2話 将来と現在。闇に塗りつぶされるのはどちらが先か
午後の授業も終わり、帰りのホームルームが終わると、アタシは速やかに帰宅の準備を始める。
と言っても、琥珀お嬢様の通学・帰宅時の護衛を務める旭山さんに、授業が終わったことを知らせるラインを入れ、お嬢様お世話セットが私の大きなバッグにきちんと収められているかを確認してから、琥珀お嬢様の背後霊として存在すればいいだけだ。
ちなみにタワー都市内の学校は、アタシが中学校まで通ったタワー外の学校と違い、生徒による清掃はないので、下校時刻がずれることはまずない。
「お嬢様、旭山に下校の旨、連絡いたしました。このあとはお屋敷での学習以外のスケジュールはございませんが、まっすぐお帰りになりますか?」
「う~ん、そうだな。ぬいぐるみショップに寄っていきたい。そろそろあの子たちの兄弟を増やさねばな」
アタシは顔がひきつりそうになるのを懸命におさえる。
ああ、ぬいぐるみがまた増えるのか。天日干しなどの管理をするのはアタシなんだけどな。
まぁ、琥珀お嬢様の数少ない癒しのひとつだから仕方ないか。
アタシはスマホを手にした右手を琥珀お嬢様に見えないように背中にまわし、『琥珀お嬢様、ぬいぐるみショップ立ち寄り予定あり』と日ノ本家使用人グループラインで伝達する。
これだけで統率のとれた日ノ本家の使用人たちは、状況に適した行動をとってくれるんだ。それにしても、画面を見ずに片手で一字一句間違えずに入力できるようになった自分が、ほんの少し恐い。
「今日も一日お疲れさまでした」
琥珀お嬢様の隣の席に座る亀ちゃんが、心底幸せそうに労いの言葉をかけてくる。悩みがなさそうでなによりだ。
「ああ、甲太郎君も疲れさま。今日も帰って孫子の勉強か?」
「はい! 応用の仕方は時代時代で変わりますから、孫氏の兵法の勉強に終わりはありません」
うっとりとした表情で言うその姿は、はっきり言って気持ち悪い。
ふたりが孫氏の兵法談義をしながら教室をでる。もちろんアタシは黙ってそれに従う。
そんなアタシの耳に、見送るクラスメイトの声が届いてくる。
「日ノ本様、またあの人と一緒に帰られるのね」
「琥珀さんとお近づきになれてもなぁ」
「嫁ぎ先に失礼だと思わないのかしら?」
「嫁ぎ先も名家だからな。恐いものなんてないんだろう」
心無い誹謗中傷のような呟き。
アタシの耳まで届くということは、おそらく琥珀お嬢様の耳にも入っているだろう。
にらみつけるくらいのことはしてやりたいが、アタシは琥珀お嬢様の友達ではなく使用人だ。琥珀お嬢様が何も言わない以上、アタシはあの人たちに注意ひとつするわけにはいかない。
亀ちゃんと楽しそうに会話している笑顔の裏側には、いま、いったいどんな感情が渦巻いているのだろうか?
お嬢様になったことのないアタシには、全く想像もつかない。
名家出身で、能力も高く、人柄においても尊敬を集めている琥珀お嬢様。
それにも関わらず、その将来にだけは、敬意を払われない。
ただ、一生苦労することはないのだろうと、根拠のない想像によりうらやましがられる。
そんな風に温かみのない視線を、廊下でも時折感じつつ、アタシ達は正面玄関を後にした。
だが玄関からでたところでお嬢様の足がとまる。
「……甲太郎君、翼。朝から気にはなっていたんだが、やはり今日は、なんだかいつもより太陽が暗くないか?」
「やっぱり、日ノ本さんもお気づきになっていましたか。
登校時に言いましたが、今日は下層から中層へのエレベーターも、エスカレーターも、飛鳥さんのような大荷物を持った人達で込み合っていました。今日はなんだかタワー全体の様子がおかしい気がします」
「そうなのですか? 正直なところ、私にはわかりません。いまだにこれが作られた空だと信じられないくらいですから」
琥珀お嬢様がなるほどと頷いた。
「そうか。翼は本当の空を知っているのだったな」
「うらやましいですよね~」
「そんな良いものではないですよ。晴れている時なんて滅多にありませんし、空気は臭いし、食べ物は美味しくないし、犯罪は多いし」
しまった。久しぶりに思い出したせいか、思わず本音がダダ漏れになった。
ただ、二人はアタシの言葉に苦笑するだけで、口に出してはなにも言わず、造られた空をまた揃って見上げる。
太陽もあり、雲も見える。これが全て造られたものだなんていまだに信じられない。
ギミック太陽の光線の温かみは心地よく、時折風まで吹いてくる。もしもアタシが眠っている間に連れて来られていたら、ここが巨大タワー都市『蒼穹』の内部だと、気づくことはなかったかもしれない。
考えてみれば、ふたりはこの空しか知らないんだ。
だからこそ気づいたのだろうか?
いつもの空と違うと。
アタシのように、空の様子など毎日違うものだなどという記憶を持たないからこそ気づける違い。
そんな風に考えていると、突然この『蒼穹』と呼ばれる世界が、初めて完全な闇に包まれた。