09 夫婦の約束
ご覧いただき、誠にありがとうございます!
大分期間が空いてしまい、申し訳ございません。
牛歩のような執筆ペースですが、完結までお付き合いくだされば幸いです。
その日の夜。
夕食後の自室で、私はリリカが淹れてくれた紅茶を一口含みながら、気分転換にと書庫から持ってきた本に目を戻した。
けれど、気もそぞろでまったく文章が頭に入って来ない。
(ああ、ダメだわ……集中できないっ)
込み上げる溜め息と疲労を、なんとか飲み込む。
レオと合流した私は、無事、オリバーが帰る前に公爵家へ戻ってこれたのだけれど……
(でも、まさかあんなところから出るなんて……)
どうやって学園の外へ出るのか知らされていない私がレオに連れられて辿り着いたのは、高等部と大学部の敷地の境にある小さな礼拝施設だった。
高等部の校舎よりも古いと思われる石造りのその施設は、学園が創設された頃よりある由緒正しいものらしい。
学園の入口とは正反対の場所だというレオの言葉に首を傾げていると、彼はなんと、礼拝堂の壁の一部を彩る織物を捲ったのだ。
驚くことに、その後ろの壁には扉があった。
運良くなのか、はたまた扉の存在が知られていないだけなのか、施錠がされていなかったその扉の奥は、地下へと続く階段に繋がっていた。
レオが用意していたランプを頼りに降りた階段の先は用水路で、学園の中から外へと流れている水の流れに沿ってそのまま直進する。
しばらくその先を歩いていくと、新鮮な空気と共に、外の川へと合流する出口に辿り着いた。
「ヴェロニカ様!」
名前を呼ぶ声が聞こえたのは、川に合流した土手の先。見上げたそこにいたのは、なんとリュカとリリカだった。
馬車で迎えに来てくれた二人に感謝し、なんとか帰宅。
――そして今に至る、というわけなのだけれど。
(……リュカを止められて、ホントに良かった……)
再会早々、リュカはレオの胸ぐらを掴み、殴り掛からん勢いだった。
仮にも貴族と使用人。
無抵抗のレオにリュカが手をあげれば、問題になりかねない。
急いで二人の間に割って入り、リリカと共にリュカなだめることに成功した私は、二人にどうして居場所がわかったのか訊ね話をそらすことにした。
リリカの話では、私たちを見失ってから思い付くところを方々探していた二人の前に貧民街の少年が現れ、一枚のメモを渡されたそうだ。
そのメモには地図と目印が描かれていて、その場所に馬車で来るようにと指示が書かれていたらしい。
実はそのメモの差出人はレオで、セレステの店にいた時に認め、それを二人に届けるよう彼女に依頼したというのだ。
(用意周到なんだか、そうでないんだか……)
もう一度紅茶を口に含み、追想を終える。
当面の問題は、ただ一つ。
『今日のことは、すべてオリバー様に報告させていただきます』
邸に戻って一息吐いた私に、リュカはそう告げた。
自分たちの不行き届きで私を危険な目に遭わせたのだから然るべき処分を受けなければならない、とそう言うのだ。
けれど、私は特に危険な目に遭っていないし、むしろレオの誘いにのってしまった私の方が数段悪い。
そして。
レオは学園での目的を詮索してほしくないと言っていた。
仮に、今日あったことすべてをオリバーに話したら、そこへの追求がない訳がない。
(……あの時のレオは、嘘を言っているような表情には見えなかったのよね)
もし、レオが秘密裏に何かをしなければならない立場だとしたら?
もし、それが実兄であるオリバーにすら言えないことなのだとしたら?
考えれば考えるほど、どつぼにはまる気がする。
(……リュカにはつい、〝私が言うから〞って言っちゃったけど……)
当のレオ本人は「義姉さんに任せるよ」とだけ言って、夕食後も早々に自室へと切り上げてしまった。
レオには恨み言を言って聞かせたいけれど、過ぎてしまったことは仕方がない。
(でも、どうやって説明すればいいの……?)
その時。
「それで、話って?」
「……えっ!?」
いつの間にか隣のソファに、書斎での仕事を終えたらしいオリバーが、腰を掛けていた。
私の心臓は跳ね上がり、声が出てしまう。
持っていたカップも危うく落とすところだった。
(……なっ、何で、知っているのっ?)
今この部屋には、リリカもリュカもいない。
つまり、私たち二人だけということで。
端からみて挙動不審な私に、オリバーは続ける。
「……朝、何か言っていただろう?」
「あ、そっち……」
内心、なんだ良かったと胸を撫で下ろそうと思っていた私は、今朝彼に言いかけた外出の誘いを思い出した。
「えっと……来週の週末って、予定空いているかなって」
後ろめたいことが何もない分、こちらの方が言い易かった。
『ユーフェミア殿下から、学園で開かれる雄将祭の招待状を頂いたの。
だからに一緒に行かない?』
そう言葉を紡ごうとしたけれど、口を開いたのはオリバーの方が早かった。
「すまない……その日は、仕事が入っていて……」
ばつが悪そうに告げるオリバー。
「先日もそうだけれど……休日なのに、お仕事大変?」
領地の視察はまだ先で、それに伴う手続きもほとんど終わっていると前に聞いたのだけれど。
私の言葉に、彼は首を横に振った。
「いいや。今回は、殿下の公務に随伴することになったんだ」
オリバーの言う殿下とは、エルドレッド王太子殿下のことだろう。
私が何か続けようとしていたことに気付いた彼が、「何かあったのか?」と訊ねてくる。
「う、ううん! ちょっと、二人で外にお出かけしたいなって思っただけ」
今度の週末は、私がユーフェミア殿下からお茶会のお誘いをいただいているため、空いていない。
そうなると、翌々週の週末まで二人で出掛ける都合が合わないのだけれど。
「わかった。次の週には必ず」
「約束する」そう付け加えて、オリバーはカップをローテーブルに置いた私の手を握った。
私のよりも大きくしっかりした手に包まれる。それでいて、その温もりは優しかった。
「ありがとう。オリバー」
誠実な人と結婚して良かった。
そう思っていた矢先。
「そう言えば、さっきは〝そっち〞と言っていたが、まだ何かあるのか?」
あー、耳聡いですね、旦那様。
「えっと、そっちの件は……その……」
途端に私は、自分で歯切れが悪くなるのを自覚する。
そして握られている手を振りほどくことなんて出来ず、私はただ顔だけ下に背けた。
今しがた誠実なことをされた手前、自分の行動を振り返る度に罪悪感で胸がいっぱいになっていく。
「言いたくなければ、それでいい。約束しただろう?」
オリバーが、その言葉を口にする。
心の天秤が揺らぐ。
私は心を決めて、オリバーへと向き直した。彼の漆黒の瞳と視線が合う。
「あなた。ごめんなさいっ」
「どうした?」
オリバーは私からの突然の謝罪に一瞬驚いたような顔をした。僅かに眉をひそめている。
私は、恐る恐る空いている方の手を挙げて白状した。
「……実は、『ひとつ目』に抵触する恐れがある件で……」
「……ほう?」
先日の舞踏会の一件が落ち着いて、私たち夫婦は三つの約束ごとを決めた。
ひとつ。夫婦間で嘘はつかない。
ふたつ。夫婦は互いに対して秘密事項を持ってもいい。
みっつ。けれど一方に秘密事項に関して訊かれた場合は、裁量に応じて素直に答える。
人間である以上、嘘をつかないで生きることは難しいと思う。
けれど、難しいことであり夫婦という関係であるからこそ、互いに相手との信頼関係を容易く壊せる嘘はつかないと決めた。
それはふたつ目に関しても同じ。
自分のすべてを包み隠さず相手に打ち明けるなんて言うことは、余程の善人でもなければ難しい。かくいう私も、墓まで持っていこうと思っている秘密の一つや二つある。
だからこそ、彼にとって話したくないことは聞かないし、聞くつもりもない。
ただ、夫婦である以上、どちらかに偽りがあるのは嫌だった。
話したくなければ〝今は話したくない〞と言ってくれさえすれば、それで問題はない。
〝今は〞という言葉が、どれ程待つ側にとって歯がゆい言葉かは理解しているつもりだ。そうすることで、互いに抱えるものが膨れてしまう可能性も確かにある。
けれどそれは〝何も知らない〞という状況よりもずっとよかった。
以前の私たちのように。それで相手の心意を誤解してしまうことは、もうしたくない。
だからこの三つの約束は、私たちが夫婦であることの誓いだった。
私は、男装をした上でレオを含めた四人で城下町に行ったこと、不可抗力とはいえ、途中で彼と二人きりになったことを話した。
勿論、やましいことなど一つもなかったと付け加える。
「――なるほど」
終始静かに聞いていたオリバーは、息を一つ吐いて呟いた。
「弟と親しくしてくれて、私も嬉しい……と言うとでも思ったのか?」
その声は、明らかに憤っている。顔は……変わっていない分、ただただ怖い。
「ごめんなさい……やっぱり、怒っている?」
「当然だ。自分の妻が、自分に断りもなく異性と二人で出掛けたと聞いて、心穏やかに出来るほど、俺は聖人君子じゃない」
そのあと、冗談とも、本気ともとれる声のトーンで続けられる。
「……謹慎期間を延長した方がいいか?」
私の喉から「うぅ」ど息が溢れた。反論すらわかない。
けれど、次の瞬間には私の肩が抱き寄せられて、気付けばオリバーの胸の中にいた。
その奥か、彼の心音が僅かに聞こえる。
ここ最近は夫婦二人きりでゆっくりと話す時間がなかったから、それだけで安心した気持ちになってしまう。
ぽつりと、言葉が落ちた。
「すまない。君があいつと――弟と、二人で出掛けたと聞いて、少し悔しくて」
だから少しだけ、意地悪なことを言ってしまったのだと。
今日のことは全面的に私が悪い。けれど、先程のオリバーの言葉は、私を咎めて言ったという訳ではなくて……
(……レオに嫉妬したってこと?)
私は、ゆっくりと顔を上げる。
上にあったその顔は、僅かに歯がゆそうにしていた。
見慣れない彼の表情に、こちらの胸がドキッとしてしまう。
私は恐る恐る、ずっと訊いてみたかった言葉を口にした。
「レオとは、仲が悪いの?」
一瞬目を見開いて、驚いたような顔を浮かべるオリバー。
「……本当に君は……」
少し考えたあとに、彼は口を開いた。
「弟は……レナードは、昔から協調性があって誰とでもすぐ仲良くなれるような奴だった。邸の使用人たちも、弟のことはよく可愛がっていたように思う」
「みんなはあなたに対して、そうではなかったの?」
私に血の繋がった兄弟はいない。ブロントで出会ったリリカは妹のような存在だけれど、姉妹と兄弟とでは感覚が違うのかしら?
「どうかな。父はともかく、母からは平等に愛されていたとは思うが、何より俺は次期当主として大切にされていた。それは可愛がるという意味と同義ではないだろう?」
「確かに」
オリバーの言葉に相槌を打つ。
「使用人からも親しくされている弟が、幼心に羨ましかったのを覚えている」
お菓子をこっそり多く貰っていたとか、一緒に遊んでいたとか、そんなことが当時羨ましかったのだと苦笑を交えてオリバーが言う。
「世渡り上手なのね、レオは」
その賜物が、外交官になるというのも頷ける。
くすくすと笑う私の肩を抱く腕に、僅かに力が込められた。
意味がわからず首を傾げていると、耳元でオリバーの囁き声が聞こえた。
「それで? そんな世渡り上手な義弟と一緒に、我が妻殿はどこに言ったのかな?」
……まだ、起こってますね? オリバーさん。
私は小声で「ごめんなさい」と呟きながら、近付けられる漆黒の瞳から目を瞑って逃れることしか出来なかった。




