25 花の矜持
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あの女がこの館に来たのは、今から十年以上も前のこと。
あたしがここに来た翌年の冬だった。
あの日は大雪が降った次の日で、空気が澄んだ冬晴れだったのを覚えている。
デューツィアが出先で行き倒れを保護したという報せがまず来て、それから運び込まれたのがあの女というわけだ。
あの女の第一印象は、死人のような目をした暗い奴だった。
外見の年齢は、当時のあたしと同じで十六かそれ前後。
身体はかなり細くて、毛布から見える青白くなった肌は本当に凍えているのではないかと思うほど血色を失っていた。
けれどそれよりもあたしが気になったのは、その目だった。
まるで、世界で自分一人だけが不幸であるというような目。
介抱を手伝っていたプリムラは、うわ言でしきりに「ごめんなさい」という言葉を聞いていたそうだが、あの目を見ていると、どうしても腹が立った。
この館にいる連中は、皆が皆好き好んでやって来たわけではない。
身寄りのない者、口減らしのために親に売られた者。大体がそんな事情を抱えていた。
そんなあたしたちのために、デューツィアは時に私財をなげうってまで面倒を見てくれたのだ。
だから、あの女が彼女にさえもあの目を向けるのが腹立たしかった。
とは言え、これはあたしの一方的で身勝手な被害妄想。
ただ、あの女が〝生きている意味がない〞という目をしているのが、どうしても気にくわなかっただけだった。
やがて来た医者からは、雪の中で行き倒れていたという状況、そして全身打撲やら凍傷の一歩手前やらで、生きているのが不思議なくらいだと驚嘆されたらしい。
そしてその女は記憶が混乱しているということもあり、軽い健忘症にかかっているとも診断された。
『……帰る場所は、きっと、どこにもありません』
そう呟く女に、デューツィアは〝リナリア〞という名を付け、落ち着くまではこの館で暮らすようにと言った。
しばらくあいつは館の下働きとして過ごしていたが、ある時から積極的に客や館の嬢たちと話すようになった。
記憶が戻った気配はなかったが、それでも何か前とは違う様子だったのは間違いない。
やがてデューツィアから正式にあいつが〝リナリア〞として館の嬢になることが告げられた。
その頃からだ。あいつがあの暗い目をしなくなったのは。
程なくして館の表に出始めたあの女は、天性の才か、はたまたどこかで仕込まれていたのか、あっという間に客たちの間で噂になり人気嬢となった。部屋持ちにまで上り詰めるのに差して時間は経たなかったと思う。
そして裏では、館の人間でも一部しか知らない、エインズワース公爵が抱える諜報組織の〈風の耳〉の一員として活動をしていた。
あたしがそれを知ったのは、それから約一年後。
あたし自身が〈風の耳〉の一員となった時だった。
自然と、悔しいという感情は湧いてこなかった。
あの女は、そうなるべくしてなる器量と才能を持っていて、それを自分で磨いて手に入れただけだ。
『この世界を、一人でも多く幸せに生きられる場所にしたいの』
〈風の耳〉となって言葉を交わしたあいつからその願望を聞いた時、合点がいった。
この女には、何をやっても叶わないと。
あたしとは見ている世界、見据える未来があまりにも違っていると。
――だからこそ、あいつが客の子供を身籠ったと知った時は驚いた。
避妊はこの業界じゃ当たり前のことでも、ごく稀にそうなってしまう場合がある。
そうなったら、堕ろす奴もいれば産む奴もいる。
そして、あいつは後者だった。
当時、公爵領内の改革で医療機関の支援が改善されていたとはいえ、妊娠していればそれだけで母体には諸々のリスクが高まる。
何より、〈風の耳〉の仕事にも支障を来すのだ。
世界の情勢は刻一刻と変化する。そのなかで最新の情報を得ることができなければ、対応が後手に回り、時には取り返しのつかない状況にもなりかねない。
国内の北方と帝国に関しての情報収集を任されているこの館の一員として、あいつの行動は無責任にもほどがあった。
しかし、デューツィアの説得も虚しく、あいつは頑なに産むと言い張った。
あたしは失望した。
あいつは一体、どこの男に入れあげたのか。
あたしに話したあの願望は、なんだったのか。
一人でも多くの人間のために生きると誓っておいて、結局は一人の女としての幸せを手に入れたかったということだ。
そう思うと、失望は呆気に変わっていた。
結果的にデューツィアが折れ、あいつは男子を出産。数ヵ月経った頃には、嬢の仕事にも〈風の耳〉の仕事にも復帰した。
生まれた子はアルフォンスと名付けられ、館の連中も一緒になって育てることになったが、あたしは「勝手な奴が勝手に産んだ子供の面倒を見るつもりはない」と育児に関することはすべて突っぱねていた。
だからあいつが死んだ時も、あの子が姿を消した時も、あたしは変わらずに過ごしていた。
「――あの、カトレアさん」
不意に部屋の扉がノックされ、開けられた扉の隙間からアイリスが顔を覗かせた。
手には箒を持っているから、言いつけた食堂の掃除はまだ終わっていないようだ。
「なに?」
「えっと、カトレアさんにお客さんが……」
続けて尻すぼみになりながら「き、来てい、ます……」と口にしている。
アイリスは最近この館に来たばかりだが、一瞬で客たちの間で話題になった彼女とは打って変わって大人しく、気も弱そうだった。
「まだ昼の営業前よ? 追い返して」
例え上客だろうと、館のルールには従ってもらわなければこっちが困る。
以前そう教えたと思ったが、それでも、とアイリスが食い下がった。
「そっ、それが……初め女主人をお呼びだったんですが、館の皆さん全員で買い物に行っていて、今カトレアさんしかいないってお伝えしたら、カトレアさんにお会いしたいと……」
溜め息を堪えつつ、立ち上がって準備をする。
「わかったわよ。あんたは営業準備を続けて」
なぜかアイリスの教育係をするようにデューツィアから言いつけられて数日。
自分よりも、もっと適任はいるだろう。プリムラとか。
けれど逆を返せば、それだけデューツィアはあのアイリスに何かを見いだしたということなのだろう。
まだ昼営業も始まっていない一階は、毎夜のどんちゃん騒ぎが嘘のようにとても静かだった。
入り口付近に、客だという二人の姿があった。
一人は白金髪に空色の瞳でアイリスと似たような背格好の少女だった。
年頃もアイリスと同じくらいのように思えたが、身なりは数段上。明らかに場違いな貴族のものだった。立ち姿でさえ貴族令嬢であると伺える。
そしてもう一人は……子供?
少女の背に隠れるように、あたしの視界から消えた影。それにはどこかで見覚えがあった。
「なにかしら? あたしに用って?」
腰に手を当てて質問する。
しかし返ってきた言葉に、あたしは耳を疑った。
「えっと、はじめまして。私はヴェロニカ=エインズワースと申します」
その名前は聞いたことがある。
なんたってあたしら〈風の耳〉の親玉である若き公爵の正夫人だ。
「今日こちらに伺ったのは、私ではなくこの子が……あなたや館の皆さんにお伝えしたいことがあると言っておりまして」
ヴェロニカに促されるように姿を現したのは、あいつの忘れ形見――アルフォンスだった。
ここにいた時よりも随分とましな服を着ている。
「カトレア」
自分の名前を呼ばれた。
その声を聞いて、唐突に思い出す。
あの時もそうだった。
それはあいつが死んで、町の共同墓地へと埋葬したその夜。
「ひとりで眠れない」とあたしの部屋の扉を開けた、あの時と同じだった。
昼間の墓地では我慢していたのか、その頬と目は僅かに赤くなっていた。
慰めてもらうなら他の嬢のところに行けばよいものを、わざわざあたしのところに来たというのが意外で、一瞬呆気にとられてしまう。
「……皆は〝泣いていい〞って言うけど、母さんなら〝泣くな〞って言うと思うから」
先を越されて言われてしまう。
あたしに何を期待しているんだか。
あしらおうとしたものの、なぜだか言葉が出てこなかった。
「……最初で最後だよ」
諦めて短くそう口にする。
いままでろくに言葉を交わして来なかったにも関わらず、あたしのベッドに入ったアルフォンスはすぐに小さな寝息を立てていた。
そして、あたしも休もうとした時。
不意にアルフォンスが寝返りを打ってあたしの胸へと転がってきた。
退かそうと思って手を肩に掛けたが、その頬にうっすらと涙の跡が見えて、その手を止めた。
あたしはこいつの母親にはなれないし、なるつもりもない。
けれど。
自分には生涯持つことはないと決めていた温もりを感じて、気づけば優しく抱き締めていた。
誰に言うでもない、これは気の迷いだ。
確かにあの時は失望したし、呆れもした。
ただ、産まれたアルフォンスを胸に抱いたあいつの表情を見て、心の奥底では良かったと思う自分もいた。
自分のすべてを犠牲にする覚悟で挑んだとしても、自分の幸せを諦めることはしなくて良いのだと理解できたから。
なら、あたしはその可能性を知れただけで十分だ。
そして、名を呼んだアルフォンスへ向けて、あたしは口を開いた。
「あんたの母親は、もうここにはいないのよ。どこへなりと行ったらどうなの?」
「……うん。でもね」
あいつに言っていたような悪態を吐くあたしに、アルフォンスが俯いていた顔を上げた。
「この館の皆は、僕にとって家族には変わりないから……今までお世話になりました」
そう言って、深くお辞儀をする。
「ふん……なによ……」
子供が変な気を遣って。
ちょうどその時、アイリスが蜂蜜酒とりんご水を盆に載せて厨房から出てきた。
こういうところは目敏く、頭が回るようね。
「そんな言葉、あたしに言うより、他の連中に言ってやったら?」
あたしは子育てにまったく干渉して来なかった。
それに、もうすぐ他の館の連中も戻って来る頃合いだろう。
こんな子供一人居なくなったところでわーわー泣いてた連中だ。
今生の別れではないとはいえ、別れの挨拶を聞いたらまた泣くに違いない。
◆
「あっ! アルじゃないの!!」
「アルフォンス!? 元気にしてた!?」
「もう! 急にいなくなるから、皆心配してたんだからね!」
買い物から帰ってきた館の女性陣が、全員でアルフォンスを取り囲みもみくちゃにしていた。
全員、本当に心配していたのだと傍目から見ても一目瞭然だ。
「えっと……! 今日は、みんなに言いたいことがあって来たんだ」
「?」
全員が全員、首を傾げている。
そして、アルフォンスは彼女たちへ向けて大きくお辞儀をした。
昨夜。
目を覚ましたアルフォンスに、私は改めてこれからどうしたいのかを訊ねた。
私たちの想いは、既に伝えている。
でも、もし元いた館に帰りたいのであれば、帰れるように全力を尽くす。そう話したのだ。
そして、ちょうどその時に帰宅したオリバーから、ジョスリンさんの件が解決したと聞いて、アルフォンスの心は決まったようだった。
「僕……ここで母さんと、みんなと暮らせて、とっても楽しかったし幸せでした。
――今まで、お世話になりました!」
「そうかい。行くんだね」
デューツィアがアルフォンスの前に立つ。
「急に居なくなって、帰ってきたと思ったら……。たまには、顔を見せに帰っておいで」
「いいの?」
「勿論。ここはお前が生まれ育った館だ。まあ、そこの公爵夫人がいいって言ったらだけどね」
アルフォンスの不安げな顔がこちらへと向けられる。
「ダメなら、わざわざ一緒に来てないわ」
私がそう答えるや否や、再び女性陣がアルフォンスを取り囲んだ。
「元気でね。アル」
「私たちのこと、忘れちゃイヤよ!?」
「最後にぎゅーってさせて!」
熱烈な送別を一人ひとりから受けているアルフォンスを横目に、デューツィアさんに声を掛けられる。
「あの子、ここにいた時より随分といい顔をするようになったよ。
あんたのおかげと言っておくべきかい? アイリス」
「やっぱり、バレてましたか……」
ブレンドンさまといいデューツィアさんといい、本当に抜け目のない方々だ。
「まあ、あの時は半分うちの者の手違いではあったからね。けどまあ、あんたが公爵夫人とは……人は見かけによらないもんだ。
だが、あたしらの家族を助けてくれたことには変わりない。ありがとう」
私はアルフォンスに視線を向けた。
「きっと、あの子が変わったのは、私の力だけじゃないと思います。
今日のことも、あの子自身がそうしたいって決めて、話してくれたので」
そして。
ちょうど最後の一人との抱擁が終わったアルフォンスに手を伸ばす。
「さあ、私たちの家に帰りましょうか、アルフォンス」
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。
第三部はこれにて完結です。
今後については別途、活動報告内で報告させていただきますので、そちらをご確認くだされば幸いです。




