったばかり。

彼女がこれからどんな時代で、どんな人々と出会い、どんな想いを紡いでいくのか。

またいつか、どこかで、その物語をお届けできる日が来ることを願って。


改めて、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


~かぐや~

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