閑話⑤ 兄と妹
「リュカが、冷たい? あなたに?」
ある日の午後。
神妙な面持ちで私にそう言ってきたのは、リリカだった。
「あ、いえ。その、対応自体は他の方と同じなのですが……そっけないというか、避けられている様な気がして……」
リリカの話を聞くに、ここ数ヵ月の間、私に仕えている者同士での会話はあるものの、それ以上の会話がまったくない、というのだ。
「リュカに限って、それはないと思うけど……」
「ですが、邸の他の方とも、あまり関わりを持とうとしていない様で……少し心配なんです」
邸の使用人たちの間でリュカは、〝まったくもって謎の人〞という印象になっているそうだ。
確かに言われてみれば、私付きの従者である二人は私と共にいる時間が長い。
だから、他の使用人と関わる時間も限られているのだろう。
とは言え、だ。
(……変に自分の話をして、勘ぐられるのを避けているのかしら?)
この邸に来るまでの彼の経歴を知っているのは、私とオリバーの二人だけだった。
それにリュカの外見は、エルドレッド殿下の許でルーカスとして過ごしていた時とはまるきり異なっている。
だから一度も言葉を交わしたことのない者が相手なら、早々に気付かれる心配はなかった。
けれど。
彼が抱える事情はあまりに過酷で由々しいものであるため、その真相を知るのはごく一部の者だけでよいという他ならぬエルドレッド殿下の采配だった。
だから、邸の使用人や従者であるニコラスやリュカの実の妹であるリリカにでさえも、その事実は伏せられているのである。
「わかったわ。然り気無く、リュカに聞いてみるわね」
「ありがとうございます、ヴェロニカ様」
果たしてリュカは何を思ってそんな行動をとっているのか。
そして機会が訪れたのは、その日の午後のことだった。
「ねえ、リュカ」
私は来月に控えている視察の資料から目を外し、紅茶を淹れてくれているリュカへと口を開いた。
「はい。いかがいたしましたか?」
「あなた、リリカとは仲良くやっているの?」
「どうしたんです? 突然」
リュカの手が止まり、その瞳がこちらへ向けられる。
その目は明らかに私の真意を読み取ろうとしていた。
(え? もしかして、単刀直入過ぎた?)
私は慌てて取り繕う。
「えっと、ちょうど今リリカがいないし……実の兄妹らしく、仲良くしているのかな? って思って……」
「……」
ソファの前のローテーブルに、静かに紅茶が淹れられたティーカップが置かれた。
そして少しの沈黙のあと、リュカが口を開く。
「確かに私と彼女は血が繋がっております。ですが、離れていた時間が共に過ごした時間よりも長いのです。
そんな私が彼女の兄を名乗るには、おこがましいかと」
その口振りからして、言葉は嘘ではなかった。
本当に彼はリリカと距離を置いているようだ。
けれど、それに私は口を挟まずにはいられなかった。
「でもそんなことを言ったら、私だってリリカと一緒に過ごした時間は短いわ。あの子と会って、すぐに伯母さまが訊ねてこられたから……」
そして長い修道院での生活が始まるのだ。
「リリカや両親とは年に数回は会ったりしていたけど、それでもずっと少ない方だと思うもの。
でも、リリカは私のこと〝お姉ちゃん〞って慕ってくれていたし、私も本当の妹みたいに思っているわ」
今は侍女として傍にいてくれるけれど、今回の件だって私のことを信頼しているから相談してくれたのだ。
「あなたたち二人が血の繋がった家族であることは変わらないんだし、もっと一緒に――」
〝一緒にいればいい〞。
これまで一緒に過ごせなかった分、これから一緒に過ごせばいい。
けれど私の声がそう紡ぐ前に、リュカの言葉が返された。
「……そんな考え方もございますね」
「リュカ?」
その言葉の違和感に、胸の奥の警鐘が鳴る。
彼は言葉では私の考えを肯定していたものの、その様子は明らかに異なっていたのだ。
そしてリュカは目を伏せながら、自分の考えを口にする。
「ですが、どれだけ血が繋がっていようと、共にありたくない場合もございます」
「……」
そう言われて、私は「そんなことはない」とは言えなかった。
他でもない、私が出会った孤児院の子供たちがそうだったから。
孤児院の子供たちの中には、親を亡くしてきた子もいれば、親に捨て置かれた子もいた。
事情がなんであれ、両親と離れて暮らすことになった子供たちに〝血が繋がっている家族は大切にすべき〞とは口が裂けても言えなかったのだ。
あの子供たちと、リュカとリリカの関係が同じだとでも言うのだろうか。
そして私は、彼の言葉の真意を図りかねて、つい心に思ったことをそのまま訊ねてしまった。
「それじゃあ、あなたは……リリカに会いたくなかったの?」
自分のことではないはずなのに、ずきりと胸が痛む。
「……紅茶が冷めてしまいました。ただいま、新しいものをお持ちいたします」
私の質問にリュカは眉ひとつ変えずにそう答えると、微笑みを残して部屋を後にした。
扉が閉まると同時に、ティーカップの紅茶に小さな綾が生まれる。
◆
リュカは扉をそっと閉じ、厨房へと向かった。
新しい紅茶というのは、その場しのぎの言い訳に過ぎない。
『――あなたは、リリカに会いたくなかったの?』
そう言われて、咄嗟に言葉が出なかった。
(私は――)
自分がこのエインズワース邸へと来た理由は、自分を救ってくれたヴェロニカの力になるためだった。
『あなたは十分に苦しんだ。だからもう、そんな辛い顔をしないで』
あの時のヴェロニカの言葉に恥じぬ生き方をするために、彼女によって与えられた第二の〝リュカ〞としての人生は、贖罪ために生きると決めたのだ。
だが。
ヴェロニカと会ったことで、彼女のことを思い出したのも、また事実だった。
そしてこの邸で彼女と再会した時。
リュカの心に生まれた感情は、実の妹と再会できた喜びよりも、自分に対する失望の方が大きかった。
父親に当たるあの男のいいなりになっていた自分は、これまで数多くの罪を犯してきた。だからこそ、その罪を一生をかけて償わなければならない。
そんな自分に、家族などという憩いの場所が、存在があってはならないのだ。
そう決意して、初めは他人を装っていた。
しかし――
「……」
リュカが厨房に入ると、休憩中なのか使用人のテーブルで談笑をするメイドたちと目が合った。
この邸に勤める人間のほとんどはこのクウェリア国出身者で、その中で働く彼やリリカは言葉を選ばないで例えるなら浮いていた。
それだけストランテ国民の血を引く者は未だこの国に少なく、ヴェロニカの付き添いで外出した際でも影ながら奇異の目を向けられることも多い。
しかし、この邸の使用人たちはそのようなことをしてはこなかった。
流石〝王党三公〞と謳われる名門エインズワース公爵家。使用人への教育が行き渡っているということなのだろう。
「えっと……リュカさん!」
その中の一人が、リュカを見つけて訊ねて来た。
「何か?」
「リリカちゃんは一緒じゃないんですか?」
今日リリカは、デルフィーノ侯爵家に仕える養父のところに行っている。
月に一度は必ず顔を見せに行っているらしく、引き取ってくれた養父について訊かれると〝感謝している〞といつも口にしているそうだ。
そうだ。彼女には彼女の人生がある。それを今更、血が繋がっているというだけの自分が関わって良い訳がない。
「彼女は所用で外出しています。何か言伝てがあるなら伝えておきますが」
「いえ、言伝てというほどではないんですけど。
昨日、旦那様から邸の者へ共和国産の紅茶が支給されたんです。お二人の分もあるので、良かったら――」
メイドが紅茶の茶葉が描かれた小さな缶をリュカへと差し出した。
「そうでしたか。お気遣い感謝します」
リュカはそれを受け取り、愛想笑いを浮かべる。
そして手早く新しい紅茶を用意すると、再びヴェロニカの待つ書斎へと戻った。
ノックの後に扉を開けると、ソファへ座っていた彼女と目が合う。
そして開口一番にこう告げられた。
「リュカ。さっきは、あなたの想いをよく考えもせずに、勝手なことを言ってごめんなさい」
そう言って頭を下げるヴェロニカ。
「お止めください。あなたがそんなことをする必要などございません」
改めてこの主人は本当に、良くも悪くも人が善いのだと思い知らされる。
主人が一介の従者に対して頭を下げるなど、本来あっていいことではない。
しかし。
彼女のそれはそれだけ真摯にそして真剣に、一個人としての自分と向き合ってくれているのだという意思が汲み取れた。
そして、リュカの言葉でヴェロニカの顔は上げられたものの、その表情はいまだに晴れることはなかった。
「でも、その上でもう一度言わせてほしいの。あなたがリリカを避けているのは、あの娘のことが嫌いだからではないのでしょう?」
「それは……」
「言っていたの。〝心配だ〞って」
誰がなんてことはわかりきっていた。彼女しかいない。
「……リリカはね、ずっとあなたのことを捜していたのよ」
「……!?」
「私も、それを知ったのは最近なのよ。
何でも昔……ブロントに私の両親と一緒に暮らしていた時ね、自分の両親を捜していたそうなの。
育ての親だった私の両親には内緒にしていたみたいだけど、伯母さまの執事だったポールに協力してもらって、家族の手懸かりを捜していたそうよ。
結局、あなたのところまでは辿り着けなかったみたいだけれど、〝自分には兄がいた〞ってことはわかっていたみたい。
私はリリカじゃないから、あの娘の本当の気持ちはわからないわ。でも、私に相談してくれたのは、きっとあの娘の本心からよ」
今まで、彼女が自分のことをどう思っていたのかわからなかった。
ただ同じ母親から生まれただけの、僅か数年しか過ごしていない兄のことを、そこまで想えるものなのか。
「これはあくまで私の考えだから、一概には言えないのだけど……家族って、血縁や一緒に過ごした時間だけで決まるものではないんじゃないかしら。
例え血が繋がっていなくても、どんなに遠い場所で離れていても、お互いのことを想っていたら、それって立派な〝家族〞なんじゃない?
……大事なことは、お互いの気持ちがどうあるかでしょう?」
互いの気持ち。
「ですが、私は……」
罪を犯して、それを償うためにここにいる。
そんな自分を、果たして彼女は受け入れてくれるのだろうか。拒絶されないだろうか。
それを聞くのが怖く、そして恐ろしい。
「あなたの言いたいことはわかるわ。でも、どんなに辛くて目をそらしたくなることでも、話してみなければ、ずっと分かり合えないままなのよ」
そう言いながら微笑むヴェロニカの表情は、どこか確信を抱かせるものだった。
「……ヴェロニカ様」
以前は、自分に家族などという憩いの場所が、存在があってはならない。そう思っていた。
しかし。
この邸で再会した時、彼女は確かに自分のことをこう呼んだのだ。
『……リュカ兄さん?』
その時――ほんの僅かにでも〝幸福だ〞と感じてしまった。
十年以上離れて暮らしていたというのに、彼女は覚えていたのだ。
あの暗く、寂しい部屋で二人きりで過ごした幼い日々のことを。
リュカにとって、あの頃のことは叶うならばなかったことにしたい過去でもあり、何度も忘れたいと思った過去でもあった。
しかしその辛い記憶の中であっても、幼い妹の存在は救いだった。
まだ奪うことを知らない自分が、守りたいと思っていた唯一の存在。
「それでね、リュカ。ちょっとお願いがあるのだけど――」
「えっと……どうしたの? ヴェロニカ様に付いて居なくていいの?」
扉が開き、従者の部屋に戻って来たリリカと目が合った。
彼女は目を丸くして、部屋にいたリュカへ疑問と視線を投げている。
「ヴェロニカ様は、しばらくお部屋でお休みになられるとのことだ。用があれば呼鈴で呼ぶから、と言われている」
「……そう」
彼女は持っていた紙袋を寝台に置き、小さく言葉を溢した。
「それで――」
リュカは用意していたティーセットを彼女へと見せ、言葉を続ける。
「それまでの間、オリバー様からの支給品の紅茶を飲んで待つつもりなんだが……お前もいるか? リリカ」
並んで二つ用意されたティーカップを見て、リリカの目元が一瞬揺らいだ気がした。
そして頷きが帰ってくる。
「……ええ、勿論。頂くわ、兄さん」




