02 父親は誰だ?
「では、これを持っていってくれ」
「はい。畏まりました」
オリバー=エインズワースは、そう言って部下の男に署名済みの書類を手渡した。
執務室の扉が閉まり、室内は一人だけになる。
オリバーは椅子の背もたれに腰を預け、小さく一息吐いた。
これで午前の業務はほぼ片付いたと言える。
あとは来週から一週間、領地の視察で不在となるため、その間に部下へ振り分ける仕事の最終調整が残っている位だ。
「……」
オリバーは机の鍵つきの引き出しを開け、そこから一冊の本を取り出した。
本は両手に収まる程の大きさで、厚さは執務室にある法学書の半分もない。
本来ならば、職場への私物の持ち込みは極力避けるべきなのだろうが、かと言って本邸に置いて何かの拍子に彼女に知られるのも気が引ける代物だった。
これを押し付けた張本人曰く、〝巷ではかなり有名なシリーズ小説〞らしい。
一度目を通してみたものの、子供の頃に読んでいた物語とは異なり、登場人物や心理描写がやたらと多い印象があった。
俗にいう恋愛小説と呼ばれる部類に入るらしい。
何の意図があって自分に渡したのかは知らないが、仕方がない。
(……持っていくしかないか)
不在の最中は、机を含めた執務室の鍵を部下に渡すことになっていた。
もしその間に引き出しを開けられでもしたら、後々の説明が面倒なことになる。
やむを得ないが、本邸の書斎に移すことにしよう。
オリバーは上着の内ポケットに本をしまい、引き出しを閉めた。
ちょうどその時。
ノックの音が執務室に響いた。
「どうぞ」
扉を開けオリバーの前に現れたのは、意外な人物だった。
「リュカか、どうした?」
舞踏会以降、宮廷へ出向くことを極力避けていたはずの彼がなぜここにいるのか。
考えても答えが出てこなかったオリバーに、リュカは静かに一通の封筒を差し出した。
「奥様からです」
「ヴェロニカから?」
ヴェロニカの護衛をしたいと自ら名乗り出た本人が、なぜ今彼女から離れているのか。
そも、リュカの素性を理解しているヴェロニカが彼を宮廷へ差し向けるその道理が、オリバーにはわからなかった。
(ウォーレンではないにしろ、他の者に任せそうだが……)
そうは出来ない事情があったということだろうか。
「……」
執務机に向かいながら開いた封筒の中には、便箋が一枚だけ入っていた。
それを開くと、そこには短い文章が一行だけ綴られている。
そしてなぜだかはわからないが、丁寧な字体とは裏腹に、その一文はオリバーに危機感を抱かせるには十分な内容だった。
『今すぐ、帰ってきて』
◆
王宮から彼が帰ってきたのは、昼を少し過ぎたくらいの頃合い。
私は有無を言わせず、夫であるオリバーをゼラインとアルフォンスが待つ談話室へと連れ込んだ。
そしてそこで彼らを前に、改めて私が知っている事情をすべて話した。
「――それで、お……私を呼び戻したのか」
人称を途中で改めたと思われるオリバーは、私の横で目頭に手を当てて、深い溜め息を吐いた。
今談話室にいるのは、ソファに腰を掛けている私とオリバー、ゼラインとアルフォンス、そしてリリカとリュカ、ニコラスを含めた七人だけだ。
リリカたちは壁際で現状を静かに見守っている。
正確に言うと、射殺すような眼差しでオリバーを睨んでいるリリカと、それを横で宥めるリュカ、そして二人を静かに傍観するニコラスだった。
(……リュカに行かせて正解だったかも)
ことを知って半狂乱になったリリカを宥めつつ、どうしたものか考えあぐねていたら、リュカが自分から宮廷へ赴くと言い出したのだ。
事情が事情なだけに、下手に邸の者へ話すわけにもいかない。
であるならば、自分が適任であると。
彼の素性がバレるリスクよりも公爵家のリスクを説かれた私は、それに従うしかなかった。
オリバーが視線を向かいのソファへと向ける。
「それで……アルフォンス、といったか。歳は幾つになる?」
「六歳、です……」
精悍な顔立ちのオリバーに圧倒されてなのか、そう答えたアルフォンスの声は若干震えていた。
三人掛けのソファにゼラインと二人で座っている彼は、まるで小さな置物のように固まっている。
そしてリリカに用意させた甘い紅茶とクッキーは、テーブルに置かれたまま、一切、手をつけられていなかった。
オリバーの視線がアルフォンスの真偽を確かめるために、その隣に座っていたゼラインへと向けられる。
すると、彼は首肯した。
「は、はい。確か六年前の〈五月の楽姫〉に生まれたので、今年で六つになるかと」
その日は〈五月の楽姫〉には珍しく、大雨が降ったというので覚えていたらしい。
これで、アルフォンスが今年で六歳というのは確かなのだろう。
そうすると、当時オリバーの齢は十六。
(まあ、子供が作れない年齢じゃない、わよね……)
私はそう思い至ってしまって、何となく、横にいるオリバーの顔を見ることができなかった。
けれど、何かが引っ掛かる。
「……残念だが、私はお前の父親ではない」
私が自分自身の胸に巣くう感情が何なのか考えていると、隣から怒気とも呆気とも取れる声が聞こえてきた。
(まあ、普通はそういう反応になるか……)
もしアルフォンスがオリバーの子供だとしたら、彼はオリバーの落胤――つまりは私生児ということになる。
妙に冷静に状況を分析していた私は、アルフォンスがオリバーの言葉を聞いて肩をびくんと震わせていたのが何とも不憫に思えてしまい、つい彼に助け船を出していた。
「あなた。グレミゼンに行ったことは?」
少なくともアルフォンスが生まれ育ったのは、エインズワース公爵領であることは間違いない。
ならば、オリバーが何かの折りにグレミゼンへ訪れ……という可能性も考えられるのだ。
当人に否定されてもなお、そんな可能性を考えてしまう程に、二人の容姿は似すぎていた。
「……」
私の発言を聞いたオリバーの眉がぴくりと動き、その顔がこちらへと向けられる。
私は、驚愕と悲愴の色を帯びる彼のその黒い瞳と視線が合ってしまい、途端に後悔を覚えた。
(……そんな瞳で見ないで)
普段の彼からはまるで想像が出来ないその表情は、見ているこちらが謝りたくなるものだった。
私は彼の手を優しく握って、他意はないことを伝える。
すると、繋いだ手が優しく、けれど固く握り返された。
「……グレミゼンはクワイン伯爵領の中心といえる町だ。視察で何度も訪れてはいるが――」
けれど何か思い当たる節があったのか、一呼吸間が空いてオリバーが続けた。
「そう言えば、母が晩年に過ごした療養先はグレミゼンの別荘だったな……」
ここで、先ほどまで私が感じていた違和感の正体の一つがわかった。
「確か、お義母さまが亡くなったのは……六年前、だったかしら?」
「ああ。六年前の暮に」
その翌年、オリバーは家督を譲り受けたのだ。
「つまり正確に言うと、六年前……あなたはまだ公爵ではなかったのよね?」
「ああ。その時の公爵は――」
「――私の父だ」
こうして今に至る、というわけだ。
(まさか……あそこでお義父さまが出てくるとは思わなかったけど……)
私たちの今日の目的地は、アドコック伯爵領内にあるエインズワース公爵家の別荘だ。
そしてその別荘こそが、先代のエインズワース公爵でオリバーの実父――つまるところ私の義父に当たる、ブレンドン=エインズワースその人の隠居先だった。
御年で四十五歳を迎えるブレンドンさまと私が初めてお会いしたのは、オリバーとの結婚式当日のこと。
その時の印象は、とても穏やかそうな方だった。
けれど後にマリアンナ伯母さまから、その温厚そうな外見とは裏腹に、爵位相続の際には当時では異例とも呼べる改革をいくつも打ち出し、成功へと導いた豪傑な人物だと伺って驚いた覚えがある。
そして約二十年勤めた公爵の爵位をオリバーに譲位してからは、アドコック伯爵領内にある公爵家の別荘にて隠居生活を送っていらっしゃるそうだ。
そんなブレンドンさまが過ごされている別荘というのが、今回の視察期間中の私たちの滞在場所となる。
元々エインズワース公爵家は、自領に幾つもの別荘を持っており、避暑や周遊の際に利用していたらしい。
それらの管理は領地と同じようにその地域を統治している伯爵家に任せているものもあれば、ブレンドンさまのように公爵家の身内が使用しているものもあるのだとか。
その中でもユミンの別荘は、現在エインズワース公爵家が所有する別荘の中でも格別に豪華とのことで、各部屋からの眺望が良いのだと本邸の家政婦長であるサニアは言っていた。
「……あれが、そうなの?」
この距離、遠巻きからでもよく見えるそれに、私は開いた口が塞がらなかった。
驚く私に、オリバーは頷いて「あと少しだ」と口にする。
ユミンの町から少し離れた郊外の小高い丘の上。
その上に、その別荘は建っていた。
深緑の植木に囲まれた、白亜の壁。
その外観からは、王都のエインズワース本邸とはまた違った荘厳さが感じられた。
「到着いたしました」
馬車を降りて迎え入れられた玄関では、多くの使用人と共に義父ブレンドンさまの姿があった。
ブレンドンさまは灰色のシャツに深緑色のゆったりとした上着を纏っていて、背中まである長い茶髪はひとつに結んで肩に垂らしている。
「遠路遥々よく来たな、二人とも」
「お久しぶりです、お義父様。
お忙しい中お出迎えいただき、ありがとうございます」
ブレンドンさまの体格はオリバーとほぼ変わらないものの、その御年なだけあって滲み出る貫禄が違う。
私は会釈をして義父へ礼を述べた。
「なに、孤独な年寄りのすることなど、さしてないんだ。
それより式以来だが、元気にしていたかな? 往路は晴れていたと思うが、長旅で疲れただろう」
出迎えた御年還暦とは思えない外見の義父は、結婚式で会った時と同じように藍色の瞳を緩ませながら、とても穏やかな表情をされている。
「食事の用意は出来ているが――ああ……そちらが、早馬のニコラスが話していた件の幼子か」
ブレンドンさまが私たちの後ろに視線を送った。
そこには、いまだに気分が良くならないアルフォンスを腕に抱くリュカがいる。
火急な要件の上に機密性を重視したオリバーは、数日前にブレンドンさまの許へニコラスを先に向かわせていたのだ。
そして、彼の容姿と私たちの様子に何かを察したブレンドンさまの眉間が、微かにひそめられる。
「……えっと、あの子は――」
訳を説明しようと口を開いた私の肩に、手が置かれる。
それは隣にいたオリバーのものだった。
私が彼へ視線を向けると、僅かな首肯が返ってくる。
そして彼は、次にブレンドンさまへと向かった。
「あなたにお訊きしたいことがあります。父上」
「……ほう」




