15 惑う蕾を手折らずに
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遡ること半時ほど前。
園芸部の展示会場である温室で、レティシアは一人開場の準備をしていた。
「……ふう」
植木鉢を見映えよくテーブルに並び終え、一息つく。
もうじき学園祭の開会式が野外ホールで始まる頃合いだ。
一般の生徒たちは招待した両親や親戚との久しぶりの再会をしていたりするのだろう。
けれど、今の彼女には来てくれる両親はおろか親族さえいなかった。
それに、クラスにいても浮いているだけ。
そう思い至ってしまったレティシアは、今日は一日この温室で過ごそうと決めていた。
だからもしここに来場者が訪れた際には、全力で花の魅力やその美しさについて説明しよう。
僅かな期待に胸を踊らせて、彼女は最後の準備に取りかかろうとした。
それが終われば、後はアランへ頼んだ種を待つだけ。
そのはずだった。
「……あら? 確かここに置いておいたはずなのに……」
温室の一番奥。
用意したテーブルの下に置いていたはずの植木鉢が見つからなかった。
昨日の夜の時点では、確かにこの場所に置いていたはずなのに、それがすべて無くなっているのだ。
レティシアは振り向いて他のテーブルの下を確認する。
けれど何度探しても、その植木鉢はどこにもなかった。
そのどれも綺麗な蕾をつけていただけに、他の鉢と見間違うはずもないのに。
(困ったわ……他の時期に育てたリリノアスはもう残っていないし……)
あるのは条件の違う環境で育てた別のものなのだが、条件が適さなかったのか、蕾はまだつけてすらいなかった。
「比較しようと思っていたのに……困ったわね」
「どうかしたのかな? レティシアさん」
考え込んでいた彼女に声をかけたのは、アンリだった。
「アンリさん。それが――」
今日はてっきり、アンリは大学部の展示で忙しいと思っていたレティシアは、偶然にも現れた彼に状況を説明する。
昨日施錠は確かにしたし、朝も不自然に解錠された形跡はなかった。
「ああ、ごめんね。それだったら、もうじき収穫の時期だと思ったから、僕の方で保管しているんだ」
そう微笑むアンリの言葉に一瞬安堵したものの、次に芽生えた疑問が独りでにレティシアの口をついて出ていた。
「あの……収穫って、なんのことですか?」
リリノアスの花は実をつけないし、第一多年草だ。
多年草の花がら摘みは花びらが萎えてきたら行うもので、蕾が開花し始める今の時期にするものではない。
眉をひそめるレティシアに対して、アンリは静かに微笑みを返すばかりだった。
そして彼は近くのテーブルにある植木鉢の花にそっと触れる。
「アンリさん……?」
一見してなんの変哲もない行動のはずなのに、レティシアはその横顔にどこか嫌な胸騒ぎを覚えた。
「――本当に、君はすごい。さすが父君の血を引いているだけのことはある」
やっと開かれた口から紡がれたのは、彼女への賛辞。
けれど素直に喜べないのは、いまだにわからない彼の行動が原因だった。
「君のお陰で、大分研究が捗ったよ」
開かれたアンリの手には、ひとつの球根が握られていた。
「それは……」
その球根は、彼女が探していたものと同じ種のものである。
「そう、リリノアスだ。でも残念ながら、まだ本物には遠く及ばない」
「――っ!?」
アンリの言い方で、レティシアは気づいてしまった。
――自分は、利用されていたのだと。
植物史において、かつてその名の由来から〝〈氷姫の宴〉事件〞という恐ろしい事件を引き起こした、忌避すべき花。
「……いつから、ですか?」
そう言葉を口にするのがやっとだった。
そんな彼女に、アンリは表情を変えずに告げる。
「〝いつから君を利用していた〞って? ははは、いつからだと思う? 君から不要になったリリノアスの処分を頼まれた時? それとも君にリリノアスの球根を与えた時?
いいや――最初からだよ」
「……」
その言葉は同時にもうひとつの可能性を孕んでいた。
彼女にアンリを紹介した人物。
その人も関わっているかもしれない、という可能性だった。
「ご明察の通り。ご存じだったよ、君の父君も」
「そんな……っ」
信じたくなかった。
けれど、これまでの事実が非情な現実を突きつけてくる。
父が犯罪に荷担していた。そして、その罪はひとつだけではなかった。
「初めは伯爵と外部との仲介を専門にやっていたんだけどね? どうせなら、利益は多い方が良いに決まっているじゃないか」
表情を変えずに、さも当然であると言わんばかりに話すアンリ。
「でももう潮時でね。伯爵も役割を終えられたようだから、いつこちらに火の粉が来るともわからない。
という訳で、ここらで僕は撤退するよ」
そして一歩ずつレティシアへと近付いてくるアンリ。
温室の奥にいた彼女に、逃げ場などなかった。
「……私はもう用済み、ということですか?」
脳裏に過るのは、自分の死。
しかし、アンリの口から出た言葉は耳を疑うものだった。
「まさか――僕は君を誘いに来たんだよ」
「……はい?」
目を丸くするレティシア。
「君が書いたリリノアスのレポート。読ませてもらったんだけど、幾つか偽物をいれているよね?」
「……」
確かにレティシアが書いたリリノアスの植生についてのレポートは、異なる条件下での発芽や育成をまとめたものだ。
しかし実際の論文とは違って学会へと提出するものではないため、悪用されて困る情報には違う数値をいれていた。
「検証の詳細は、実施した君が一番理解している。だから欲しいんだよね、君のその頭の中にある情報が」
「そんなこと、できるわけがありませんっ!」
レティシアは首を横に振り、はっきりと拒絶する。
頭は緊張と恐怖でいっぱいだったが、それでも屈するわけにはいかなかった。
大好きで大切なものを利用してまで、堕ちたくはない。
「――本当に本心からそう言えるかな? このままじゃ、君もどうなるかわからないのに」
アンリはそう言いながら、小さく溜め息を吐いた。
「え?」
「〝知らなかった〞とはいえ、君のしたことは犯罪なんだよ。
事実が公になればどうなるかぐらい、君は理解していると思うんだけど?」
〝犯罪〞という言葉がレティシアの心に重くのしかかる。
「それは脅し、ですか?」
「嫌だなぁ。これは提案なんだよ――君自身を守るための、ね」
その言葉とは裏腹に、アンリの手には鈍く光るナイフが握られていた。
二人分の足音が、静かに廊下へと溶けていく。
〈雄将祭〉だというのに、今歩いている大学部の西側の廊下には誰一人の姿もなかった。
それはここへ来る途中の廊下に『関係者以外立ち入り禁止』の看板が置かれていたからだろう。
十中八九、アンリの仕業だった。
「……」
レティシアは片手で制服のポケットに忍ばせていた麻布から〝それ〞を取り出し、来た道へと落とす。
からん。
床に落ちた〝それ〞――小さなベルジアの赤い種が僅かに音を立てた。
幸いにもこの距離では、アンリに種が落ちた音は聞こえてはいないはず。
(お願い、誰か気付いて……っ)
ここまでの道のりで、等間隔に種を落としていた。
まさか、展示で使おうと用意していたものをこんなことに使うなんて。
目印に手折ったタヤメリの花にも罪悪感を覚えつつ、今取っている行動が最善だと祈るばかりだった。
もし、誰かが不審に思ってあとを辿ってくれれば、助けを求めることができる。
(でも、その前に……)
レティシアにはどうしても聞いておきたいことがあった。
「どうして、私を殺さないんですか?」
今だって、縛られているわけでも、ましてやナイフを突きつけられているわけでもない。
アンリが自分に対して拘束を強いていない理由がわからなかった。
その小さな疑問が、今レティシア自身を動かしている。
「……さっき、その理由は話ししたはずだけど」
アンリはレティシアがレポートに書いた偽の情報ではなく、彼女の知る本当の情報が欲しいのだという。
しかし、それはおかしかった。
「リリノアスはその栽培こそ特殊ですが、誰にでも栽培出来ないという花ではありません。
植生に僅かでも知識がある者なら、私のレポートを読めばおおよその検討はつくはずです。
ましてや、あなたがその情報を売ろうとしている相手は、そういったことをしている人たちなのでしょう?」
試行回数は増えるだろうけれど、辿り着けない訳ではなかった。
しばらくの沈黙の後に開かれたアンリの口から、言葉が紡がれる。
「……これでも悪党なりに感謝をしているんだよ。君の父君にね」
「父に?」
「僕の故郷はかつて、伯爵が行った大規模な植生調査の恩恵で貧困の淵から脱したんだ。まあ、そのあと色々あって、結局今は売人になったんだけど」
自虐めいた含みのある口調でアンリは続ける。
「だからこそ、僕は伯爵についた。でも、こうなった今ではあの人の娘である君に恩を返すしかないって話」
「……」
アンリの口調はまるで自分が善行をしているとでも言いたげだった。
否定したかった。
あなたは間違っていると。犯罪に手を染めたのなら、罪を償うしか方法はないのだと。
けれど、言葉がでなかった。
先程温室で言われた言葉の意味が、何となくわかった気がして。
――〝君自身を守る〞。
その時。
「そこまでだ、アンリ=ジュネ!!」
見知った声が背後からかけられた。
振り向くと、そこにはその声の主であるアランと一組の男女が立っている。
少女と呼んだ方がふさわしいかもしれない彼女の方は、見たこともないような綺麗な白金髪をしていた。
「大丈夫!? レティシアさん!」
少女のその聞き覚えのある声に、レティシアは思わずその名を呟いた。
「……ヴェロニカさん?」




