10 風が吹く
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キンバリー伯爵家主催の夜会から帰ってきたのは、夜半を大分過ぎた頃だった。
「おかえりなさいませ。旦那様、奥様」
「ええ。ただいま」
出迎えてくれたリリカとリュカに私は応える。
「ヴェロニカ様、何か嬉しいことでもあったのですか?」
コートを渡したリリカにそう問われ、私は自分の頬に手を当てた。
特段、にやけてはいないと思ったのだけれど。
長年一緒にいるだけあって、彼女には何でもお見通しのようだ。
「それがね――」
私は帰りの馬車の中で、オリバーから言われたことを二人に伝える。
「……エセットの視察に同行、ですか?」
「そうなの!」
何でも、今日の夜会で話したとある子爵夫人が私のことを大層気に入っていくれたらしく、明後日にオリバーが予定していたキンバリー伯爵領内のその子爵が治める町の視察に、私を同行させてはどうかとオリバーに口添えしてくれたそうなのだ。
最初は渋っていたオリバーも昔から付き合いのある子爵夫人の言葉を無碍には出来ず、ついには首を縦に振ってしまった、ということらしい。
(でも、いきなり〝明後日、一緒に視察に来てほしい〞ってだけ言われても、ビックリするわよ……)
私は馬車の中で聞いたオリバーの言葉と彼の表情を思い出した。
あんな罰が悪そうな表情、そうそう拝めるものじゃない。
当然、この予期してもいなかった幸運な話を私が断るわけなどなく、二つ返事で引き受けた。
「では、視察用の服をご用意しておきます」
「ええ、お願い。
……そう言えば、あの子は? 食事、きちんと摂ったかしら?」
私は二人にアルフォンスの様子を訊ねた。
今朝は夜会の用意でバタバタしていたから、アルフォンスとは廊下で姿を見かけた時にした挨拶くらいしか言葉を交わしていない。
その時の返事は小さな会釈だけで、元気がないようにも見えたのだけれど。
(一方通行というか、距離を置かれているというか……)
きっとそれは思い違いではなかった。
「はい。今朝は食堂で食事を摂られていましたが、その後はほぼ一日部屋にいたようです」
「そう……」
今日でこちらへ来て三日目。
初日の馬車酔いは治っているとしても、幼いあの子には慣れない場所に変わりはないだろう。
この屋敷にいる以上、勝手に出歩かせるわけにもいないのはわかっているけれど、ずっと部屋にこもらせているのも悪い気がしている。
「そうだわ!」
私の頭に名案が浮かんだ。
「ねえ、まだトラヴィスは厨房にいるかしら?」
私の問いにリュカが頷く。
「はい。明日の仕込みをすると言っていたので、まだいると思いますが……」
「ありがとう。着替えたら向かうと伝えてくれる?」
「かしこまりました」
逸る気持ちを抑えて、私は部屋に戻って着替えを済ますと厨房へと向かった。
うん。これは実に名案だ。
善は急げと言うし、早速取り掛からなければ。
それに視察に行けることがわかって、嬉しすぎて目が冴えてしまっている。
こんな気持ちで眠れるわけがないし、気持ちを落ち着けるためにもあれをするしかない。
私が厨房を覗くと、料理人のトラヴィスが待っていてくれた。
「奥様。お聞きしていた献立に何かご不満でも?」
「いいえ。あなたの料理はとても美味しいわ」
私は首を横に振る。
「少しの間、厨房を貸してもらえないかしら?」
「厨房を? 奥様がお使いになるので?」
もっともらしい疑問に私は頷いた。
「ええ」
「それは構いませんが、一体何を?」
「久しぶりに作りたくなっちゃって」
事情を話すと、トラヴィスは快く了承してくれた。
「――そういうことでしたら、明日の朝、型を用意しておきますよ」
「ありがとう、トラヴィス」
トラヴィスから調理場の説明を受け、それが終わると彼は下がった。
「よし! やりますか!」
腕捲りとエプロンをして私は一人意気込み、トラヴィスが保管庫から出してくれた材料を手に取る。
厨房に立つのなんていつ振りだろうか。
首都の本邸ではなるべく厨房には入らないようにしていたから、マリアンナ伯母さまのところにい時も含めると一年くらいは経っているのかもしれない。
私は久しぶりの調理を開始した。
一年振りということもあって、感覚を取り戻すには時間がかかったものの、小一時間ほどで目的の行程までを終わらせることが出来た。
そして。
(……後は、一晩寝かせるだけね)
今日は下ごしらえだけで、まだ全工程の半分も終わっていないけれど、久しぶりの作業に達成感が湧いてくる。
私は材料を保冷室にしまい、思いきり伸びをした。
後は、朝寝かせた生地を型に入れて焼き、その間に下処理が終わった果物を載せるだけだ。
「あら、どうかしたの?」
作業を一区切り終えたところで、私は厨房の出入り口からこちらを覗く小さな影を見つけた。
そこにいたのは、アルフォンスだった。
少し声が小さいものの、その顔色は大分回復しているようだ。
「えっと……の、喉が渇いちゃって……」
彼の手には、空になった水差しが握られている。
「ちょっと待ってて。今注ぐから」
私は彼から水差しを受け取り、それとは別に近場にあった木製のコップに水瓶から水を容れてアルフォンスへと渡した。
「……ありがとう、ございます」
ぎこちない言葉。
けれど、それも理解できた。
ただでさえ、知らない大人たちと慣れない道中を過ごしてきて、彼なりに疲労は溜まっているはずだ。
「そうだ。ちょうどよかった」
本当は、朝起きたら伝えようと思っていたのだけれど。
私はしゃがみこんで彼の視線に合わせると、先ほど思い付いた名案を話した。
「ねえ、アルフォンス。明日一日、私と一緒に行ってほしいところがあるの」
翌日のお昼過ぎ。
私はアルフォンスを連れて、二日目と同じユミンの孤児院へと来ていた。
孤児院の前では、マレイン司祭と子供たちが出迎えに立っているのが見える。
私は会釈し、訪問のお礼をした。
「本日は急なお願いにも関わらず、訪問の許可をくださりありがとうございます」
「滅相もありません。またお越しいただけるとは光栄です」
マレイン司祭の視線が、私の後ろに隠れたアルフォンスへと向けられる。
「あの、こちらの子は……」
私は事前に考えてきた言い訳を口にした。
「えっと、今回一緒に視察に来た知り合いの子です。
もし良ければ今日一日、院のみんなと遊んでもらえないかと思って」
今日の孤児院への訪問は、今朝視察に出掛けるオリバーに伝えて許諾ももらっている。
どうやら、昨日の帰宅時に私がリュカに厨房に行くと告げていた時点で、オリバーに私の考えは読まれていたらしい。
出掛け際に「無理はしないように」とだけ念押しされてしまったのだけれど。
(……まあ、今日はリュカがいるし、そんなことしたくても出来るわけないけどね)
後ろに控えていたリュカに視線を送る。
従者という立場のせいか、リュカは私よりも私の予定を熟知していた。
だからこそ初めは、急に決まった明日の視察について、彼は万全な準備を行うべきだと言って、ここへ来ることを渋っていた。
けれど結局、私がここ数日の暗記地獄からやっと解放されたということもあって、気分転換を兼ねて今日この時だけは大目に見てもらったのだ。
(……それに、私だけ気分転換するだなんて、悪いものね)
私の説明に、マレイン司祭は微笑んでくれる。
「そうでしたか。それは子供たちも喜びますわ」
「みんな、この子はアルフォンスっていうの。今日一日、仲良くしてね」
「はーい!」
「よ、よろしく……」
子供たちの中でも特にライラがはしゃいでいたようで、進んでアルフォンスの手を引いていた。
そして、彼女につられて数歩歩いたアルフォンスの何か言いたげな視線が合わさる。
「どうかした?」
ここへ一緒に来ないかと訊いた時は、少なからず嬉しそうに見えたと思ったのだけれど。
アルフォンスは小さく首を横に振って、口を開いた。
「……ううん。何でもない、です」
「そう。なら、いってらっしゃい。楽しんできてね」
院の裏手に行くみんなを見送った私は、マレイン司祭にもう一つの持参したものを見せた。
「これ、良かったら後で、みんなと食べようかと思って……」
「まあ、タルトですか?」
「はい。先日来た時に、先代の公爵夫人が子供たちに作っていたと伺ったものですから。
……私も、それに倣おうかと」
本当はパイを作りたかったのだけれど、調理時間の関係でこちらを作ることにしたのだ。
「まあ、それは嬉しい限りですわ。きっとあの子達も喜びます」
それから私は、孤児院の院長室でマレイン司祭と話に花を咲かせた。
特に私が修道院時代にお世話になったメイヴィス先生の話になると、とても懐かしい気持ちになっていた。
そして。
それは、しばらく経った時だった。
お茶の用意をしようかと置時計を見たマレイン司祭が口にした、まさにその時。
「先生っ! 大変なの!!」
廊下を走る音ともに院長室の扉を叩いて入ってきたのは、息を切らせたタニアとミリアだった。
その後ろからセットやカルヴィンが続く。
「みんな、どうしたの? そんなに慌てて。誰かが怪我でもしたの?」
マレイン司祭の言葉に、二人は揃って首を横に振った。
「違うの! 私たち、丘で遊んでたらねっ」
「ライラとケヴィンがいなくなっちゃったの! あと――」
タニアが私に目を合わせると、その瞳が揺らいでいた。
「――あとね……あの子もいなくなっちゃったの!」
「アルフォンスが?」
何が起こったのか、一瞬では理解できなかった。
けれど、身体はすぐに外へと向かっていた。




