秘めたる想いは憂いのうちに【1】
いつもご覧いただき、誠にありがとうございます。
副題に苦悩する今日この頃……
言葉を選ぶためには知らなきゃ選べませんね。
【2020/8/1:修正】他の投稿と合わせるために改行と文体に手を加えました。
今日は、朝から雨が降っていた。
どんよりと暗く重い雨雲は昼過ぎになっても晴れることはなく、雨はひたすらに不規則な間隔で窓を叩いている。
そんな中で、窓に打ち付ける雨音を、ただ意味もなく聞いていた。
私は、逃げてしまった。あの人から。
「はあ……」
思い出しただけでも、自分の不甲斐なさに溜め息が出てきてしまう。
居間のソファに座りながら、テーブルに置かれたティーカップを手に取り、口に運ぶ。
せっかくリリカが淹れてくれた紅茶だったけれど、すでに温くなっていた。
(人前で旦那の顔面叩くって、どれだけ自己中心的なのよ、私……)
あの時。コップから溢れだす水のように、感情と衝動を止めることができなかった。
そして脳裏にはオリバーの顔が、掌には平手打ちした感覚が今でも残っている。
(どうして、こうなっちゃったのかな……)
宮廷へ赴いたあの日。
衝動に任せてしまったあとの私は、逃げるように部屋を飛び出し、宮廷にいるはずの伯母さまを人伝に探した。
そして伯母さまに事情を話し、そのまま伯母さまのタウンハウスへ帰ってきたのだ。
あとから聞いたことなのだが、私が宮廷に入ったときに持っていた許可証の署名は、王太子殿下の直筆だったらしい。
だから、宮廷へ入るときも伯母さまを探したときも、見せた役人全員の対応が迅速だったのかもしれない。
てっきりあの人が書いたものだとばかり思って、ろくに書面の確認をしなかった私は、それを知ったとき自分が仕出かした愚かな行為を後悔した。
昔から、一度こうだと思ったら、そのまま深く思い込んでしまう癖がある。そのせいで修道院時代もよく失敗して、から回っていた。
だからきちんと状況を把握、整理、確認して慎重に行動するようにと院長先生からも散々言われてきたことだったのに……
「だって……」
誰に言うでもなく、言い訳の言葉が口からこぼれた。
しかしこれは言い訳にもならない。今回の件で悪いのは完全に私の方だ。
日に日に募る後悔を窓の外の景色と重ねる。
その時、部屋にノックの音がした。
「……どうぞ」
私の返事のあとに部屋の扉を開けて入ってきたのは、伯母さま――マリアンナ=ベルタ・デルフィーノだった。
「ヴェロニカ」
灰色を基調としたスーツに身を包み、まるで男性の出で立ちの如く佇む伯母さまは、腰まである栗色に染められた長い髪を揺らしながら私のいる窓辺まで歩み寄ってくる。
「昼食もまともに摂っていないと、リリカが言っていたぞ。体調でも悪いのか?」
腕を組みながら溜め息をつくそのやや男勝りな口調も、最初出会ったときは驚いたけれど、今ではもうすっかり慣れていた。
「ごめんなさい。あまり喉を通らなくて」
伯母さまに苦笑を返して、その顔色を窺う。
タウンハウスに戻ってきてから三日。
伯母さまは最初にいくつか訊いてきたものの、それからは腫れ物を扱うように何も訊いてはこなかった。
もうそろそろ何か言われるかもしれない。
案の定、伯母さまは溜め息を一つ吐いて、テーブルを挟んだ向かいのソファに腰を掛けながら私に言った。
「それならば仕方がないが……一体、いつまでここにいるつもりだ?」
「……」
私は視線を下に移して返事を濁す。
わかっているのだ。私の勘違いが状況を悪化させていることくらい。
ここに逃げ込んできてから毎日、ニコラスが屋敷まで訪れてきていた。
王太子殿下直筆の許可証を私に『オスカーから』だと伝えた彼が、一体何を伝えたいのか。それを聞けば、少しは胸にある重いもやが晴れるかもしれない。
けれど実情、ニコラスと面会してはいない。
別に真実と向き合うのが怖い訳ではなかった。それ以上に、今は何も考えたくなかったのだ。
一度向き合おうとした心が折れて、疲れてしまったのかもしれない。自分のことなのに、半ば自棄になっている自分がいる。
「夫婦喧嘩は犬も食わないというが、そろそろ腹を割ってむこうと話したらどうだ?」
「……話すと言っても、あの人が何も言ってくれないんだもの」
伯母さまは諭すように正面からまっすぐと私の瞳を見つめていた。
「とは言ってもな。そもそも、お前の話に出てくる婿殿の相手というのに、お前は会ったことがあるのか?」
「それは……ない、けど」
言葉は濁ってしまったが、確かに寝室で見つけたあのペンダントは私宛てではなかった。
今に至っても、ペンダントの持ち主が誰なのかわかっていない。
押し黙っていると、伯母さまは溜め息を吐いた。
「お前は本当に顔はアネット似だが、性格はロベルト似だな」
「お父さんと? どんなところが?」
「変に意地っ張りで妙に行動派なところ」
「……誉めてないですよね、それ」
「そんなことはないさ。弟の忘れ形見にその面影を感じられて嬉しいんだよ」
ティーカップを口に運ぶ伯母さまの口許は静かに笑っていた。
「……私、伯母さまの迷惑になってますよね」
私の父ロベルト=クレオ・デルフィーノは、私の母アネット=ブレア・ラマンティと一緒になるために、生家である侯爵家の跡取りという立場や家族を捨て家を出た。
そしてそのあとに残された伯母さまは、侯爵家の後継ぎとなることを強いられ生きてきたのだ。
侯爵の爵位を継ぐまでにも、色々とあったと聞いている。
それに加え、両親を亡くした私を引き取っても、ろくに出世の道具になっていないときた。
結婚一週間で離婚したいと喚く、面倒この上ない姪だ。
気付けば、伯母さまの手が私の頭をポンポンと撫でていた。伯母さまと同じくらいに長い母譲りのプラチナブロンドが優しく揺れる。
伯母さまの声は優しく、記憶の中の母を思い出した。
「そうしょげた顔はするな。どんなことがあっても、私はお前の味方だよ」
「……ありがとうございます、伯母さま」
唯一の肉親の温もりが、心と目尻に広がるのを感じた。
「まあ、お前の気がすむまでここにいればいい、と言いたいところだが……」
頭上から手が退けられた。そして妙に歯切れが悪い伯母さまに、私は顔を上げる。
「以前話した離婚の件だが――」
以前とは、呼び出された時の話だろう。期待で顔を上げたが、そのあと告げられた言葉に耳を疑った。
「離婚は難しいって、どういうことですか? 伯母さま」
「お前たちの結婚立会人は、誰だか覚えているか?」
質問を質問で返すという伯母さまらしからぬ発言に戸惑うも、素直に覚えていることを口にする。
「え、ええ。確か、グレスバルト=ルナティウス=フォン・クウェステリア――って、あれ?」
式の当日、私たちの調印のあとに立会人として現れた大柄な男性は、確かそんな名前だった。
なんでも法務大臣でもあり、オリバーの直属の上司だとは聞いていたが、クウェステリアというこの国を冠する姓について、はたと思考が止まる。
「王弟殿下だ」
「……はいっ!?」
予想もしない人物の登場に自分でも目が丸くなったのがわかった。
「正式には王位継承権は放棄されていて、クウェステリア公爵と姓を改められているがな。
立派な王党派の方だ。何も覚えてないとは言わせんぞ。デビュタントボールでも陛下の次に御挨拶しただろう」
「だって、あの時は緊張していて……」
確かに、国王陛下夫妻に御挨拶はした。
けれど、あの時の私はまだ田舎から出て来て数ヶ月。両陛下の肖像画の刷り絵ですら、隣町の大きな教会にしかなかったのだから、他の臣下の方々の顔なんていちいち覚えてなんていられるわけがない。
「そんなわけで、離婚沙汰になれば、立会人である王弟殿下、ならびに陛下の面目丸潰れになる、というわけだ」
理屈はわかるが、理解ができなかった。なぜ、一臣下のプライベート云々で陛下の面目が潰れるのか。
私の疑問が顔に出ていたのか、伯母さまはティーポットから注いだ紅茶を一口含んでから答えた。
「とまあ、これは建前だ。実を言うと、私の立場上、そうしたくはないというのが本音だな」
「侯爵としての立場、ということですか?」
「ああ。一応これでも私は政界の人間だからな。
王党派に属しているために、貴族派連中の多い財務省の中では、ただでさえ『千眼』の名でやっかまれていることもあって、何かと肩身が狭くて思うように動けなくてな。
ここで王権派の主力でもあるクウェステリア公爵と繋がりを持つことで、省内の地位をある程度固めることができるというわけだ」
伯母さまの仕事は国税調査官だと聞いていたけれど、それ以上の詳しいことは知らされていない。
月の半分以上は地方局に出張していることと、その度に『千眼』と言われるほどに研ぎ澄まされた洞察力で違法申告を見抜いているということくらいだ。
「だから公爵の臣下であるエインズワース公爵からの求婚は、侯爵の地位にある伯母さまにとって願ってもないチャンスだった、というわけですね」
そしてそれを反故にするということは、伯母さまにとって百害あって一利なしというわけだ。
伯母さまはただ頷いていた。
「理解が早くて助かるよ」
「それで、ここまで固めた権力を手放すのは惜しい、ですか?」
肩を竦める伯母さまに、つい言葉を選ばずに言ってしまう。
これは、まごうことなき政略結婚だ。まあ、私も伯母さまの出世の道具になることを承知で嫁いだのだけれど。
「お前に偽りを言っても仕方がないだろう。
それにさっきも言ったが、私はお前の味方で、お前の幸せを第一に願っているのは事実だよ。
お前の両親とも約束したからな」
優雅に紅茶を飲む伯母さまの言葉に、嘘はないように感じた。それでも――
(これじゃ、暗に離婚は諦めろ、って言っているようなものじゃない)
「今度、あの若造と話ができる機会をセッティングする。そこで互いに腹を割って話してみなさい」
「違う見方ができることもある」そう付け加えた伯母さまの口調はいつになく優しかった。
「……はい」
宥められているような気分で、選択肢がない答えを口にする。
「そうだな」
伯母さまは早速、日程の候補について口にした。
「本当だったら、舞踏会の前にその機会を設けるべきなんだろうが――」
「舞踏会って、なんのことですか?」
不意に聞こえた単語に、首を傾げる。
私の言葉に伯母さまは一瞬目を丸くしたが、淡々と次の言葉を紡いだ。
「来週宮廷で開かれる仮面舞踏会に決まっているだろう? 結婚している貴族は夫婦で出席するのが常識だぞ」
「……あ」
一瞬で視界が遠くなった。
私の顔を見てすべてを察したのか、伯母さまは頭を抱えながら深い溜め息を吐いている。
「……ヴェロニカ」
ここのところ考えたくないことが溢れすぎていて、すっかり忘れていた。
国王主催の宮廷舞踏会――仮面舞踏会のことを。
本日18時ごろに、次話を投稿するつもりです。
しばしお待ちください。
感想、ご意見等あれば気軽にお寄せください。
それでは、また次回。