引退勇者と愛しの子猫(単話版)
浴びた水を適当に拭って、肩を回しながら小屋に戻ると、黒い子猫がぴょんぴょんと跳ねていた。
勝手に忍び込んでくる小さな獣は、壁に立てかけてある黒い剣が気に入っているようだ。くあ、と欠伸をしながら、子猫を足で遮って剣を革の鞘に収めた。
不満げな鳴き声があがる。
「うるせぇよ、危ねえだろっと」
大きな手で子猫を掴んでソファに放る。
子猫は腹立たしそうにソファに爪を立てたが、すでにボロボロの座面だ。今更気にしない。お好きに、とひらひら手を振って、貯蔵庫から適当な食べ物を漁った。
干し肉がある。美味いものでもないが、これでいい。
ソファに戻り、今度は子猫を手で押しのけて、どかりと座った。
村からは離れた森の中、小さな木造りの二間の家だ。煤けた廊と貯蔵庫と、外には井戸と小さな畑。食事をとるのも寝床もこのソファだ。
誰にも侵されない小さな王国。
男はようやく手に入れたちっぽけな暮らしに、今日も安堵する。
てし、てし。
ソファの背面によじ登った子猫が、顔にじゃれついた。
「んだよ、お前干し肉嫌いだろ」
試しに顔の前に差し向けても、ぷいと横を向く。
ちっと舌打ちして放置すれば、今度はざりりと頬を舐められた。伸ばしっぱなしの髭をかけ分ける小さな舌に、ひゃっと叫ぶ。
「まさか髭剃れって言ってるのか?」
子猫は首を傾げてから、薄青の目で床を見て、また首を傾げた。
戸口から室内のあちこちに残る水の跡を指摘された気がした。
「……すぐ乾くさ」
とは言ったものの、やけに落ち着かない。
やれやれと立ち上がって猫の食べものを探し出したその背後で、子猫がぴょんとソファから飛び出しーーくるりと宙返りした。
現れたのは、長い黒髪の美しい、妙齢の女だ。
振り返って女に気がついて。
あっと叫ぶや、男はすべてをソファに投げ出し、風のように外へと飛び出して行った。
ほんの数分後、服の合わせを閉じながら戻って来た時には、髭は綺麗に剃られて、髪はひとつに結ばれていた。眠たげだった目元は柔らかな皺を寄せて笑み、それなりの魅力を放っている。
「やあまた来てくれたのか、魔女殿。俺の剣なんかが見たいんだっけ? それはいくらでも見てもらっていいけどさ、今日は珈琲でも淹れさせてよ」
いそいそと動く男の背中を、魔女は半眼にした薄青の日で静かに見ていたが。
ふと口を尖らせた。
「さっきの方がいいのに」
そして小さな舌をぺろりと出した。
子猫をぞんざいに扱うのに手つきが優しいおじを描きたくて!!!
Xで企画をお見かけしたのに締切を過ぎていて正式参加できずだった短編です。
企画は南雲様の#匿名短文プチ企画 「無精髭のぶっきらぼうオッサン短編」です。素敵オッサンがたくさんいるよぉ……!
そしてこの勇者の子猫のお話もう一つ書きました。
「引退勇者と愛しの子猫2」
https://ncode.syosetu.com/n1169jn/
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