10 咎なき蕾は痛みを知れり
レティシア=ヴィクトワール・サルテジットは、ここ最近避けていた学園の高等部の食堂へと足を向けていた。
叶うならもう一度だけ、昼間出会ったあの少女――ヴェロニカにお礼が言いたかったのだ。
俯いていた顔を上げ、食堂の入り口へと向ける。
夕食時ということもあって、食堂はかなりの生徒で賑わっていた。
それもそのはず。夕食は持ち帰りが出来る献立が多い朝食や昼食と比べて、基本食堂で摂ることを義務付けられているからだ。
(これだけ人がいれば、気付かれないわよね……?)
食堂のホールには、長テーブルが三列端から端に並べられている。
そこには学年ごとや同じ部活に所属しているであろう生徒たちが、ある程度固まって席に着いているようだった。
(……せめて、どのクラスか分かれば……)
レティシアは料理の注文をするカウンターを通りすぎ、各テーブルを歩きながら見回した。
しかし、一向に目的の彼女が見つからない中、レティシアの背後からその声が放たれる。
「あら? そちらにいらっしゃるのは、サルテジット伯爵令嬢ではなくて?」
その声に、レティシアは肩をびくりと震わせた。
まさか、今一番出会いたくない人物と出会ってしまうだなんて。
「……ハンナさん。ごきげんよう」
振り向いたそこにいたのは、同学年のハンナ=プルファー。
彼女は、隣国で盟友国でもあるヴァロネン大公国の貴族令嬢で、この学園に交換留学生として入学している人物だった。
そして今日、ヴェロニカと出会うきっかけを作った張本人でもある。
彼女の後ろには、同じ大公国から来た貴族令嬢たちが立っていた。同じように、彼女たちも今日の昼に見た顔ばかりである。
「ええ、ごきげんよう。お昼ぶりにお会いできて嬉しいですわ」
普段のハンナは、同じく大公国からの留学生である公女の御付きの一人として、彼女と行動を共にしているはずだった。
けれどその大公公女ヒルデは、今日から週明けまで外出中と聞いている。
ここは、穏便に済ませなければ……
レティシアの頭は、それしか考えていなかった。
「あの……私に、何かご用でしょうか?」
同学年で同じ貴族とはいえ、相手は同盟国からの留学生。
これ以上、自身の立場を悪くするわけにはいかない。
食事をする生徒たちの喧騒の中にあっても、ハンナの言葉は対峙するレティシアに届くには十分な距離と音量だった。
「いいえ。ですが、よくそのお立場でこの場所においでになられたものだと、私関心しておりますの」
どうして彼女たちはここまで自分に因縁をつけてくるのだろうか。
当然、白眼視される謂われはレティシア自身にはない。
「私、あなた方のお気に障ることを、してしまったのでしょうか?」
始めは、ハンナたちから向けられる言葉に、どこか刺を感じる、そんな程度だったように思う。
しかし、次第に彼女たちの態度はエスカレートしていった。
そしてついには今日、様々な不運が重なったとはいえ、彼女たちに突き飛ばされてしまったのだ。
ハンナの鳶色の瞳がギラリとひそめられる。その中には、侮蔑の色が込められていた。
「……そう。逆賊の認識がないだなんて、無遠慮にもほどがありませんこと?」
耳を疑った。
(ぎゃ、逆賊……?)
彼女は、一体何を言っているのだろう?
しかし、レティシアが首を傾げれば傾げるほど、ハンナの眼差しはさらにきついものとなっていた。
「そんなあなたが、公女様と同じ空気を吸っているだなんて、考えただけでも吐き気がします。
少しは身の程を弁えていただけません?」
何か言い返したいのに、言い返すべきなのに、言葉が出てこなかった。
レティシアのメガネの奥に潜む視界が、僅かに揺らいだその時。
不意に、ハンナたちの背後から少年の声が発せられた。
「――そこ、通りたいのだけれど、どけてくれないかな?」
振り替えるハンナたちより前に、レティシアはその人物が誰かわかって、目を丸くする。
けれどその人物の名前を口にしたのは、ハンナの方が先だった。
「ジュード殿下」
ジュード=クウェリア殿下。
この国の第二王子で、王位継承権第三位の資格を持つ人物だ。
「せっかくのシェフの出来立てな料理が冷めてしまうだろう? 君たちも、すぐに席に着いた方がいいよ」
彼の優しい口調と穏和な言葉。
けれどその紺碧の瞳の裏に含まれる牽制の色は、貴族と言えど少女であるハンナたちを怯ませるのには十分なものだった。
気付けば、食堂にいるいくつかの視線が、レティシアたちへと向けられている。
「……失礼いたします」
ハンナたちは踵を返して、今いるテーブルとは反対へと向かっていった。
その場に残されたのは、レティシアとジュード。
「……」
レティシアはハンナたちの態度を見て、固まってしまっていた。
同じ一対多の状況でこの結果の差は、きっと持って生まれたカリスマ性なのだろう、とレティシアは半ば強引に自分を納得させることにする。
「えっと、君も……」
先程の言葉の明言さとはうってかわって、何か言いたげなジュードの表情を、レティシアは汲み取れずにいた。
けれど、彼の進行方向に自分がいたことに気付き、着席の邪魔になっていたのではないかと思い至る。
「……もっ、申し訳ございませんっ」
「え?」
震えながらも絞り出した声は、果たして彼に聞こえただろうか。
けれどそんなことを気にするよりも、レティシアの頭の中は今この場所から離れることで精一杯だった。
逃げるように食堂をあとにしたレティシアの足は、寮ではない場所――園芸部の温室へと向かっていた。
勿論、毎日活動が終わったあとは施錠し、鍵は顧問の教師へと返却しているため、中に入ることは出来ない。
けれどここ数日、この時間のこの場所はレティシアが心安らげる場所だった。
入り口の反対側へと周り、ガラスの壁に背中を預ける。
今は〈六月の雄将〉の中旬。
外気は肌寒くないものの、夜風で冷えた無機質なガラスの冷たさが制服越しに伝わってくる。
一息吐くと、途端に胸の奥に虚無感が沸き起こってきた。
一体、自分はハンナたちに何をしたというのだろう。
それに、先程気にかかる言葉を、彼女の口から聞いた。
(……逆賊って、なんのこと?)
ハンナは確かにそう言った。
あの言葉に言い返せなかったのは、すべて、あの手紙を読んだからだ。
数日前に、母方の伯父に当たるベルフォード公爵から届けられた、一通の手紙。
そこには、信じられない言葉が綴られていた。
――父が、亡くなった。
一瞬で頭の中が真っ白になった。
いくら読んでもそれ以上の詳細は書かれておらず、あとは淡々と今後の事務的な処理について記されていた。
夏期休暇前までには、退寮の準備をしなければならない。
(……でも、どうして? なぜ? お父様が……?)
レティシアの父――グレゴリー=サルテジット伯爵は根っからの研究者肌で、年中研究室に籠っているせいか、身体も丈夫とは言い難い方だった。
けれど、彼女が記憶している限り、大きな病は患っていなかったように思う。
それとも、一人娘の自分にも隠すような病を患っていたというのだろうか。
「……」
思い出されるのは、最後に父にあったあの日のこと。
伯父に連れられて出向いた王城で、面会した日のことだ。
確か父は、自身が管理する植物の紛失・盗難の件について、王城で事情聴取を受けているのだと伯父より説明を受けた。
あの時は、すぐに帰ってこれるのだと思っていたのだ。
王権とは分権されているはずの学園内で起きた出来事に関して、なぜ王城で聴取が行われるのかと内心疑問に思いつつも、自分には知り得ない事情があるのだと納得させて。
それに、面会時の父からも「心配せずとも、もうじき終わる」と言われたから。
(それなのに、どうしてですかっ! お父様……っ)
負の思考が加速する。
もし、仮に父の死が、ハンナの言っていた〝逆賊〞という言葉と何か関係があったら?
もし、父が〝逆賊〞と呼ばれるに足る罪を犯したのだとしたら? その娘の自分は、一体、何をどう償えばよいのだろう。
もう、何がなんだかわからない。
信じたい言葉と信じるべき言葉が反芻されて、頭の中はごちゃごちゃだ。
頭の中で父との思い出が溢れてくるせいか、関係のない言葉が思い出の中から蘇る。
――〝でもね、レティシア。花に罪はないでしょう?〞
それは遠い記憶。
まだ幼かったレティシアにそう言って聞かせたのは、彼女の母親ライラだった。
確か、母の好きな花をプレゼントしようとして、家の温室で育てていたバラの棘で謝って指を怪我した時のことだ。
事情を知って手当てをしてくれた母は、痛い痛いと泣く幼いレティシアに、優しく諭すように言葉を紡ぐ。
植物が持つ棘や毒は、自衛のために身に付けたものなのであって、決して誰かを傷付けるために身に付けた訳ではないのだと。
植物が好きな両親の許で育ったレティシアは、当然のようにそれらに囲まれ、それらが好きだった。
どんな植物にも、人を惹き付ける魅力がある。
彼女にとって花は、ただそこに咲いていると言うだけで、元気や勇気を貰うことができる存在だった。
(どうして、今お母様のこと……思い出したのかしら? そう言えば、お父様も……)
父と面会した日。
珍しく母の話をされたことを思い出した。
既に鬼籍に入っている母のことは、普段なら絶対に自分から触れようとしないあの父が、懐かしむような口調で話す姿。
だからつい、自分も記憶の中の母のことを思い出してしまったのかもしれない。
レティシアの視界は、徐々に揺らぎ始めていた。
「……っ」
寮の門限まで、まだ少し時間がある。
もう少し落ち着いたら戻ろう。
そう思っていた、その時。
(……誰?)
ガラスの向こう――温室の入り口の扉が、かちゃりと小さく開く音が聞こえた。
そして薄暗がりの中、人影が動くのが見える。
温室のテーブルに置かれた小さなランプの仄かな灯りが、暗闇の中に灯っていた。
(もしかして、不法侵入……?)
けれどランプの微かな光では、人物の輪郭が朧気に暗闇にうっすらと浮かび上がるだけで、男女であることすらもわからない。
そしてもっとよく見ようと、レティシアが身体を動かした瞬間、ガラスの壁にわずかにぶつかり、ごんと音を立ててしまった。
「誰だ?」
温室の中から聞こえるくぐもった声は、それでもレティシアには聞き覚えのあるものだった。
ランプの明かりをこちらへと向けたその人物は、やはり彼女がよく知る人物だ。
「アンリ、さん……?」
相手もレティシアの姿に気付き、驚きの声をあげる。
「あれ? レティシアさんじゃないか。どうしたんだい? こんなところで……」
温室の暗がりの中にに立っていたのは、園芸部に技術的な支援をしてくれていた、大学部のアンリ=ジュネだった。
その優しげな風貌と、柔らかい物腰は親しみやすさを感じさせ、何かあると相談にも乗ってくれていた。
あのリリノアスの球根を譲ってくれたのもアンリで、それを今回の〈雄将祭〉での研究発表の題材にしてはどうかと提案してくれたのも彼だった。
おかげで万全な準備の中で研究を行うことができたのだ。
レティシアは温室の表へと回り、既に扉に鍵をかけていたアンリへと訊ねる。
「アンリさんこそ……どうしたんですか? 明かりも点けずに……」
彼は、レティシアの父の研究室に所属する研究員ではあるが、高等部の所属でもましてや職員ですらない。
事情を知らない他の生徒や職員に見つかれば、間違いなく見咎められてしまうだろう。
アンリは苦笑いを浮かべて、服のポケットを軽く叩いた。
「ああ。実は昼間、ここに忘れ物をしたみたいでね。取りに来たんだが、花に刺激を与えないようにと光源は最小限にしたんだ」
「そう、でしたか……」
レティシアは一、応頷いた。
けれど、今日の最後に点検した時は、それらしきものは見当たらなかったような……
「君の方こそ、今は夕食の時間だろう? 食堂に行かなくていいのかい?」
「えっと、それは……」
ああ。そこを突かれると言葉が出ない。
寮の門限まではまだあるものの、本来高等部の生徒は、食堂で過ごすべき時刻である。
そうなると、見付かれば見咎められてしまうのはレティシアも同じだった。
「……もう、戻ります」
「うん。僕もそうするよ」
暗黙の了解で、他言は無用だと頷き合う。
「おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
レティシアは一度アンリへ会釈し、踵を返して寮の方へと向かった。
「……」
歩数が増し、寮が近付くにつれて、思考が現実へと戻っていく。
きっと、同室のシャーリー=ハリスは、まだ食堂で夕食を摂っているはずだ。
彼女が戻ってくる前に、今から少しずつでも荷物をまとめておかなくては。
レティシアは歩きながら一度目を閉じ、歪みそうだった視界を振り切った。




