21 あなたと家族に
「……」
私は屋敷の階段を上がり、その部屋の前に立っていた。
エリーからはオリバーは自室にいると聞いている。
試しに部屋の扉をノックしてみたものの、返事はなかった。
もう寝てしまったのだろうか?
「えっと……ヴェロニカです。さっきのこと、謝りたくて……」
それでも返事はなかった。
(でも……)
私は意を決して扉のノブに手を掛ける。
ゆっくり開いて薄暗い部屋に入ると同時に、冷たい風が足元を抜けた。
その原因は、バルコニーへと続く窓が開け放たれていたからだとわかる。
そして、僅かに揺れるレースのカーテン越しに、夜風に当たっているオリバーの後ろ姿が見えた。
夏場といえどシャツ一枚の薄着姿で、寒くはないのかと心配になる。
私はその後ろ姿に恐る恐る声をかけた。
「……オリバー?」
聞こえているはずなのに、彼からの返事はなかった。
もしかしなくても、怒っているんだ。
当然と言えば当然だ。
呼び出しておいて、勝手に憤慨し、部屋から出ていってしまったのだから。
そう考えると、それに加えて呆れられているのかも知れない。
だとしても、私が逃げていい理由にはならない。
「さっきは、酷いこと言ってしまってごめんなさい。それに一昨日のことでも……あなたには心配ばかりかけてしまって、本当にごめんなさいっ」
頭を下げて、詫び言を告げる。
怒られても呆れられても仕方のないことをしたのは私自身なのだ。
顔を上げてもう一度謝罪をしようと私が口を開きかけたその時、オリバーが振り向いた。
「……」
何も発することなく窓を閉めるその眼差しはとても静かだ。
目線が合っても、そこには私が予想した感情がどちらも含まれていないように感じる。
彼の抱く感情がわからず、何かを訊ねようと言葉を出そうとしても喉から上に声が出てこなかった。
先に沈黙を破ったのは、オリバーだった。
「……君は謝ってばかりだな。いや、そうさせているのは俺の方か」
それは呟くような言葉だった。けれど、彼の口からは確かにそう聞こえた。
予想外の彼の言葉に、私の目は丸くなっていたことだろう。
けれど、向かい合った彼の口からはもっと信じられない言葉が向けられた。
「俺の方も過言だった……すまない。
君のことが心配なのは、俺自身に力がないからだ。
君がどこでどんなに危険な目に遭っていようと、それを除く術を俺は持っていないから。
それに、今回の件で君を不安にさせていることも、君が俺のことを信用できない気持ちになっていることもわかっているつもりだ。
これについては、いずれ必ず話すとしか約束できない。
……君に呆れられても仕方ないことはわかっている。だが以前、己の主神へと誓った言葉に嘘はない。それだけは信じてほしい」
それは以前、〈恵姫〉が奉られている教会で彼が言ってくれた宣誓のことだった。
〝君を生涯幸せにする〞。
「……」
私は数度瞬きをして、今の言葉を自分のなかで反芻した。
その結果、ひとつの答えに辿り着く。
それはずっと簡単で、これまでと変わらないものだった。
この感情は前にも似たようなことを経験している。
それは彼に他の好きな人がいるんじゃないかって勘違いしていたときに抱いた痛みと悲しみにとてもよく似ていた。
あの時よりも胸は痛くないけれど、代わりにくすぐったいような歯痒さが強い。
私は言いたいことを伝えるために、彼の瞳を見上げた。
真っ直ぐな黒曜石の瞳の奥に自分が見える。
「確かに、本当のことを言ってもらえないのは、辛くて悔しいわ。
でも……それでもやっぱり、そう思う以上に、私はあなたのことが好きなの。
私はこれからもずっと、あなたと一緒にいたい。だからこれからも、あなたの隣に……いさせてくれますか?」
些末事と割り切れるほど今の私の人としての器は大きくないけれど、好きという感情よりも優先すべきものではないと判断したのだ。
最後の方の要望になるほど尻すぼみな声量になってしまったのは勘弁してほしい。
「それはこちらの台詞だ。君以外考えられない」
自分で言って気恥ずかしくなった私だったものの、それ以上に返ってきたオリバーの言葉で更に追い討ちを掛けられる。
けれど、そう言う彼の頬も僅かに赤いような気がした。
「抱き締めても?」
私は彼の言葉に小さく頷く。
ゆっくり、そして優しく抱き締められた。
「……あなたの身体、冷えてる」
そんな薄着をしているからと言い掛けて、先に言葉が落とされる。
「君も同じだ。さっきまで外にいたんだろう?」
まさか……私が外にいると知って、バルコニーにいたの?
確かに、ここの窓から庭園は見える位置にあった。
「私は……少し頭を冷やしていただけよ」
「そうか。俺も同じだ」
私の苦し紛れな言葉。
それに彼も乗ってきて、二人で静かに笑い合った。
「……この視察が終わって王都へ戻ったら、折を見て君に本当のことを話す。だがその前に、君はどうしたいか、ここで教えてほしい」
改めて話したいと部屋の明かりを付けて、オリバーと隣り合うと、開口一番にそんな言葉を掛けられた。
「でも、いいの? まだだって言っていたのに」
「君が行ってしまった後、考えたんだ。確かに今はまだ話せないことの方が多いが、それとは別に曖昧なことで君を傷つけたくなかった。だが、それで君を泣かせては元も子もない。
それに、これは君抜きで進めて決めていいことではないから。だからまずは、君自身はどうしたいかを聞かせてほしいんだ」
「〝どうすべきか〞じゃなくて?」
義父であるブレンドンさまが求めているのは、公爵家の名誉と尊厳をどう守るかだ。
ここで私一個人の意見を言ったとして、かえってその目的を果たせないかもしれない。
私の不安を汲んでくれたのか、オリバーは優しく首肯した。
「ああ。今俺が聞きたいのは、どうあるべきかのべき論よりも、君自身の言葉で君自身がどうしたいか。
そして俺にどうしてほしいかだ」
「……」
それは、ずっと心のどこかで避けて考えて来なかったことだ。
「私は――」
今日が領地に滞在する最終日。
部屋に入ってきたブレンドンさまが、開口一番に私たちの間に座るアルフォンスに視線と言葉を投げた。
「ほう。その子も同席させるのか」
「はい。私たちが決めたことを、この子にも聞いてほしいので」
今夜はオリバーには最後の仕事があるというので、ブレンドンさまを交えて話すタイミングは今しかなかった。
「そうか。ならば、答えを聴こう。しかし、我が公爵家の名を貶めるようなものと判断したのなら、それ相応の対応を取らせてもらう」
「父上」
相変わらず威圧感を感じる義父の言葉に、オリバーが口を挟んだ。
「ふん。前にも言ったと思うが、公爵家の名を騙った不届き者がいるという事実と、それをよしとした状況を作り上げたお前たちにも責任がある。
元凶たるその子共々、然るべき制裁を加えねばならないのは必定ではないかな?」
「……」
俯くアルフォンスの背中にそっと触れる。
こちらを見上げる不安を含んだその瞳に微笑みかけ、私は義父へと向き直った。
「確かに、お義父さまの仰る通りです。
私たちが未熟な身であるが故に、今この状況にあるのですから」
そして、昨日オリバーと一緒に話し合ったことを口にした。
「ですからその応報として、この子は私たち二人が育てます」
「これは私たち夫婦二人で決めたことです」
オリバーも隣で続けてくれる。
「……ほう。それがどういうことを意味しているのか、本当に理解しているのかね? その子はオリバーの嫡子と認めると?」
「それが必要であるのなら……けれど、今はまだお答えできません」
「そんな曖昧な言葉で、私が納得すると思うのかね?」
ブレンドンさまの鋭い視線が向けられる。
それでも、私は向き合って言葉を口にした。
「いいえ。お二人が六年前、あの館へ赴かれたという話は夫から聞きました」
その理由までは聞き及んでいませんが、と付け加えて、私は再度アルフォンスへ視線を向ける。
「この子があなた方、どちらの血を引いているのか、あるいはいないのか、それはもういいのです。
肝心なのは、この子がエインズワース公爵の名を頼り、助けを求めてきたことでしょう? 自身を頼り伸ばされた自領の民の手を、なぜ掴まず振り払おうとするのですか?」
「……」
「お義父さま。あなたが案じているのは、誉れあるエインズワースの名に泥を塗る行為でしょう。
ですが、助けを求めるこの子の手を振りほどくことこそ、その名に恥じるものではないのでしょうか」
『私は――』
昨日、オリバーにどうしたいのか聞かれ、私は考えた。
『私は、あの子があなたの血を引いていてもいなくても、幸せになってほしい。
だって、生まれてきた全ての生命は平等に幸せになる権利があるのだから』
それは、私の主神であり子供と女性を守護する〈恵姫〉の教えのひとつ。
私はまだ出産の経験はないけれど、あの子の母親であるリアリナさんもきっとそれを願っているはずだ。
愛情を注がれているからこそ、アルフォンスはこの前の一件でライラを優先したように、他者を思いやる行動を取ったのだ。
『君らしい答えだな。恵姫も君を誇りに思うことだろう』
こんな回答はダメかと思ったけれど、オリバーは賛同してくれた。
そうして考えた、私たちの答え。
「『すべての子等に恵みの幸を』。
我が主神、恵姫の名にかけて、このアルフォンスを我が子として慈しみ育てることを、ここに誓います」
「……主神への宣誓か。大きく出たものだな」
自身が崇める主神への宣誓は尊く神聖なもの。
だからこそ、私の覚悟として示せるのだ。
「はい。だからこそ、お義父さまへ示すには十分なものかと思いまして」
溜め息ともとれる長い深呼吸の後、ブレンドンさまは静かに言った。
「どうやら、お前の選んだ伴侶は我が家訓をじでいく人らしいな」
「それが彼女の善いところです」
「?」
二人の言葉の意味がわからず首を傾げそうになった私は、ブレンドンさまの咳払いで姿勢を正したのだった。
「わかった……もう勝手にするがいい」
そう言って立ち上がったブレンドンさまは、振り返ることなく部屋を後にした。
(そ、それだけ……?)
部屋から退出するブレンドン様を見送りながら、あれ以上何も反論がないことに若干の違和感を覚えた私はオリバーの方に視線を向ける。
オリバーは小さく頷いて微笑んでいて、やっと胸に実感が湧いた。
(良かった……まずはこれで一安心……)
胸を撫で下ろした私は三人きりになった部屋で、ソファから降りてアルフォンスに目線を合わせてしゃがみこんだ。
「アルフォンス」
「……」
小さな瞳が黙ったまま私を見つめている。
私も長丁場になるかと覚悟していたけれど、それ以上に緊張していたはずなのだから仕方がない。
私は彼の小さな手に触れて、口を開いた。
「あなたを抜きにしたまま、話を進めてごめんなさい。でも、さっき言った言葉は全部本当のことよ。
勿論、あなたさえよければの話だけど……」
「……どうして? 僕、二人の邪魔じゃないの?」
「そんなこと思っていないわ。あの日、あなたが王都の邸へ来たのは、お母さんの遺言だったのでしょう?
私はあなたを生んだお母さんにはなれないけれど、これから家族として一緒に暮らしていきたいと思っているの。
アルフォンス。私たちと、家族になってくれる?」
私の手を握り返したアルフォンスの口が、小さく揺れた。
「――め……い……」
そして俯いたその目から、大粒の涙が溢れていく。
「アルフォンス?」
「……ごめんなさいっ」
驚く私たちを待っていたのは彼の謝罪の言葉だった。




