『疑うこと』は何処へ行った?
昨今、跋扈してる闇バイト犯罪で、関わった少年たちにいきさつを訊くと、「だって、ホワイト案件ってあったから」と答える。これについて生島ヒロシのラジオ番組で残間里江子が、「若い子って、どうしてすぐ信じちゃうんでしょうね? 私たちなんか『ホワイト案件』とかってあったら、むしろブラックだと思うでしょ?」と言っていた。
まあ、それはちょっと思わないでもない。まったく余談だが、これを書くために調べるまで、音だけで聴いてた僕は『だんまりえいこ』という名前のタレントか何かだと思っていた。そしたらアナウンサー経験がある文筆家、プロデューサーみたいな74歳の人だった。……いや、けどその年代の人も、結構、詐欺に引っかかってるよね?
けど、『疑う』って事はそれなりに大事な事で、それより『信じる』ことの方が大事だ、みたいな風潮に流されすぎてるかもしれない。けど、以前は『疑う』ことも大事だと歌われてたのだ。なんか黒夢の清春が誕生日だったらしくて、ラジオで特集してた。その中でかかった『少年』の一節では
『誰の真似より誰の言葉より 疑う事 疑う事』
と歌っている。BOφWY(φじゃないんだけど、出し方が…)の『マリオネット』でも、疑う事について歌っている。
『疑うことを いつからやめたのさ』
ちょっと前までは大人は汚くてずるくて騙すもの、というコンセンサスが成立していたのだ。だから反抗するし、疑うのだ。それが重要だし、格好よくもあったのだ。
もはや過去の話だが、ポストモダンというのは懐疑の思想運動だったと言ってもいい。例えば法律や、会社のルール、学校、病院など、そういう「正しい」として成立している制度に、男性中心主義やキリスト教的宗教観、権力者の支配が歴史的に隠ぺいされている。それを「正しい」ものとして受け取るのではなく、懐疑して『解体する』それがポストモダンという運動だった。今は「アベさんがなんとかしてくれる」とか思ってた人が多すぎるかもしれない。




