8話 飛べなくなった鳥は、白虎の頭に着地する
「厳しい選抜訓練を耐え、よくぞ100人の中から選ばれてくれたね。飛鳥翼君。我が日ノ本家を代表して、君を歓迎するよ」
「恐縮です。旦那様」
私は立派な口ひげを蓄えた、日ノ本家当主『日ノ本獅童』様に恭しく頭を下げる。
「娘が高校から新しいメイドをつけてほしいと我儘を言いだしてね。今回、緊急に募集をかけさせてもらった訳なんだが」
クッション性の良さそうな椅子の背もたれにドシッと身を預けながら、手元の資料をご覧になる。
「君の成績は、大変優秀であったと各指導官からも連絡を受けているよ。琥珀は少し気難しいところのある娘だが、君ほどの人材ならばやっていけるだろう。よろしく頼む」
柔らかな物腰の中に、圧倒的な威厳を込めて旦那様がそう仰った。
「誠心誠意務めさせていただきます」
「うむ。契約内容や実際の業務内容については、執事長を務めさせている九十九里に聞いてくれたまえ。それでは下がっていいよ」
「はい。失礼いたします」
1時間以上にも感じた僅か5分にも満たない面談が終わり、アタシは旦那様の書斎から退室する。
ふかふかの赤い絨毯が敷かれた廊下では、初老に手が届くか届かないかといった風貌の、日ノ本家執事長九十九里さんが、にこやかにアタシを待っていた。
威圧感を放ちまくりの旦那様の後では、こんな作られた笑顔でさえとてもありがたく感じる。
「お疲れ様です、飛鳥さん。それでは私についてきてください。契約の詳細説明と契約書へのサイン。それからメイド長への引き合わせ。君が専属でついてもらう琥珀お嬢様へのご挨拶をして頂きます。それらが済んだら、今日は休んでいただいて結構ですので」
「わかりました」
足音ひとつ漏らさない絨毯を堪能しながら、九十九里さんの後について歩く。
大きな窓から入りこんでくる、ギミック月の優しい明りが、アタシの傷つきっぱなしの心に塩のように染み込んできて発狂しそうだ。
通うことはないと思っていた高校に通わせてもらえる。タワーの外の仕事では信じられないくらいの給料が貰える。なによりアタシが住んでいた町が貧困から救われる。
アタシの残りの人生を、全て日ノ本家に捧げる程度の代償など安いものだろう。家族や町の人たちにとってはだけどね。
アタシの叶えることのできなくなった夢なんて、他人にとってはゴミクズ同然。
もっとも、もともと叶えるのが無謀で無茶な夢ではあったのだけれど。
九十九里さんの執務室で雇用条件の再確認、それからメイド長渋谷さんに引き合わされ、明日以降のスケジュールの確認。
それらを終えたアタシは、今度は渋谷さんの案内で、私が専属でお仕えすることになる、琥珀お嬢様の部屋へと連れて行かれる。
初めて琥珀お嬢様にお会いした時の驚愕は、今でも忘れられない。
私の夢を片手間でも叶えられそうな存在が、そこにはいたからだ。
鼻筋の通った凛とした顔立ち。艶のある美しく流れるような黒髪。ファッションモデルもかくやといった見事なスタイル。
億を越える額の絵画ではないかと思わされる佇まいだった。
「ご苦労だったな。渋谷は下がっていいぞ。飛鳥と2人で話がしたい」
彼女は一瞬だけアタシに心配そうな視線を寄越すが、すぐに一礼して部屋を出ていく。
扉の閉まる音が、コンポから流れ出るクラッシックの厳かな演奏に溶けると、ソファーに腰をかけて本を読んでいらしたお嬢様が、スラリと伸びた白い足を組んで私をまっすぐに見つめる。
「飛鳥は3年間の高校生活を終えた後のことは聞いているか?」
アタシは唐突に語り始めた琥珀お嬢様を見つめ返し、しっかりと頷く。
「はい。三年後の私の雇用権が、旦那様からお嬢様に移譲されると伺っております」
「そうだ。私は高校卒業後に短大に進学し、短大卒業後は風御門家に輿入れすることが決まっている。お前には私と共に風御門家に移籍し、そのまま私の世話を継続してもらうことになるな」
これはタワー内の上流階級では、特に珍しい話ではないそうだ。
他家のしきたりになれない若奥様と、若奥様の気性などがわからない嫁ぎ先の使用人たちとの繋ぎ役として機能させることを目的としているらしい。
「単刀直入にきくぞ、飛鳥……いや翼。お前は日ノ本家から、私から自由になりたいか?」
琥珀お嬢様の目が、スーッと細まり、まるで鋭利な刃物のように鋭くなる。
その目に捉えられたアタシは、虎に睨まれた小鳥の如く、身動きひとつ、呼吸ひとつできなくなった。