09 変わる言葉
◆
クレア=ヒギンズの頭の中は、酸欠から来る頭痛以外の理由で混乱していた。
もしかしたら、これは幻覚かもしれない。
そう思って何度か瞬きをしてみたが、目の前の状況が変わることはなかった。
(なっ、なんで……)
クレアの目の前には、相変わらず〝エインズワース公爵夫人〞が立っている。
その姿は広間で遠巻きに見かけた時と一緒で、同じ空間にいることさえ、はばかられているような気がしてならなかった。
しかし。
こともあろうに、クレアは彼女に介抱されていた。
階段から転げ落ちそうになっていたところを助けられたあと、公爵夫人は通りすがった伯爵家の使用人を呼び止め、空いている客室を借りられるように手配してくれたのだ。
「――そう。あなたは、クレアさんというのね?」
「はっ、はい。公爵夫人……」
三人掛けのソファで横になっていたクレアの前に、水の注がれたコップが差し出された。
姿勢を正してそれを受け取ろうとするクレアだったが、その動きを他でもない夫人に止められてしまう。
「そんなに畏まらないで。楽な姿勢でいた方が辛くないでしょう?」
そう微笑む夫人の姿は話しに聞いていた通り、自分と数歳しか違わぬ少女の面影があった。
とはいえ。
(そんなこと、出来るわけないじゃないですかっ!!)
声にこそ出さなかったが、クレアは心の中で全力で否定した。
例え歳が近くとも、今目の前にいる女性はこの国の王党三公の一角で名門中の名門であるエインズワース公爵家の現当主に見初められた人だ。
親友のゾーイがよく話しているデルフィーノ侯爵とも血縁関係にあるというのだから、きっと聡明な方なのだろう。
伯爵領内の小さな町の管理を任されている、ヒギンズ男爵の三女として生まれた自分とは、住む世界がまるで違う。違いすぎるのだ。
「……どう? 少しは楽になったかしら?」
「はい……」
そう訊ねる公爵夫人に、クレアは頷くことしか出来なかった。
この胃から込み上げる胸やけのような息苦しさの原因はわかっている。
十中八九、普段着なれないドレスなんかを来たせいだ。
その証拠にこの部屋に入って早々、公爵夫人にドレスとコルセットの紐を緩められてから、随分と呼吸がしやすくなっていた。
「でも、一応心配だし……お家の方か誰か、呼んできましょうか?」
「いっ、いいえ! 結構ですっ!!」
クレアは全力で首を横に振った。
その後で、言葉が足らなかったことに気づき、急いで訂正する。
「いっ、いえ、お気遣いなく! 私はただ単に、場慣れ出来ていないだけですのでっ!
それに、公爵夫人にそこまでしていただくわけには参りません!」
ただでさえ会場から逃げたのが両親にばれたら叱られてしまうというのに、この上公爵夫人に介抱してもらったなどと知られでもしたら……。
(絶対に、〝家に引き込もって本ばかり読んでるからだ〞って怒られるっ!!)
最悪、大好きな本を取り上げられてしまう可能性も考えられる。
クレアの必死な表情に何かを察したか、あるいは気圧されたのか、公爵夫人はそれ以上深くは聞いてこなかった。
「……公爵夫人、か……」
そんな呟きが、ぽつりと落とされた気がした。
そして次に目があったその空色の瞳は、何か思い付いたように笑っていた。
「今ここには私たちしかいないのだから、気遣いなんていらないわ」
「ですが……」
「じゃあ、こうしましょう。今から私たちは共犯者よ」
「きょ、共犯者?」
クレアは不穏な言葉に目を瞬かせて訊ねる。
「私たちは、賑やかで華やかな夜会の会場からこっそり逃げてきた者同士。つまりは対等ということよ。
だから今この部屋にいる時だけは、私のこと〝ヴェロニカ〞って呼んで。ね? それなら良いでしょう? クレアさん」
「は、はい。公爵ふ――ヴェロニカさん」
渋々頷いたクレアに、ヴェロニカが優しく微笑んだ。
そこにあったのは公爵夫人ではなく、クレアと同世代の少女の表情だった。
「でも、お礼だけでも言わせてください。ヴェロニカさん。
先ほどは助けていただき、ありがとうございます」
クレアは背筋を伸ばし、ヴェロニカへ目礼をする。
「――あ。そう言えば、この本はあなたのものでいいのよね?」
クレアの前に差し出されたのは、古びた一冊の本だった。
「え? あっ、はい。そうです!」
その褪せたクリーム色の表紙を見ただけで、クレアは頷く。
どうやら廊下で倒れこんだ時に、持っていたハンドバックの中身を盛大にぶちまけてしまったらしい。
本を受け取ったクレアに、ヴェロニカが笑いかけた。
「その本、とても大切にしているのね」
「え?」
「だって、何度も読み返しているみたいだから」
彼女の言うとおり、この本は何度も何度も読み返していたものだった。
「はい。この本は、私の宝物なんです」
そして初めて自分で稼いだお金で買った本でもある。
「どんなお話なの?」
ヴェロニカの興味津々といった声で訊ねられた。
「えっと……ジャンルとしては恋愛小説に入ります。
なのですが、その他のジャンルも幅広く書かれているので、色々ためになるんです!
もう続編自体何巻も出てはいて、人気もあるんですが、続きを買うための貯金がなかなか貯まらなくて。
でも、本当に面白くて何度読み返しても飽きないんです! 登場人物も本当に生きているんじゃないかってくらいに感情移入できるし……。
特に主人公の恋敵役にあたるご令嬢が、これはもうすっごく格好良くって!
まさに私の憧れのそのままな女性像なんです!
一番好きな場面は、終盤で冤罪をかけられそうになった主人公を誰よりも先に――」
目を輝かせて続きを喋ろうとしたクレアは、呆気に取られたような表情を浮かべるヴェロニカを見て我に返った。
「あっ……ごめんなさい。夢中になるとつい……」
悪い癖だ。好きなことになるとついつい没頭してしまう。
これで何度、夕食の時間を過ぎて親に怒られたことか。
「いいえ。好きなことを話している時のあなたは、とても素敵よ。
その本をどれだけ好きなのか伝わってくるもの。もっと聞いていたいくらいだわ」
ヴェロニカの優しい言葉にクレアの涙腺は刺激され、つい抱えていた言葉が口をついて出ていた。
「さっきも言ったんですけど、私……こういう場にあまり慣れていないんです。
来たくないっていうか、場違い感が凄い強くて、気後れしちゃうというか……。
貴族と言っても、家は貧乏だし、周りと比べられたら勝てる気もしないし。そもそも、同じ土俵に立っちゃいけないって思うんです」
自分でもわかる卑屈さに、クレアは内心溜め息をついた。
今年十六歳となり、晴れて成人式を迎えたと言っても、彼女はまだ自分が昔思い描いていた大人のようにはなれていないことを痛感していた。
夜会に来たは良いもののずっと緊張しっぱなしで、友人に一緒にいてもらわなければろくに令嬢たちの輪に入ることも出来ないのだ。
「誰だって、初めはそういうものよ」
「……」
ヴェロニカの親切が余計、心に響く。
クレアが気後れするのには、もうひとつ理由があった。
それは彼女の内面ではなく、目に見えてわかるもの。
ドレスの違いだ。
ヴェロニカは一目で特注品だとわかるほど彼女にぴったりな夜空色のドレスを身に纏っていた。
そしてそのドレスに合う淡い青色のネットチュール越しに見える白金髪は、まるで夜空に架かる流れ星のようにキラキラと輝いている。
それに引き換え、クレアが今着ている淡紫色のドレスは長姉のお古だった。
寸法も最低限の仕立て直しはしてあるものの、胸囲が豊かだった長姉とは体格が違いすぎて泣けてくる。
こればかりは再三思い至っているように、どうしようも出来ない問題だった。
公爵家と男爵家の家格を比べること自体が間違っているのはわかるけれど、それでもこうして夜会などで相対してしまっている以上、考えずにはいられなかった。
けれど。
「……それでも今日は〝少しは頑張ってみよう〞って……思ってはいたんです」
誰に対する言い訳とも知れず、クレアの口は止まらない。
まずは同い年の令嬢たちと話をして、交遊の場を設けてみることから始めようと思った。
「初めは……友達と一緒ではあったんですけど……他の令嬢たちの輪にも入れて、話も出来てはいたんです。
でも――」
いざ話してみると、彼女たちの話題は学校や稽古の話ばかりで、徐々に話についていけなくなっていた。
会話が弾む彼女たちをよそに、クレアは次第にその輪の中に居づらくなり、会場を抜け出してしまったのだ。
貧乏男爵家の三女に生まれたクレアにとって、多額の寄付金が必要な王都の学園に入ることなんて夢のまた夢だし、習い事や趣味なんて、お金や時間に余裕がある貴族がするものだと思っていた。
現にクレアは普段、五つ歳の離れた従姉兼家庭教師のモニカに勉強を見てもらったあとは、父の伝で郵政局の配達物の仕分けの仕事をやっている。
だからこそ、仕事がない毎週第七日に出来る読書は、彼女にとって唯一の楽しみであり、安らぎを得られる時間でもあった。
けれど、同年代の令嬢たちの話を聞いて、改めて自分とは住む世界が違うと思ってしまったのだ。
特に同い年のジョスリンは、今日の夜会で立派に主催者の役割を勤めていて、その姿を見るだけで気後れしてしまいそうだった。
家柄以外に何が違うというのか。
「……変われると、思ったんです。でも、無理でした……」
成人になったら、何かが変わると思っていた。けれど、現実は早々甘くない。
「……人は、そんな簡単に変われないものよ」
不意に聞こえたヴェロニカの言葉に、クレアは思わず顔を上げた。
「え?」
「私もあなたと同じよ。
〝自分を変えたい〞〝変わりたい〞って思うことが、今でも沢山あるから。
だから言葉だけじゃなくて、きちんと行動に示さないと何も変わらないってことも実感してる」
「……」
今日初めて会ったというのに、どうしてこの女性の言葉はこんなに心に響いてくるのだろう。
まるで――
「これはあくまで私の考えだけれど、本当にあなたが〝自分を変えたい〞と思ったのなら、そう思ったときから、あなたは変わっているんじゃない?」
言葉一つ一つがクレアの頭に入ってくる。
「――だから、あとはあなた自身が行動に移すだけ。
ゆっくりでも、急いでも、ちょっと立ち止まって休憩したとしても。
自分の想い描く自分になるために動き続けるなら、あなたはきっとそうなれるわ」
どうしよう。こんなことって、本当にあるんだ――。
「って、クレアさん!? どうしたの!?」
ヴェロニカに驚きながらそう呼ばれて、クレアは自分の頬に生温い何かが伝うのに気付いた。
「ごめんなさい、偉そうなこと言ってしまって……今言ったことは全部忘れて!」
「ち、違うんです。私、なんか嬉しくなっちゃって……」
「う、嬉し……?」
戸惑うヴェロニカに、クレアは首を横に振って他意はないことを伝える。
「ヴェロニカさん、あなたって――」
その時。
「公爵夫人? こちらにいらっしゃるのですか?」
部屋の扉がノックされ、声が聞こえた。
それはジョスリンのものだった。
「私、もう行かなくちゃ。あなたはここで休んでいてね」
「はい。何から何まで、ありがとうございます」
「そうだわ」
「次また会う時までに、その本を読んでおくわね。その時はいっぱいお話ししましょう、クレアさん」
「こんなところにいたの? クレア」
いつの間にか部屋に入って来ていたゾーイに声をかけられ、クレアは現実へと引き戻された。
「小母さまたちが、あなたの姿が見えないって捜していたわよ――って、どうしたの?」
心配げな表情を浮かべて肩をすくめる幼馴染みの少女は、不思議そうにこちらを見ていた。
「ゾーイ。実は、私ね――イヴに会っちゃった」
「〝イヴ〞? あなたのお気に入りの本に出てくる主人公のこと?」
「うん。イヴみたいな人、ほんとにいるんだなって」
まるで本の世界から出てきた見たいな人だった。
優しくて、素敵で。
どんなことにも真っ直ぐで、真剣で。
たまに挫けそうになるところも。
その度に自分と向き合って立ち上がろうとするところも。
常に周りをよく見ていて、相手が悩んでいることに寄り添って……時には一緒に考えて。
何度も何度も、繰り返し読んだからこそわかる。
彼女は、この本の主人公にそっくりだった。
「誰のこと?」
首を傾げる幼馴染みに、クレアは満面の笑みで答えた。
「私の共犯者」
「はい?」




