文化による視角差
『歴史探偵 大友宗麟』の回を見ていて驚嘆したところがある。それはポルトガルの図書館の光景だ! もう、床から天井までの、しかも吹き抜け二階の高さにまで壁一面に置かれた本棚の圧倒的外観。
そしてそこから持ってきた資料が、昔ながらの英語の辞書以上の厚みで、絶対大きさはA3以上のやたらデカイ本。これをめくるとビッシリと文字が書いていて、「ルイス・フロイスはこう書いてます――」だとか、解説するわけだ。もう、正直心の中で平伏した。
文化だ。ヨーロッパの文化の深さというものに圧倒された。これだけの文化背景を持ったヨーロッパが、世界に出ていった時に「自分たちに比べて、未開な連中ばかりだな」と思ったのは仕方ない、と感じた。
無論、日本にも文化はあった。結構、高度の。それだからこそ、アフリカの人たちのように、奴隷にならずに済んだんだろうとは思う。文化ってのは何かといえば、つまりどれだけ獣から遠ざかっているか、という事だ。
建物、衣服、文字と書物、料理など文化の指標となるものは幾らでもある。その全部が優れて複雑であり、高度な洗練性を持っていれば、「この人々は文化的だ」と見做される。日本は、たまたまそうだった。
とはいえ、やはり日本も近代化以前は未開な野蛮の土地でしかなかった。その感じをよく描けてるのが『ふしぎの国のバード』だ。とにかく衛生状態が悪い、昔の日本をよく描いている。まあけど、本当のバードはあんないい人じゃない。
やはり当時のヨーロッパ人らしく、「上から」日本を見て、見聞記を書いている。この「上から」目線は、文化による視角差から生まれるものだ。そして今、この「上から」の視線を書いているのが、『転生もの』だ。
転生ものは現代人が、魔法とかあるものの中世ヨーロッパ風の社会に転生する。いわば、現代人に比べれば未開人だ。主人公はその「上から」目線の優位性を維持して、その世界をサバイブする。考えてみれば、このような視角に立つのは、昔は必ず欧米人だった。それを日本のサブカルチャーが、実現している……。この無自覚な優位性は、危うさも伴っている。と思う。




