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F川奇譚  作者: 三塚日月
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文吉狐とお郷狐

※県立D大学(旧・D女子大学)武澤研究室による、F川周辺における狐譚の聞き取り調査に基づく。採録は昭和四十九年七月から五十三年二月に行われた。

 文吉狐は女房に逃げられたんでさ。

 いくら音に聞こえた色狐といっても、化け勝負にばかりかまけてちっとも帰ってこねえ。

 そんな亭主に愛想を尽かしたお郷狐は、ある日巣穴を飛びだした。

 あなたとはもうコン生のお別れよ、って。


 請うて嫁にもらった恋女房だ。文吉はもちろん追い縋る。お郷はざんぶと河に飛び込んで泳ぎだした。文吉もすかさず鮎に化けてすいすいーって追えば、お郷は笹の葉に化けて流れに乗ってさあっとだ。文吉は焦って、海には羽の生えた魚がいたっけって――え? F川みたいな山んなかでどうして飛び魚を知っていたかって? なにせ文吉狐は伏見にまで上がった偉い狐だからねえ、なんでも知っていたのさ――そうして、魚の身に羽を生やしてピョーイと飛びあがる! 細い飛び魚の身体が陽光にピカッと光って、お郷は思わず化けの術を解いてそれに見惚れた……。


 ここでやめときゃ良かったんだ。

 でもねえ、文吉狐の悪いところは、化け勝負好きとお調子乗りの引き際の悪さ。女房との化け比べが楽しくて、もっとすごいところを見せたくて、空中で更にひと化けした。一人二役の大化けだ。


 そうして、お郷の目の前で、飛び魚はトンビにかっさらわれた――!


 文吉!

 それが文吉の術だとも知らず、お郷は悲鳴を上げて空へと前足を伸ばした。

 だから、前を見てなかったんだよ。流れの先にある、大きな滝をね。

 文吉が元に戻ったときにはもう手遅れさ。

 お郷は滝壷に呑まれたっきり、毛の一本も浮いてこねえ。


 お郷が死んじまった。

 おれのせいでお郷が死んじまった。

 そう声を枯らして泣く文吉狐に、しばらくは誰も声をかけられなかったそうだ。


 親分、あそこに滝なんかありませんでしたぜ、ってね。


(F川字三浦 S井修治郎、自宅にて)


 ***


 滝壷に化けた女房に煙に巻かれて、そのまま逃げられた文吉狐。

 あれに懲りて生きかたを改めたかといえば、相変らず化け比べに明け暮れる始末。

 おれがこのへんで一等化けのうまい狐なんだから、いずれお郷のほうから頭を下げて戻ってくるはずだって強がって。いえ、本気で思っていたのかもしれませんけれど。


 そんな秋のある日、文吉があの大楠さんのうろで目を覚ますと、腹のあたりが妙に温かかった。んんっ?と思って腹に目を遣れば、ふわふわ綿毛みたいな、そして、白い珠のように美しい仔狐が自分にくっついてすうすう眠っている。

 これはお郷とおれの仔だ。

 お郷が仔を産んで戻ってきたんだ。

 文吉は仔狐を起こさないよう静かにうろを抜けると、境内を見渡した。だが、愛しいお郷の姿はどこにも見えない。

 おい、お郷。

 お郷!

 ……もうちょっと嬉しそうな言いかたがあるだろうって思いますけど、まあ文吉も逃げられた身でちょっと悔しさもあり。出戻り女房を許してやる、ぐらいの態度を取りたかったんでしょうね。

 お郷、いるんだろう。

 こんなべっぴんの狐、おれとお前の仔以外にないだろう。

 返事がないが、気配はある。

 そうだ、女房はきっと、化けてどこかに隠れてやがる。

 あの日、滝壺に化けておれを騙したみたいに。

 そう思った文吉はまずは手近な大岩を嗅いだ。落ち葉を嗅いだ。落ち葉の横のどんぐりを嗅いだ。

 でも、お郷がうまく化けすぎて、すぐには見つからないんだよ――。


 文吉は見栄っぱりだから、わからないとはいえない。

 お郷も意地っぱりだから、ここにいるとはいえない。

 あててごらんよ。

 そう一言言ってだんまりだ。


 お郷は、自分を探す文吉を見て何を思ったんでしょうね。

 ああ、自分はこの人、いやこの狐に本当は愛されてるって――?

 それとも、この狐は、やっぱり私がいないとだめだ、って――?

 女房の匂いもわからないのか、このへぼ亭主って腹をたてていたのかもしれないって――?

 さあねえ……。


 まだお郷は正体を明かさない。

 まだ文吉はお郷を見つけられない。

 だから、文吉狐は偉くなってもF川から出ない。人間が増えて居心地の悪くなってもF川から出ない。いつも山をうろつきまわって、葉っぱやどんぐりをふんふん嗅いで、恋女房を探している。いつしか娘のお徳狐も後ろをくっつきまわって、同じようにふんふんやるようになった。お徳は時々、顔を上げて風に鼻をふんふんさせて、機嫌良さそうに鈴のような声で鳴いている。でも、誰もまだ、あれらの狐が三匹で歩いているところを見たことはない。


 ただ、どんな日照り続きの夏もどんな凍える冬も、あの親子狐だけは飢えなかったって話です。


(F川字三浦 S井たつ江、自宅にて)

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